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すみません。今回は久々に全般にわたり硬い話です。お付き合い下さると嬉しいです。
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「ところで、森生社長は誠心医大が治験を進めているというペア・ボンド療法という新しい治療法をご存じですか?」
片桐から思わぬ話を聞くことになった。
「いえ?」
潤がとぼけると、片桐はそうですか、とあからさまにがっかりした様子だ。
「実は森生社長のお兄さんが誠心医大のドクターとちらりと伺ったので、ご存じかと期待していたのですが……」
潤は苦笑する。
「すみません。なんせ弟の私が薬屋ですから、兄はあまり仕事の話をしないのですよ」
で、そのペア・ボンド療法とは? と潤は片桐に問うてみる。
「わたしもよく理解はしていないのです。オメガを縛る番の契約を解消できるとか?」
「……理論上は可能と聞きますよね」
潤の言葉に、片桐は首を傾げる。
「ただ、なかなか難しいと専門の先生方は仰るんですよね」
「メルト製薬のフェロモン誘発剤グランスの上市でオメガへのフェロモンコントロールの可能性は劇的に変わったという話ですけど……」
潤がそのように水を向けると、片桐は我が意を得たりと食いついた。
「そこなんですよ!」
興奮して人差し指を振る。潤は苦笑する。それは聞くべき相手が違うだろう。
「今、長谷川社長に聞けば良かったじゃないですか」
「もちろん、うかがいましたよ。あの柔和な笑顔で躱されましたけどね」
片桐が肩を落とした。
「それでは、お手元の資料の三ページ目をご覧ください」
ブラインドで日差しが遮られ照明が落とされた室内で、パワーポイントのスライドショーの画面が切り替わる。
登壇者の大西の声が、マイクを伝って広い会議室内に響わたった。
「一昨年より第三相臨床試験を進めております開発コード番号M203について、本日は進捗がございましたのでご報告させていただきます」
手元のパワーポイントの資料が薄暗い室内のスライドに写し出された。
森生メディカル品川本社の大会議室。
日比谷のホテルで開かれた新年賀詞交換会に出席した潤は、その後本社に戻り、その足で新年早々の開発進捗会議に出席していた。
医薬品と医療デバイスの生命線は、何をとっても研究開発だ。自社でどのような開発品があり、どのような開発段階なのかを社内で情報共有しておくのは大切で、森生メディカルでは隔月で進捗会議が開かれている。
研究開発の現場責任者が、進展のあった開発品について経営層だけでなく、営業やマーケティング、安全管理などの販売後の実働部隊と情報共有する。
早くからそうしておくことで、現場の医師からの問い合わせにも素早く対応できるし、発売を見通した戦略も立てやすくなる。
大西が報告している開発コード番号M203とは、社として力を注いでいるオメガのフェロモン誘発剤の薬剤と注射剤のキット製剤だ。
大規模な臨床試験を終了し、これから解析を経て厚生労働省に薬事承認申請を行う。厚労省にて審査が行われ、承認を経て薬価収載、晴れて上市となるのだ。
大西によると、今のところ、予定どおりに進捗しており、来年度の早い時期に薬事承認申請を行えればという話だった。
この薬剤が発売されれば、またアルファ・オメガ領域での薬物治療のあり方が変わると見られている。製薬会社としても、メルト製薬一強になんとか食らいつきたいところだ。
ふと、脳裏に先程の長谷川の姿が思い浮かんだ。
そういえば、大西の同級生がメルト製薬の幹部で接触してきたと聞いた。きっとあの場で、長谷川がいたことも偶然ではないのだろう。
となると、メルト製薬は、森生メディカルの動きにかなり興味がある様子だ。
その狙いがどのあたりになるのか、何に価値を見いだしているのか。やはり知るためには、自分が長谷川と一対一で会う必要があるだろうと潤は思った。
「最後に森生社長から一言、お願いします」
あらかじめ頼んでおいた通り、会議の最後に開発本部の進行役のスタッフが潤に話を向けてくれた。
いつもはこのような場所で話すことはあまりない。上の人間が各論に口を出すと、話がこじれると思うためだ。
円形の会議室にいるメンバーの注目が一斉にこちらに向く。潤は立ち上がり、マイクを受け取る。
「皆さん、お疲れさまです」
潤が挨拶すると、メンバーが無言で会釈した。
「先程、大西部長からM203の進捗が報告されましたが、ようやくここまで来ました。
現在、担当部署で厚労省との相談を通じて薬事承認申請の戦略を立てていると思いますが、このフェロモン誘発剤はこれまでのオメガの患者様のQOLを大きく変える可能性を秘めていると、社内だけでなくドクターなど医療関係者の方からも注目されています。まだまだ先はありますが、速やかな解析、そして承認申請まで持っていってもらいたいと思います。よろしくお願いします。
また、皆さんがスムーズに業務に取り組めるように、ハード面での改善は絶えず取り組んでいくつもりです。なにかありましたら、気軽に声を寄せてください。よろしくお願いします」
会議を終えて、潤が社長室に戻ってくると、江上がロイヤルミルクティと社員食堂から出前したサンドイッチを用意してくれていた。昼間に出席した新年賀詞交換会で全く食事が摂れなかったことなどすっかりお見通しだったようだ。
「社長、お疲れさまです。少し召し上がってください。午後の仕事にも差し支えがありますから」
顔色悪いですよ? と江上に指摘される。鋭い。潤も苦笑して、その好意に甘えることにした。
「賀詞交換会で、メトロポリタンテレビの片桐さんに捕まっちゃってさ」
「あの、去年の密着取材の?」
「そうそう。取材にきていたようで」
江上が用意してくれたロイヤルミルクティを一口含む。
おいしい。
好みを完全に把握していると言いたげな、絶妙な甘みが広がり、思わず口許がほころぶ。
江上が、ちゃんと食べてます? と問うてくる。
「大丈夫。食べてるよ」
確かに颯真と住居を別にしたことで、マメに料理をしてくれていた人間がいなくなり、それなりに食生活のレベルは下がった気がする。しかし、体力が資本であることは明解だし、早く調子を戻さないとならないことも十分理解している。それが少し焦りになっているとは思うが、食事はきちんと摂っている。
むしろ、問題は別のところにあるのだが、江上が気付いてなければ、特に言う必要もない。
「そういえば、尚紀はいつ退院なの?」
室内は二人きりであるため、潤はプライベートな話題に触れてみる。江上の番である尚紀は、正月三が日を外泊してからその後、再び病院に戻ると聞いていたからだ。
「治療後の検査で問題がなければ週明け早々と聞いています。元番の噛み跡はほぼ消えたので、問題はないだろういう話で……」
尚紀の主治医は颯真だ。あえて江上は言葉には出していないが、きっとこの話をしたのは颯真なのだと、潤はサンドイッチのフィルムを剥がし卵サンドをほおばりながら思う。……颯真とは年明けにちらりと会っただけだが、気が付けば毎日颯真のことを考えていた。
「……そっか。尚紀が退院して少し落ち着いたら、快気祝いしたいね」
複雑な思いを振り払い、潤がそう言うと、江上が笑みを浮かべた。
潤が即席のランチを摂っていると、社長室のドアがノックされた。応じると、姿を見せたのは開発部長の大西だった。
潤はサンドイッチをミルクティで流し込む。落ち着いたら社長室に来て欲しいと言っておいたのは潤自身だった。慌てて立ち上がると、大西に窘められる。
「社長、昼飯くらいちゃんと摂ってくださいよ」
いきなり鋭いことを言われた。
「ちゃんと待ってますんで」
そう言って大西は潤のデスクの前にあるソファに腰掛けた。とはいっても、潤は落ちつかないため、適当にランチを切り上げて、大西の目の前に腰掛けた。
「まずは、M203のキーオープン、お疲れさまでした」
潤のねぎらいに大西は少し表情を緩めた。
「でも、これからですからな。ちゃんと結果が出ているといいのですが」
潤も頷いた。臨床試験はプラセボと呼ばれる偽薬と実薬を完全に隠してランダムに投薬を割り振る二重盲検試験という方式を取っている。どれだけ実薬でプラセボとの差を出すことができ、安全性も担保されたかというのが問われてくる。
「して、お話とは」
「大西さんに、折り入ってお願いしたいことが二つあります」
「ほう」
「一つは大した話ではないです。もう一つは割と大きめで本題です」
大西は、じゃあ大した話ではない方から伺いましょうかと身を乗り出した。
「大西さんの大学時代のご友人がメルト製薬の研究開発副本部長であるという話を聞きました。その方は、長谷川社長に近い方ですか?」
大西は潤の質問に腕を組む。
「長谷川社長ですか。当然メルト製薬内部では、後継候補がいるという噂を聞きます。
ちらちら聞くのは、経営戦略本部と営業本部、そして研究開発本部にいて……うち、経営戦略本部と研究開発本部に絞られたとか。
私の友人は、その研究開発本部長に引き上げて貰った人物でしてねえ。そういう意味では近しい人物であるとは思います」
まあ、うっかり踏み込まないように、あまり互いの仕事について話さないのですよ、と大西は苦笑した。
潤は、なるほどと思う。
「じゃあ、その方を通じて長谷川社長と連絡を取って欲しいんです。もちろん内々に」
大西の顔が目に見えて、引き締まる。
「近くお会いしたいと」
潤が大西を見る。すると大西は何を問うこともなく、承知しましたと一言答えた。
「で、本題に行きましょうか」
潤が話題を変える。
「なんでしょうかね。社長に折り入ってそこまで言われると構えますな」
そんな空気をまったく出さずに、大西が軽口を叩いた。
「今度の組織改正ですが、大西さんに大役をお願いしたいと思っています」
「大役、ですか」
「具体的には、アルファ・オメガ領域の本部長に就任してほしいと考えています」
潤が十二月の取締役会で承認を得たのは、研究開発本部と営業本部の大胆な組織改正だ。具体的には研究開発本部において、医薬品の研究開発スピードの加速を狙い、領域ごとに組織を大胆に組み換えることとした。
大西には、そのアルファ・オメガ領域の研究開発を総括的にみてもらいたいと、潤は考えている。
森生メディカルはアルファ・オメガ領域の治療薬とがん治療薬に注力している。
その一翼を大西に託したいのだ。
「……おぉ、そう来ましたか」
「想像していませんでしたか?」
潤の鋭い問いかけに、大西も神妙に頷く。
「……していました、正直」
「僕としては、能力、実績、人望、何をとっても大西さんを置いていないと思っています。引き受けて頂けないでしょうか」
潤の真摯な言葉に大西は口をきつく一文字に締めた。たしかに重責であり、即答しかねるのは理解できる。
「デバイス部門を預かるにはブレーンが必要です」
大西の言うことはもっともだった。医薬品開発とデバイス開発は似て非なるものであり、やはりそれぞれにノウハウがある。医師であり、長く医薬品の研究開発に携わってきた大西だが、そのように望むのは潤も予想でした。
「もちろんです。デバイス部門の開発部長が、大西さんをサポートしてくれます。もちろん、了承はとりつけてあります」
「あら、いつの間に」
大西の意外そうな声に、潤は笑みを浮かべた。
「もちろん、本命を口説くのに、お土産なしでは心許ないので」
大西は頷いた。
「そういうことならば承知しました。そのお話、引き受けさせて頂きます」
大西が頭を下げる。潤は大西の手を取り、堅い握手を交わした。
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