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 連休明けの火曜日。尚紀が無事に退院したと、潤は江上から連絡を受けた。尚紀を迎えにいくために、江上は有給休暇を取得していたのだ。  無事に帰宅したと江上からメッセージアプリで連絡をもらうと、仕事中にも関わらず、尚紀にも退院祝いのメッセージを送る。  尚紀は、退院後そのまま江上と一緒に住むことにしたと聞く。詳しくは聞いていないが、家族とはすでにかなり疎遠になっているらしい。以前住んでいた家も、モデル事務所によって引き払われてしまっているとのことで、江上の家に身を寄せることになったという。やはり番は一緒にいるのが自然であるため、現在でも繋がりのある事務所にも了承を得ているという。 「新婚生活が始まるね!」  そうメッセージを送ると、尚紀からは照れたような返信が来て、その後に「近所になるので、潤さんとも近く会いたいです!」という、彼にしては積極的なメッセージが送られてきて、潤は気持ちがほっこりした。  これからしばらくは江上にはきちんと定時に上がって貰わねば、との思いを新たにした潤だった。  母の茗子が訪ねてきて以降、潤にとって少しだけリビングが過ごしやすい空間になった。颯真と過ごした年末の日々の濃厚な記憶が少し薄まったのかもしれない。やはりぼうっとしていると、いろいろと考えてしまうのだが、テレビを付けて賑やかにして、部屋中を明るくしていれば、ソファでも安眠できる。しかし、自室には着替えなどの必要最低限の用事以外は入ってはいない。  ただ、そんな精神的な安定も、わずかなことで揺らいでしまう危うさの中で成り立っているという自覚が、潤本人にも確実にあった。  そんな安定からの動揺は、金曜日の午後に突如やってくる。  その日、早朝から、佐賀による潤への障害行為について、現場となった社長室での実況見分と、続いて社長室で捜査員による事情聴取が行われたのだ。  なぜ早朝だったのかというと、やはり社員へのインパクトなどを考えると、役員フロアの出入りをすべてシャットアウトして、捜査員も最低限の人員で行う必要があったためだ。  潤も思い出す限り当時の状態を説明し、入念な見分が行われた。  当時のことを思うと辛い気分がこみ上げてくるのだが、誰も同席をしていなかったため、当時の音声データを活用しながら、やりとりを再現することとなった。  さらに、その後、捜査員と潤、そして弁護士が同席のもと、事情聴取が行われた。  それもまた潤の危うい安定を抉ることとなった。結局、捜査員が引き上げたのは午後三時近く。  見送ったあと、顧問弁護士に挨拶された。 「社長、お疲れ様でした。やはり精神的にしんどいものでしたよね……」  そう気遣われて、潤も小さく笑みを返した。 「仕方がないことですから、お気遣いなく。大丈夫です」  潤が諦め気分を隠してそう言うと、隣に座る顧問弁護士も少し困ったような表情を浮かべた。 「やはり、一般的に第二の性というのはベータの方には理解されにくいですね。マスコミが流すイメージが強く定着していたりしますし」  潤は曖昧な笑みを浮かべた。どう反応していいのか分からなかったのだ。  弁護士はこれから法務と打ち合わせがあるというので、そのまま階下に下がっていった。  潤も社長室に戻り、すぐに仕事を進めるつもりだったが、少し休みたいと、三十分だけ誰も通さないでほしいと秘書室に連絡を入れ、潤はチェアに身を沈めた。  あまり考えすぎるといい方向には行かないと思っていたが、それでも何事もなく仕事に邁進できるほどにダメージが少なかったわけではなかった。  潤は大きく溜息をついた。室内には誰もいないから積極的に深呼吸を繰り返して、体内の空気を入れ換えたい。  先程、事情聴取を担当した潤よりいくらか年上と思われる男性捜査官の顔が蘇る。 「森生社長は、オメガだそうですが……」  彼はセンシティブな話題を、そのように切りだしてきた。手元の資料にちらりと視線を落としてから、潤を見据えた。 「もともと誠心医大横浜病院でフェロモン治療を始められていたと聞いています」  たしかにと潤も頷く。こういうプライベートまで詳らかにされてしまうのだなとしみじみ思う。 「その治療は、薬で計画的にフェロモンを管理して、発情期を起こさせるという類いの方法ということですが」  視線を向けられて潤は頷いた。 「ええ……。私自身ずっと抑制剤で発情期を抑えてきたのですが、最近になってそのコントロールが難しくなってきたので受診したところ、主治医に一度計画的に発情期を起こして、そのサイクルを正常化させたほうがいいと診断を受けました」  その警察官は頷く。 「そうですか。そのために、すでに数種類の抑制剤と誘発剤を飲まれていたということですよね」 「はい」 「もし、仮にですよ。被疑者に薬剤を投与されなかったとしても、いずれ発情期はやってくるわけです。  被疑者に投与されたことで、時期と量は変わったわけですが、発情期がやってくることに変わりはない。それについては、いかがですか」 「……もともと発情期を起こすつもりで治療を行っていたのだから、それが数日早まっても、誰に薬剤を投与されたとしても、同じではないか、というご質問ですか」  思わず潤がはっきりと問うと、捜査員は困ったような表情を浮かべた。 「そうです。森生社長に対して酷な質問をしていると思っております」  捜査員の言葉に思わず感情を表に出してしまったと、潤は少し反省する。 「すみません。はっきり言いすぎました。  私は佐賀氏に厳罰を望んでいるわけではありませんし、できれば大事にはしたくはないと思っていますが……」  潤は思わず、自分の両腕を搔き抱いた。  あの社長室の扉の前にいた佐賀の姿を見たときの衝撃。しまったと思った。距離をとりつつ、見据えたあの姿。  扉の外から江上の声がして、佐賀が気を取られた隙に外に飛び出すつもりで腕を伸ばした。  その右腕に受けた衝撃。そして痛み。  思わずどんな声を漏らしたのか、覚えてはいないが、悲鳴に近かったと思う。  そして見下ろすと、腕に刺さっていたのは注射器で、針がずっぽり刺さっているのが分かった。そのときの驚きとショック。  何を考える間もなく、とっさに注射器を払い落としたのは辛うじて覚えていた。 「……あの時、佐賀さんと二人きりで、得体の知れない薬剤が入った注射剤を出された時の驚きと、それを打たれた痛みと恐怖は、正直、なかなか消えません」  私はそれを腕と脚に打たれました、そう言うと、捜査員は、潤の言葉に大きく頷いた。 「本当に思い出すのもお辛いことを聞いている自覚はあります」 「あの場で、佐賀さんからグランスを打たれたことによって、いつも以上に辛い発情期になったと思います。  そもそも主治医によると、私は発情期が重く、緊急用の抑制剤も聞かないタイプのようです。もともとコントロールが効きにくい発情期を数年ぶりに起こすのですから、医療的な支援が必要だったということなんです。だから、不意に襲われたあの発情期を思い出すのも、正直辛いです」  話す度に、思い出すので、精神的にも追い込まれます、と潤は正直に訴えた。 「そのときの恐怖心や痛みなどは本当にお察し致します。ただ、やはりオメガの方にとって発情期とは日常起こりうるものです。正直、ベータの私にはわかりにくく、オメガの方がそれほどに辛い発情期を過ごされることがあるとは想像もしたこともありませんでした。ただ、逮捕のためには必要なことなので、なにとぞご協力を」  その捜査員の真摯な言葉に少しだけ慰められた気がした。  しばらくして、社長室のドアがノックされ、返事をする間もなく開けられた。潤はチェアに身体を預けたままドアに背を向けていたが、そのような入室の仕方をするのは、一人しか知らなかった。  振り返ると、やはり江上。ダークグレーのスーツに身を包んだ彼は、心配そうな表情を浮かべている。 「誰も通さないでって言ったはずなんだけどな」  ぼやいたが、江上にはその言葉は通じないことも分かっている。 「やはり、キツかったようですね」  潤はその言葉に返事をする元気もなかった。  すると江上が潤のデスクまでやってきて、内線をかける。聞けば、社用車の手配の連絡だった。 「もう今日は帰ってください。顔色良くないです」 「いや、大丈……」 「大丈夫じゃないです。見てれば分かります。全ては月曜で問題ありません」  被せるようにそう言い募られて、潤も観念した。  そのまま素直に帰宅した潤だったが、自宅の玄関まで戻ってくると、とたんに身体の力が抜け、玄関先で座り込んでしまった。思わず天井を仰ぐ。丸い形の室内灯がふわりとした温かい光を放っている。思わず溜息を吐いた。思っていた以上に気を張っていて、無理をしていたようだった。ただ、体調が悪いではなく身体から力が抜けて、少し怠さがあるだけだ。必要なのは休息だろう。  力を振り絞り、立ち上がってリビングに向かう。まだ陽の残る時間帯だが、室内はひんやりとしていてエアコンを入れる。  その場で潤はスーツを脱いで、リビングのソファに畳んでいた毛布を掛け布団に包まって横になる。  緊急時を考えてソファの脇にスマホを置いたが、疲れに安堵感が加わったのだろう、そのまま意識は深くに沈み込んでいった。  不意に意識が浮上したのは、どれくらいが経ってからか。部屋は真っ暗だった。帰宅したのは夕方でまだ陽があったので、数時間は経っているのだろう。  脇のスマホが、煌々と明かりを湛え、メッセージの着信を報せていた。  時間を見ると、すでに二十時。四時間くらいは寝られたのか。今朝早かったことに加え、昨夜は緊張して眠りが浅かったことを思えば、少しは解消できたのだろうか……。  身体を起こし、メッセージアプリを起動させると、トーク通知の一番上の発信者が、松也になっていた。 「明日、大丈夫?」  そういえば、松也と出かける約束をしていた。  返信しようとトーク画面を開いてから、少し考える。  ドタキャンになるけど、断ろうか……。 「ついでに家まで迎えに行こうか?」  そう新たにメッセージが入り、潤は考えを改める。  駄目だ、ちゃんと面と向かって言わないと。  よくよく考えたら、待ち合わせ場所は横浜で、目的地も横浜。松也の自宅も職場も横浜なのだ。それを中目黒まで迎えに行こうかとは、あまりに手間でついで、とは到底に思えない。  大丈夫です、と返信した。 「平気?」  そう返信が来た。何が大丈夫で、何が平気だというのだろう。 「だって横浜ですよね? ちゃんと行けますよ」  すると、今度は松也から着信が入った。  見て見ぬふりも出来ず、応答する。 「……もしもし?」 「忙しいところ、ごめんね。俺、急かしてるね。ごめんね。なんか一人で盛りあがって」 「……いえ。いや、あの僕も少し、ついて行けてないだけで……」 「やっぱり迎えにいっちゃダメかな?」 「……悪いですから」  煮え切らない返事に、松也は少し考えている様子。 「……警戒してる?」  警戒をしていない、といえば嘘になるだろう。松也もそれをわかって聞いてきている。 「あの、母からも松也さんのことを聞いて……」 「そっか。それじゃあ、少し慎重になっちゃうかな」  僕としては、逆に公認ってことで前向きになってほしかったけど、と呟かれる。松也は積極的な姿勢を隠さなくなってきたように思う。  どんな反応をすれば正解なのだろう。  はっきり言いたいのだが、嫌だと言って納得してもらえるのだろうか。自信がない。 「あの、僕のペースもあるので」 「……そうだね。今回はお迎えを諦めよう。次回は是非させてね。それじゃあ明日」  そう挨拶をして通話が切れた。  明日。  それがどうしても潤の心に重くのしかかる。  ソファから立ち上がる。脱ぎ散らかしたスーツやワイシャツはそのままに、寝室に入って、クローゼットからスラックスとセーターを引っ張り出して身に着ける。そして、キャラメル色のダッフルコート。  スラックスのポケットに財布、コートのポケットにスマホを入れて、部屋の明かりを消す。  潤は玄関に向かっていた。

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