57 / 213

(24)

「もうここでいいよ。ありがとう」  潤はいつもの運転手にそのように声をかけて、レクサスから降りる。連絡を貰った住所はこのあたり、とスマホのメモと、近くの標識を見比べる。  約束の時間まではあと五分。遅れる訳にはいかないと、辺りを歩き始めて、目当ての表札を見つけた。 「長谷川」  住所はここだ。その表札が掲げられた門から続く壁を見ると、かなり広そうな敷地。潤は大きく深呼吸をして、インターフォンを押した。  大西と、その友人でメルト製薬研究開発副本部長の二人を介し、長谷川から連絡が入ったのは、週が明けた水曜日。潤が大西にメルト製薬に接触を依頼して二週間ほどが経ってからだった。  我ながらまどろこしいことをしたかなとは思ったが、直接連絡先も知らないのに闇雲に動くのは、周りにあらぬ憶測を呼びかねない上、さほど急ぐことでもないため、のんびり反応を待つつもりだった。それが二週間ほどで連絡を取れたというのは、想像以上に速かった。  長谷川からは面談に前向きな回答を貰い、さらに都合が合えばと前置きされた上で、週末に自宅に招待したいとの誘いを受けた。たしかに外で会えば、どのような目や耳があるか分からない。長谷川の申し出の意図を察した潤は、その誘いを有り難く応じることにした。  長谷川が指定してきたのは、土曜日の昼過ぎであった。  インターフォンからの応答に、潤は身分を明かす。するとしばらくして門が開いた。 「森生社長、わざわざご足労いただき、ありがとうございます」  出迎えたのは、黒いスーツを着た男性。聞けば長谷川の秘書らしく、風山と名乗った。  他社の社長秘書と相対する機会などあまりない。自分よりかなり年上と思われる秘書に、そのような丁寧な対応をされ、潤はおもはゆくなりながら、彼に持参した手土産を渡す。  風山は、そのまま慣れた様子で敷地内を移動し、本宅を横目に、庭の奥に設えられた茶室に潤を案内した。 「社長は、中でお待ちです」  ありがとうございますと、潤は風山に礼を言い、その茶室の引き戸を開けた。 「森生社長。どうぞお入り下さい」  にじり口から入ると、長谷川が正座していた。先日会ったロマンスグレーの髪色はそのままに、仕立ての良さそうな紺地の和装姿。先日のスーツ姿は着こなしにセンスの良さが見え隠れしていたが、和装姿は凜とした雰囲気が漂う。やはりうまく着こなしているように思えた。  茶室内は温かな空気で、炉が炊かれているらしい。 「失礼します」  潤が室内に上がると、長谷川は、いらっしゃいませと笑みを浮かべた。  狭い茶室内に流れる、澄んだような空気に、潤は思わず姿勢が伸びる。  そんな姿が無理をしているように見えたのだろうか。 「作法などは気にせず、どうぞ、お寛ぎください」  長谷川はそう言い添えた。  まさか、茶室に招かれるとは思わなかった潤だ。スリーピースを身に着けてきているが、当然ながら茶道の道具など全く持ち合わせていない。  作法については子供の頃、茗子に叩き込まれたことはあるが、それ以降茶会などに臨席したことはない。約二十年ぶりであるため、覚えているかも怪しい状態だ。  そんなこともあり、適度な緊張感のある空気が、狭い茶室内に漂う。  互いに無言。  長谷川が茶を点てるために起こす衣擦れのわずかな音がするのみだ。決して重苦しい空気ではなく、潤は長谷川が見せる一つ一つの凜々しさの漂う所作を目で追ってしまう。  このような立派な茶室が邸宅内にあり、長谷川の熟れた所作を見ていると、彼の趣味の一つが茶道なのだろうと容易に想像がつく。  経営者の中には、マインドフルネスの一環として、弓道や柔道、茶道などの「道」を嗜む人物も多いと聞く。常に緊張と決断を迫られる立場であるため、マインドを磨くには最適らしい。  視線はそのまま床の間に流れる。静かに佇む掛け軸と梅の花。亭主の気遣いが感じられる。  潤の前に干菓子が供された。小さな干菓子を口に含む。和三盆の柔らかな甘みが口に広がった。  続いて、長谷川自らが点てた薄茶が運ばれた。 「お手前頂戴致します」  潤は正座する脚の前に両手をつき、深いお辞儀で一礼する。  茶碗を手に持ち、茶碗を二回、回し、三回で頂いた。  そして飲み口を右手の指先で清め、茶碗を戻すように二回、回す。  そして茶碗を元の位置に戻した。 「美味しく頂戴致しました」  ありがとうございます、と潤は挨拶をした。  潤の作法に長谷川も満足そうに頷く。 「お若いから、作法はご存じでないと思っておりましたよ」  そう言われて、潤も少し緊張がほぐれる。 「……正直に言えば、幼少の頃に母から叩き込まれただけです。二十年ぶりなので、覚えているのか不安でしたが……」  きちんと身体が覚えていたようだ。 「そうとは思えないほどの堂々たる姿でしたよ」 「……恐縮です」  長谷川はゆったりと笑みを浮かべた。 「流石ですな、茗子社長は」  先日も思ったが、長谷川は先代社長の茗子を、随分と買っている様子だ。 「長谷川社長のご趣味が茶道とは、存じ上げませんでした」  潤がそう言うと、長谷川は小さく笑った。 「外でお会いして何時間もお話するより、この場の方がより分かり合えると思ったのですよ」  その言葉に潤も即座に頷いた。 「同感です」  長谷川は茶器を片付けると、潤の正面に正座する。 「もちろん、こんな狭い場所ですから、他人の目も耳もありません。先日、じっくりお話したいということもできるかなと思った次第です」  その真っ直ぐ見据える柔らかな瞳を、潤は少し緊張感を持って受け止めた。やはり長谷川と相対するには、場数というか、経験の差を明確に感じる。母親以上に年齢差があるため、そこは仕方がないとは思うが、経営者としては対等だ。  長谷川は背筋がぴんと伸びた正座姿で、真っ直ぐ見据えてくる。 「森生社長は、誠心医科大学病院で年末から年始にかけて治験が行われた『ペア・ボンド療法』という治療法をご存じですか?」  ここで長谷川と相対し、ペア・ボンド療法について言及された以上、とぼける必要はないと潤は判断し、頷いた。 「もちろんです。番を亡くしたオメガの新たな治療法と認識しています。その事前の薬物治療には、御社のフェロモン誘発剤『グランス』が不可欠で、それがあってこそ実現した治療法であると」  おそらく問題は、長谷川が森生メディカル側の事情をどこまで把握をしていて、何を考えているかということだと潤は思った。  長谷川は、そこまでご存じであれば、話は早いと応じた。 「誠心医科大学病院で年末年始に行われたペア・ボンド療法は、全例で成功を収めたとのことです。  この結果は早急に論文に纏められ、アカデミアでも有望なジャーナルに論文として投稿されると思います」  もちろん、それに合わせて、メルト製薬ではフェロモン誘発剤『グランス』の番を亡くしたオメガに対するペア・ボンド療法の適応拡大申請を行う予定に違いない。  メルト製薬としては、新しい治療法におけるグランスの存在を確立しておきたいところだろう。  潤は思わず尚紀の顔が脳裏を掠めた。 「番を亡くしたオメガが負う心理的、肉体的な負担は大きなものがあると聞いています。半身を失うとか、一度死ぬような苦しさを味わうとか……。  グランスはそのような患者さんに一筋の光明を与えたんだと思います。これまでにない薬剤を作り上げたという点で、米国メルト本社の着眼点や研究開発力はすばらしいと思います」  弟のような存在の尚紀が、グランスに救われたのだ。  ライバル会社の薬剤といえど、その開発力には賛辞を贈りたいと思う。  長谷川はそんな潤の言葉を、ありがとうございますと柔らかく受け止めた。 「そういえば、ペア・ボンド療法の誠心医科大学横浜病院での主任研究者は、森生颯真医師……森生社長の双子のお兄さんですよね」  さらりと出された颯真という名前に、仕事モードであるためか、潤は意外なほどに冷静に受け止めた。 「確かに。ただ、兄が中心的な役割と担っているという話は、私も何となく聞いていますが、具体的にどうこうというのは」  意図的に、江上と尚紀については言及しなかった。  長谷川は興味深げに潤に問う。 「あえて踏み込まないようにされているんですか?」  潤は頷いた。 「ええ。迷惑をかけますから。兄も同様です」    長谷川の表情が緩んだ。 「真面目な方ですね。貴方も森生先生も」  それが揶揄ではない口調だったので、潤はどう反応してよいか迷った。 「もちろん機密を扱うとなるとそれくらいの慎重さは求められます。あなた方はご兄弟でも本当にきちんとなさっている。それは信用に足るということです」  森生社長、と長谷川が呼びかける。 「はい」 「ここでお話することはすべて非公式です。いずれきちんとお話する日がくるとは思いますが、それをまず承知しておいて頂きたい」  潤は無言で頷いた。

ともだちにシェアしよう!