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「潤」
江上が控えめに呼びかけてくる。今までの自分の非礼を自覚していた。
「廉……ごめん。驚きすぎて感情的になった……」
江上は首を横に振る。
「いや、お前の反応は至極真っ当だと俺は思う。俺はお前のデリケートな部分を踏み荒らしたんだからな」
そのデリケートな部分を潤は問う。
「……颯真はいつから……?」
「さあな。俺が初めて聞いたのは出会って直ぐだけど、あいつがそう思っていたのは、もっと前からなのかも。
今度颯真にちゃんと聞いてみるといい」
さりげなく掛けられた言葉の意味を咀嚼して、涙でぐしょぐしょの顔を上げる。
今度。
思わず、潤は江上を思わず見た。
今日は何日だ?
最後に颯真に会ったのが大晦日、いや一月四日。
「もう、二週間だ。顔を見てない……。元気かな、颯真」
潤は呟く。それでも、会いたい、と言ってしまっていいのか躊躇う。
「……颯真に会わないか? 潤」
潤の気持を見透かしたような江上の言葉に潤は驚いて、思わず身体を硬くした。
「潤さん……」
尚紀が潤を支える手に力を込めてきた。
「……まだ、難しいか? 俺はお前たちは話した方がいいと思うんだが」
きっと江上は、これまでの二人の繋がりから離れているよりも、直接相対したほうが現状打開が早いと踏んだのかもしれない。
潤は江上から目をそらした。
「……分からない。僕は今、颯真に会っても、何ひとつ答えがない」
心配ではあるんだ、颯真の事が、と潤は続ける。
「……かなり激務をこなしていたと聞いていたから。でも、あの時の答えがほしいと言われても、今の僕にはまだ出せないよ……」
「颯真は、そんなお前のことだって十分分かってるだろ」
「………」
潤の沈黙に、尚紀が宥めるように腰に手を回してきた。
「潤さん、もう寝ましょう」
多分、今日はなにを考えても答えは出ないと思いますよ、と宥められた。
その誘いに潤と江上が頷いた。
「そうだな。ゆっくり休んだらいいと思うよ。どうぜ、ろくに寝れてないんだろう。今日は尚紀が添い寝をしてくれるからさ」
江上が茶目っ気のある表情を浮かべる。
「新婚なのに番を取っちゃって悪いね」
潤がそう謝ると、江上は、上司に大いなる借りを作るのも悪くはないさと笑った。
久々に自室のベッドに横になる。正直心拍数が上がり、ドキドキしていたが、すぐにベッドのとなりに尚紀が入り込んできてくれて、安堵する。
尚紀が潤の腰に手を回して抱き寄せた。同じくらいの背丈にもかかわらず、潤は尚紀の胸の中に取り込まれてしまった。
尚紀はうふふ、と嬉しそうな声を上げた。
潤が顔を上げる。尚紀はくんくんと項に鼻を寄せた。
「潤さんの。爽やかでいい香り」
フェロモンの香りを嗅いでいるのだろう。尚紀だからだろう、全く嫌な感じがしない。むしろ、彼の温かさに包まれ、香りにつつまれて安堵さえする。
「僕も尚紀の香り好き……。甘くて安心する」
すると尚紀が嬉しそうに肩を上げた。
「なんか、潤さんが可愛い……」
耳元で満足げな尚紀の声が聞こえる。一方、潤は少し不満だった。
「……情けないところを尚紀に見られてばかりだ」
「そんなことないですよ。僕の中で潤さんはとっても頼りになるお兄さんです。僕は、人生で一番しんどい時を潤さんに支えてもらったんです。だから今回は僕の番。潤さんに楽になってほしい」
潤は首を傾げた。
「……僕は、そんなすごいことを尚紀にしていないよ」
たぶん、尚紀を支えたのは江上であり颯真だ。自分は彼がペア・ボンド療法を行うわずか前に出会ったばかりで、何をしたわけではない。
尚紀は潤を抱き寄せる手に力を込めた。
「……僕ね、おそらく同年代の人と比べると結構、山あり谷ありの人生を歩んできた気がするんです」
望んでもいないアルファと番関係になり、その番と死別。さらに、番を失った苦しみと悲しみを抱えながら、その番の生前の伝でモデル業とこなしていたなると、確かに人生経験は豊富で、山も谷も経験済みと言われても納得する。
「いろいろ、それこそ酷い目にも遭いました。ただ、そういうことって自分一人のことだと思えば肝も据わるんです。ここまできてもどうにかなるかなって、多分心理的なバランスを保つため防御反応かもしれないのですが、一時はパニくるけど最後は落ち着く」
そういうものかと潤は思う。そこまで自分が追い込まれたことがない、恵まれた人生だったから。
「でも、去年のペア・ボンド療法の前はそうじゃなかった。廉さんとのことがあって、どうしてもいつものように肝が据わることがなくて、ずっと気分が浮いたり沈んだりして。
もしペア・ボンド療法を受けても失敗したら、僕は廉さんを傷つけるかもしれない。これまでも迷惑をかけてきたのに、って思ったら、メンタルはめちゃくちゃ落ちて、自分でコントロールも利かなくて、浮上する術もなくて……。
そのとき潤さんと出会って、同じオメガとして支えてもらったんですよ。だから、今度は僕の番です」
尚紀が蕩蕩と語る。
自分はそんなことをしたつもりはなかった。単に尚紀が心配だった。大切にもしたかった。颯真の番かもしれないと思ったときは少しショックだったが、尚紀が大切だったのは本当だ。
「……廉との新婚生活は……どう?」
「幸せです……。事務所とも連絡を取り始めていて、これから本格的に復帰できそうです」
すべて順調な尚紀の反応に、潤は心から安堵する。
「よかった……」
身体から力が抜けはじめた。安心したのと同時に、ぬくもりに包まれたこの環境が、自分にとって寝ることが出来る場所だと感じたためかもしれない。
「……快気祝い……したい……ね」
「……あれ? 潤さんおねむですか?」
尚紀はくすくすと笑ったが、潤の意識は安心できる場所から徐々に落ちていった。
誰かに見下ろされている感じがした。
頬に冷たい手が触れた。
「久々だ……」
しっとりと耳に馴染む、感慨深い声。その声の主になんとなく心当たりはあるが、分かりたくなくて、考えることは放棄した。身体が動かないが、気持がいいからしばらくそのまま身を委ねていたい……。
「痩せたな。戻ってない」
「お前のせいだろ」
誰かに身体を触れられた感じがした。抱き上げられたのもしれないが、よく分からないし、危険な感じもしないしまあいいかと思った。安心できる香りが漂って、何の香りだかは思い出せないが、とにかく落ち着く。
身体がそれに反応したらしい。
「脚が。ふふ、潤さん可愛い」
「きっと、本能では誰なのか、分かってるんだろうな」
その落ち着ける香りが少しだけ濃くなる。耳元でその馴染む声が息と共に吹きかけられた。
「潤、松也さんには気をつけろよ」
「いつまでそうやって抱いてるんですか?」
愉しそうな声。
「離れがたいんだ」
馴染む声。
「……可愛い」
「起きるまでは無理だけど、しばらくはこうしてたい」
「久々だしな」
聞き慣れた声。
「潤さんも安心しきってる顔してる」
「頑張ってくれてるもんな」
身体を抱き寄せて、背中をさすってくれた。
「潤、ありがとな」
颯真に抱き寄せられる夢を見た。
颯真の身体が温かい。
急激に意識が覚せいした。
気持が良いほどに目覚めのよい朝。
思わず視線を流す。
カーテンからは朝の光が漏れている。薄暗い自分の部屋。隣では尚紀が安らかな寝息を立てている。
視線を彷徨わせる。何時なのかは分からない。
スマホ。
自分のスマホはどこだろうかと潤は考える。
たぶん、昨日脱いだコートのなかにそのままあるはずだ。
そう見当を付けると、潤は眠る尚紀の隣から這い出た。
やはりスマホはリビングのダイニングチェアに掛けられたままだった。手に取りポケットを探すと、やはりスマホはここにあった。
時間を見ると、朝七時前。
ものはためしと、潤はそのまま昨日の着信履歴の一番上にある電話番号を表示して通話ボタンをタップした。
起きているだろうかと思いつつ、そのまま待つ。意外なことに、数回の呼び出し音で相手が出た。
「あ、松也さん……」
「潤君?」
おはようございます、朝早くからすみませんと潤は挨拶する。松也はすでに起きていたようで、大丈夫だよと優しく応えた。
「あの、急で申し訳ありません。今日は行けなくなりました」
単刀直入に用件を切り出す。松也は驚くでもなく、静かにどうしたの、と理由を問うてきた。
潤は、先程目が醒めて、とっさに今日は行けないと思った。直感だ。
なぜ、今日が無理だと寝起きに感じたのかは潤も分からない。ただ、本能か勘のようなものが駄目だと言っているのだ。
昨夜、江上に感情をぶちまけることで、ある種の感情の臨界点を超えた気がする。そして、尚紀に添い寝をしてもらい、香りに包まれることで潤の心は癒やされたのかもしれない。昨夜の出来事で、気持をコントロールでき、浮上のきっかけを掴んだような気がする。正直、それを松也と会うことで、再び落とす可能性があるのが怖いのかもしれない。
ここまできたらドタキャンだが、断りの連絡を入れるなら早いほうがいいと思った。きっと嫌な顔をされるだろうし、ひょっとしたら嘘だと疑われるかもしれないが、体調不良だと言い通せば、キャンセルは可能だろう。
「……実は、疲れが出てしまったみたいで……」
昨夜、江上と尚紀が見つけてくれなければ、今朝は最悪の寝起きだったと思うし、一歩間違えば風邪を引いていたかもしれないと思うと、あながち間違いではないかもなどと思う。
「そうなのか。大丈夫? 熱はあるのか?」
松也の矢継ぎ早の質問に、この人も医師だったことを改めて実感する。潤はスケジュールが多忙で昨夜も少し遅くに帰宅したので、今朝は身体が怠さを感じていると話した。
「そうか。出来れば俺が行って看病したいくらいだが……俺は颯真君じゃないからな」
松也の言葉がどこまで本心なのか分からず、潤は反応できなかった。
「……分かったよ。潤君の体調が悪いならば無理はさせられない。残念だけど今日は止めておこう」
松也は潤の想像通りにあっさりと引き下がった。
「でも、この埋め合わせは考えておいて欲しいかな」
この辺りの強引さは、やはり彼だと潤は思う。
「あの、松也さん……」
潤は言いかけて、どう切りだそうか迷う。
「なに?」
松也にこれ以上は会えないとここで言うべきかと迷った。しかし、直接プロポーズのようなことまでされていて、電話で事を済ますのはや誠意がないように思う。
やはり会って話すべきだと潤は思った。
「……いや、何でもないです。分かりました。来週、松也さんのご都合が会うときにでも……」
そういうと、松也はそれまでに体調はちゃんと戻してね、と優しかった。少し罪悪感も芽生えるが、潤はありがとうございますと礼を言う。
「松也さんも、お仕事頑張ってくださいね」
互いに挨拶をし合って、通話を終了させた。
察しのよい松也のことだ。もしかしたらすべて嘘であると察しているのかもしれない。しかし、それはそれでこちらの真意が伝わることになるので問題はない。
次に会う時には、ちゃんと松也に対して断らねばならない。
「自分にそのような気持はまったくなく、松也さんの気持を受け入れることもできない」と。
松也は果たして分かってくれるだろうか。
「潤」
気が付けば、リビングのドアに江上がいた。昨日ここを訪れた際に着ていた、ツーピースのスラックスに真っ白なワイシャツを胸元をくつろげて身に着けている。
「起きたんだ、おはよう」
「シャツは颯真のを借りた」
「うん」
「よく眠れた?」
「うん。尚紀が隣に居てくれてよく眠れたよ」
久々に颯真の夢も見た。松也との約束も無事に断れたためか、今は清々しい気分だ。
「……元気出たか?」
「……うん。昨日はありがとね」
素直に感謝の言葉も出る。廉と尚紀には助けられてばかりだよ、と潤は素直に感謝の気持を伝えた。本当に昨夜この二人に会えたのが幸いだったと今でこそ思える。
「尚紀はまだ部屋で寝てるよ。起こそうか」
江上は自室を見やる潤を、手を添えて止める。
「大丈夫。俺が行く。あいつ少し寝起きが悪いんだよ」
なるほどと潤は思う。
昨晩はともかくとして、愛おしい番との朝の時間を、邪魔するつもりは毛頭ない。
じゃあ、コーヒーを淹れるから、尚紀をよろしくねと、潤はリビングから親友を見送った。
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