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 潤は改めて尚紀を見る。  初めて会ったときは、病院の診察室の前の廊下だった。今より少し痩せていたが、溌剌とした彼の魅力は色あせていなかった。最初こそ潤は警戒したものの、彼の人懐こさと颯真への全幅の信頼感を見るにつけ、いつの間にか弟のように思うようになっていた。  そして、密かに想っていた江上への恋心が潰えた相手だったとしても、その気持ちは変わらなかった。尚紀の相手が、自分がもっとも信頼する親友でよかったと思った。その気持ちの裏側には、彼の番が颯真でなくてよかったという安堵も含まれていたが、それでも彼を目障りと思ったことはないし、むしろ彼に頼られたいと思った。  そして今、潤はこんなにも彼に支えてもらっている。  一体、彼のこの強さはどこに秘めているのだろうと思う。  カメラの前で見せる強い瞳。かつてモデルの仕事しか自分にはないといっていた彼が見せるあの表情は、たしかに彼の中には少しの衝撃では揺るがないような強さがあって、見る者を惹きつける。  あの目を生み出した尚紀のバックグラウンドには、間違いなく、以前の番の存在があるに違いないのだ。  尚紀は、山も谷も経験してきたと軽く言うが、望まない番との生活、そして同じ番の二人のオメガ。さらに発情期。考えるだけでも耐えがたい経験をしてきたに違いない。  尚紀自身はそれをどこまで昇華できているのか、正直潤には怖くて聞くことはできない。たとえ江上と結ばれても全てではないだろうと思うからだ。 「あのさ、尚紀」  潤は気を取り直して話しかける。 「前の番のことだけど、そんな男だったとは知らなくて。尚紀の中で終わったこととして昇華できているのであればいいんだけど、もし……、もしね、どうにもならずに吐き出したいことがあるのならば、遠慮せずに僕に吐き出して」  意外なことを言ったのかもしれないと潤は思う。尚紀の顔がぽかんとなっている。 「僕の話はよくて。今は潤さんの心配をしているのであって……」  尚紀の精一杯の説明に、潤は首を横に振る。 「そう、その通りすぎて何も言えないんだけど……。今の僕がこのタイミングで、尚紀に何かを言うのは大変おこがましくて、自分のことを解決してからにしろと言われても仕方ないけど……。  でも、僕は今まさに尚紀に救われてるよ。だから、尚紀がこうやって相談に乗ってくれるのは本当に嬉しい。でも、たとえ今が幸せでも、過去のどうにもならない思い出が蘇るのは辛いから」  すると、尚紀が意表を付かれたように、わずかに視線をそらして、こらえるような表情を浮かべたのだ。 「……ありがとうございます。  あのことは、正直忘れたいこともあるし、忘れちゃいけないこともあると思ってて……。  そのときが来たら、遠慮なく潤さんの助けを借りたいです」  潤は尚紀をそっと抱き寄せる。すると尚紀も抱き返してくれた。 「ありがとう。僕は尚紀のおかげで前を向ける」 「潤さん……」 「おーい。お前ら、ここでいちゃつくか。店員さんが困ってるだろ」  背後から突如かかった親友の声に、潤がそっと抱擁を解く。 「あ、ごめん。番を独占してた」  潤があっさりと謝罪する。 「いや、そういう話じゃなくて」  江上の背後には、メインのディッシュ皿を手にした店員が苦笑して佇んでいた。 「いえいえ。お料理が冷めてしまうので少し焦りましたが、何というか……癒やされました」  そうフォローした店員がメインをサーブする。  ならよかったです、と江上が余裕の笑みを浮かべる。  潤は元の席に戻り、江上は自分の席に着く。 「何いちゃつきながら話してたんだ?」  江上が尚紀に問うが、彼はにっこり笑って、僕と潤さんの秘密の話です、と答えた。  江上が冗談めかして抗議の声を上げる。 「なにそれ、俺には教えてくれなわけ」 「廉はダメ」 「ダメです」  二人同時の即答に、江上が呆れたような表情を見せる。 「ひどい。シンクロしてる」  江上の反応に、潤と尚紀は二人で笑った。 「廉はいつも颯真と内緒話してるからいいんだよ」  僕はいつものけ者だと潤が軽口を叩く。それに尚紀もうなずいた。 「そうです。だから、僕たちは僕たちの話があるんですよ」  それに、と潤が話題を引き取る。 「メインが来たからそろそろ話してもらおうかな」  潤が話の矛先を変える。 「何を?」 「僕はまだ廉と尚紀のなれそめを聞いてない」  江上が苦笑した。 「そこに戻るか」 「もちろん。んで? 中学時代は顔見知りだったんだって? 簡単には颯真から聞いてるよ?」  尚紀と江上との食事会は楽しい雰囲気のままお開きになった。  三人でタクシーを拾って、中目黒まで返ってきた時にはすでに午後十時を回っていた。駅前で江上と尚紀と別れ、自宅のドアを開けるまで、その雰囲気が潤のなかで残っていて、お酒も入っていたためか愉快な気分が続いていた。  マンションのエントランスに入り、高層階用のエレベーターに乗り込んでも、どこかふわふわした気分だ。  あんなに楽しい食事は久しぶりだった。  しかし、それも自宅の玄関扉を開けるまでだった。  誰もいない部屋に着いて、真っ暗な部屋の明かりを点けると突如、寂しさとも不安とも言い切れない何かが、背後から襲いかかってきたような気がした。  それが今までの楽しい気分とはあまりにも温度差があって、足許がうすら寒くなる。 「パートナーにならなければ親に話す」  先日までずっと頭から離れることがなかった松也の言葉が蘇る。  ずっと忘れていたけれど、これが現実だった。  身震いして、エアコンとテレビのスイッチを入れた。  テレビからはニュース番組が流れ始める。  気分を変えたい。  潤はバスルームに赴き、浴槽に温かい湯を張った。  まだ真冬の寒い時期だ。湯船に浸かると自然と身体がほぐれる。  松也のこともあるが、今日のことをじっくり考えたいという気持ちもあった。  温かい湯気が立つ湯船に肩まで浸かり、後頭部を浴槽に預けて天井を仰ぐ。  ぱちゃりと水音が響く。  大きく息を吐いた。    どうしても思い浮かぶのは、先程の尚紀との濃密なやりとり。 「僕はアルファとオメガの関係は詰まるところ本能だと思っているところがあるんです」  颯真側の、アルファである江上に、そう言われたのであれば潤も理解できた。  でも、尚紀に言われるとは思わなかった。  壮絶な過去を乗り越えてきた尚紀が至った結論。望まないアルファと番関係になり、どのような発情期を乗り越えてきたのかは知らない。三人の番のうちの一人だったという衝撃的な告白もあった。そのような関係性の中から生まれた結論であることは確かめなくてもわかる。  本能的な相性が合わなかったアルファとの発情期を経て、本能で惹かれた江上と過ごす発情期は、価値観が変わるほどだったのだろう。  思わず、先日颯真がキスマークを付けた首筋に触れる。もう消えてしまったけど。 「僕は颯真先生に賛成です。潤さんはもっと本能の声に素直になった方がいいと思う。自分の身体の声に耳を傾けてほしい。気持ちは追いついてきます」  尚紀も颯真の仲間かと思うほどに、同じことを言う。  本当に? と思う。  しかし、颯真に抱き寄せられて安堵したのは事実。先日の水曜日、社長室でもそうだった。  あの腕の中は、誰のものよりも安心できる一番の場所だと気がついてしまった。  潤は両手で顔を覆う。  あの髪をなでる優しい手。触れられているだけで、緊張感より安堵感がもたらされる。  自分は颯真の手が好きなんだ……。 「いいか。今ここを可愛がっているのは、お前を愛おしいと思っているアルファだ。酷いことはしない。怖いこともしない。落ち着け。気持ちいいことに身体を委ねろ」  辛い発情期に、治療の一環で颯真の手によって二度射精させられた。あのときも、壊れかけていた頭なのに、颯真の言葉と中を刺激する指だけが記憶に焼き付いている。 「ほら、潤さんの本能は少しずつサインを出しているんですよ。それをちゃんと聞いてあげましょう?」  なぜか、尚紀の声が被る。 「本能で番いたいと、そう思える相手にであることはとても幸せなことで、それを手放してはいけないということなんです。もし、潤さんが颯真先生との発情期を過ごすことでとても幸せだったのならば、忘れられないのなら、それを逃してほしくない」  先日は、耳を愛撫されながら、こう囁かれた。 「俺はお前が結論を出すまで待つ。  お前には選択肢を与えた。それを選ぶのはお前で、俺はそれに従う」  入ってくる声はとても心地よくて、うっとりとした。颯真はいつも自分に寄り添ってくれる。何も言わなくても。  颯真を受け入れなければ失ってしまうというのであれば、自分は迷わないのだろう。たとえそれが兄弟としても。 「俺は何があっても潤を守るし、何があっても味方だ」  そう言われたのは、もう十五年近く前。  その、颯真の力強い言葉に、不安と絶望で強ばっていた身体の力が抜けた。腰に回された手の感触、密着した体温の心地よさがよみがえる。  僕の人生において、颯真の存在がないことは考えられない。彼の言葉が行動が、自分に希望と勇気と力を与えてくれた。 「おまえは与えられる快楽に素直であればいい。それがアルファに抱かれるオメガの特権だ。  どれだけ乱れても、俺が受け止めてやるから安心しろ」  あんなふうに言われて抱かれて。  どう思った?  嫌悪感なんてまったくなくて、オメガとしてアルファを受け入れていた。  そう、本能で颯真に惹かれていたのだろう。  あの時から身体は気が付いていた。  認めてしまえば、楽になるのかもしれない。  だって、そんなことを知らない頃から、くんくんと颯真の香りを嗅いでいた自分がいる。アルファとオメガのフェロモンは体臭にも含まれる。颯真の香りは好きだった。 「知ってる」  それが、颯真の答えだった。  俺も潤の香りが好きだぞ。……ずっとな。  その言葉にぞわりと官能が動いた。 「潤さん、一度、颯真先生の香りに身も心も委ねてほしいんです。そうすれば、どうするかはたぶん潤さん自身がわかると思う」  颯真の香り。少し緊張する。  潤は湯船から立ち上がり、湯の栓を抜く。ゴゴゴ……と音を立てて、湯が抜けていくのをわずかに確認して、バスタオルを手に取る。  身体と髪を拭き、寝間着に着替える。風邪を引かぬようにドライヤーで髪を手早く乾かし、バスルームを出た。  これから確かめることへの覚悟は決まっていた。

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