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 潤は本気で首をかしげた。 「なんだろう」  これまで尚紀とはいろいろなことを話してきたが、思い当たることがなかった。  尚紀が少しテーブルに身を乗り出す。 「あの……。廉さんからこの間、潤さんを颯真先生に会わせたって聞きました」  しかし尚紀の問いかけは少し躊躇いがちだ。 「……あ。あー」  潤も思い当たる。うっかりしていた。  それはつい先日の水曜日のこと。潤は会社で契約している医務室の産業医に社長室への往診をお願いしたいと話したのに、上司の指示を華麗に無視した江上の独断により、やってきたのは颯真だったという、あの一件だ。尚紀には、ことの顛末として江上が話したのだろう。それに違和感はない。  よくよく考えたら、江上が颯真以外に往診依頼をするとは思えない。だから、自分の人選ミスだ、完璧に。  潤は苦笑した。 「あれ。廉にやられちゃってねぇ……」  しかし尚紀は真剣に聞いてきた。 「潤さん、大丈夫でした……?」 「大丈夫?」 「ええ。あの、廉さんと潤さんと颯真先生の仲に僕が口を挟むのは、本当におこがましいことだと思っているんですけど……。でも、この間、潤さんは、もう颯真先生のことを、あまり触れられたくない感じだったから……」  その言葉に潤は胸が温かくなる。 「僕を心配してくれたんだ?」 「あの……ごめんなさい」 「なんで謝るの」 「僕も、廉さんが必要だと思ったから、そうしたのはよく分かっているんです。でも、潤さんにとっては多少強引だったかもしれないなって……」  自分よりも付き合いが長い江上の判断に水を差すようで、躊躇いがあるのだろう。  確かに江上の判断は間違っていなかった。このような多少強引なことがなければ颯真と相対することなどできなかったと思っている。しかし、尚紀はそれでも自分を心配してくれている。気持ちに共感し、寄り添ってくれるその真心が、涙が出るほどに嬉しかった。 「同じオメガだから……僕を心配してくれたんだね」  潤の言葉に、尚紀が首を横に振る。 「そうではなくて……、潤さんは僕の……お兄さんみたいな人だから……」  心配だったんです、と言った。  潤は思わず席を立ち、そのまま尚紀の隣、江上が使っている椅子に腰掛ける。そして彼の手を取った。 「尚紀、ありがとう。僕は大丈夫。  ……たしかにすごく驚いて、最初はとっさに逃げられないかなって思ったけど……。尚紀の番はやっぱり僕たち兄弟を分かってるんだなって思ったよ」  潤は思い出す。あの颯真の目を。そして、自分がプレゼントとして贈ったネクタイの柄、オメガの腕時計を。そういうものを、颯真はあえて身に着けてきたのだろう。  自分が何者であるのか、畏怖の対象ではないと潤に実感させるために。 「……颯真とは、話せばより分かり合える部分もあったよ。これまで僕たち双子は話さなくても理解できる部分も多くあったけど、こればかりは話したほうが良かったみたい」  彼の優しさや本音は、おそらく相対して話さないと見えてこなかったと潤は思う。 「颯真は、颯真だった」  まぎれもなく自分の双子の兄だった。これまでずっと一緒に生きてきた片割れだった。 「僕も気づくことがあった。変わらないものがある一方で、諦めないとならないこともあるなって」  尚紀の大きな瞳が、心配そうに揺れる。 「どういうことですか……?」  どう説明すればよいかと少し潤は思案する。 「……会ってみて、僕を自分の番だと言い放った颯真と、いつもの颯真が、ようやく繋がったっていうか。僕と颯真の過去は変わらない。でも、これから変わっていかざるを得ない部分もあるのだろうって思う」  どんなに望んでも、年末の発情期以前に戻ることはできないのだと実感した。 「颯真先生にそう言われたんですか?」  尚紀の問いかけに潤は首を横に振る。 「いや……。なんかそう感じたんだ。僕は基本的に颯真を好きだから、彼を拒絶できない。  でも、颯真は僕をもう弟としては見ていないんだ。オメガとして扱ってくる。兄弟としての関係は心地よかったのに。正直、意図はわかっていても戸惑う……」  俯く潤の頬に、尚紀の手のひらが躊躇いがちに触れる。 「拒絶できない潤さんは……、颯真先生がオメガとして扱ってくるのが、しんどいんですか?」  潤は少し躊躇いながらも顔を上げて、首を横に振る。 「ううん……。そこまでは。それに、これまで以上に颯真との距離が近づいて、安堵している部分もあるんだ」  潤は、さらに迷った。この言葉を尚紀に言うか。しかし、彼は自分より様々に経験豊富であることは分かっている。あのときはとっさに躱してしまったが、もしかしたら、自分に、より良いアドバイスをくれるかもしれない。 「あと……、颯真には本能の声に素直になれって言われた」  この言葉に素直に頷けなかったのが尚紀にはわかったのだろう。  こう問うてきた。 「潤さんは、それになんて答えたたんです?」 「……感覚に流されたくない。ちゃんと真剣に考えるからって」  尚紀は頬に当てていた手を背中に伸ばし、とんとんと慰めるように優しく叩いてくれた。 「僕にとって、颯真はとても大事な存在だけど……。アルファとしてどうなのかって、気持ちが固まらなくて……」    これまで自分の第二の性と向き合ってくることもなく、ここまできてしまった自分には、本能の声を聞けといわれても、情けないことによく分からないのだ。  颯真の手から繰り出される安心感は、おそらくほかの人間からは得られないものだ。あの腕の、胸の温かみも。髪を撫でるときの、背中をとんとんと叩かれる安堵感も。  無条件で力が抜けて、すべてを委ねたくなる。  それが本能で互いを求め合う関係だからこそなのか。潤にはわからない。  さらに松也のこともあって、潤は混乱していた。  そんな感情を尚紀に伝えようといろいろと考える。  おそらく、肉親としての愛情と、番としての愛情の区別がつかないというのもあるのかもしれない。  潤がそう説明すると、尚紀は少し考える。 「もし、ということで想像してくださいね。潤さんは、もし颯真先生に番ができるってなったとしたら、どう思いますか?」  唐突な質問に潤が驚く。 「え」 「三択です。A、嫌だ。B、寂しい。C、嬉しい。さあ、どれですか?」  直感で、と尚紀が急かす。 「え、ええっと。全部きた」 「きた?」  思わぬ回答だったのだろう。尚紀に問い返される。苦笑しながら潤は頷いた。 「実は僕、尚紀の番は颯真に違いないって思っていた時期があって。多分、それと同じでしょう。  気づいたときは、喜ばしいことだって思った。颯真にそういう存在ができたことは良いことだって。それはCだよね。今思えばそう思おうとしていたんだと思う。寂しいなんて口が裂けても言えないから、喜ばしい、嬉しいって気持ちで蓋をしていた。  でも、颯真と尚紀が一緒にいるのを見ると、少し寂しいって気持ちがわき上がってきた。  そして、尚紀の番が実は廉だと分かって、安心して僕は気がついた。……多分、嫌だったんだ」  潤の告白を聞いて、尚紀は笑った。 「もう潤さんの中で、颯真先生の番がほかにいたら嫌って感情があるじゃないですか。それは兄弟というより、番としての気持ちが強い……独占欲じゃないですか?」  独占欲。  尚紀が潤の目をじっと見つめる。 「……潤さん、僕は颯真先生に賛成です。潤さんはもっと本能の声に素直になったほうがいいと思う。頭だけで考えないで、もっと自分の身体の声に耳を傾けてほしい」  気持ちは追いついてきます、と尚紀は言う。 「そういうもの?」  潤の疑問に、尚紀はそういうものですと珍しいほどに明快に断言した。 「あの。端的に聞きますけど、発情期を抜けるために、颯真先生に抱かれて……どうでした?」  それをここで聞く? と潤は尚紀を見るが、彼はいたって本気だった。 「教えて」  潤は観念した。 「……幸せだった」 「うん」 「僕は、オメガとして初めてだったけど、あんな満たされた気分になったのは……初めてだ」  颯真の香りに煽られ、気持ちも身体も解放された。彼にすべてを委ねて、受けて止めてもらって、あの発情期は終わった。  あの感覚は、これまで男性として女性を抱いた経験とは全く違う。もっと動物的で感覚が深くて、気持ちが良くて本能に近い行為だった。でも、例えようのない幸福感で満たされる。  発情期にアルファとオメガが交わるということが特別であると、誰に言われずとも理解できる経験だった。 「ほら。潤さんの本能は少しずつサインを出しているんですよ。それをちゃんと聞いてあげましょう?」  尚紀の言葉は優しい。 「僕はアルファとオメガの関係は詰まるところ本能だと思ってる部分があるんです……」  その口調が少し変わったと潤は思った。 「僕の前の番は酷い人だったと話したことありますよね。その男……夏木という男だったんですが、僕は彼に半ば無理矢理番にされました。発情期に襲われて項を噛まれたんです」  思いがけない告白に目を見張る。たしかに、望んで番になったわけではないとは聞いていた。 「彼には僕のように無理矢理番にしたオメガが他に二人いました」  アルファは発情期のオメガを抱いて項を噛めば番にできる。それは一人ではないとされている。それでも現代日本だ。何人も妾としてオメガを持つなんて倫理的にどうかしている。驚きを隠さない潤に、尚紀が苦笑した。 「それをやってしまう男でした。僕は二番目の番で……。僕は気持ちも身体も夏木という男を許していませんでしたから、発情期のストレスはすごかった。幸せで満たされた感覚なんてなかったです」  番として、本能的な相性にも問題があったのかもしれません、と尚紀は言う。 「だから、廉さんと繋がったときは……これまで僕が知っていた発情期とは全く違っていて……。涙があふれてきました」 「尚紀……」 「僕が言いたいことは……本能で番いたいと、そう思える相手に出会えることはとても幸せなことで、それを手放してはいけないということなんです。もし、潤さんが颯真先生と発情期を過ごすことでとても幸せだったのなら、忘れられないものだったのなら、それを逃してほしくないんです。  僕のような辛い思いを、潤さんにはしてほしくない」  まあ自分の話は相当に特殊ですけどね、と尚紀は笑みを浮かべる。彼が、「オメガ同士の話」とした意図が分かった気がした。これは江上に聞かせられない。 「……そうかな」 「そういうものです」  山も谷も経験済みという、尚紀の答えははっきりとしている。 「潤さん、一度、颯真先生の香りに身も心も委ねてみてほしいんです。そうすれば、どうするかはたぶん潤さん自身がわかると思う」  颯真の香り。幼い頃からあの香りは好きだった。颯真も潤の香りを好んでいて、第二の性が判明するまで、互いによく香りを嗅ぎ合いっこしていたが、その意味を深く考えたことなどなかった。 「颯真の香り……好きだな」  潤の呟きに尚紀がにっこり笑う。 「ならぜひ」  その明快な一言に釣られて、潤もそうだね、と頷いた。

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