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 松也との一件があった翌日の金曜日は、幸い江上が不在がちで、彼に異変を悟られることなく、潤は一日をなんとか乗り越えることができた。  これが目の前にいるのが颯真だったら違ったかもしれない。幸い、江上と松也の間に面識がなく共通点が少ないため、潤もあのことを頻繁に思い出さずに済んだ。  そして、さらに日付を跨いだ土曜日になると、前日に仕事で集中することができたせいか、あのやりとりを冷静に分析できる程度に、潤も気持ちを立て直すことができていた。    ピリッと引き締まった空気のなかで、カメラのストロボがパシャ、パシャと軽い音を立て、白色が瞬きする。 「ナオキ、視線を少しこちらにくれる?  ……うん、いいね。  そうそう、少し強めにね」    午後二時、潤は、江上とともに港区神谷町のハウススタジオにいた。尚紀のモデルとしての仕事復帰に立ち会う約束をしていたたためだ。  このような本格的な撮影現場に立ち会うことは、公私ともにほとんどなく、潤にとっては新鮮な経験だ。  森生メディカルは一般用医薬品を取り扱っていないため、一般向けの広告撮影やCM撮影などはないし、医療用医薬品の広告や宣伝は、厳格に規制されているため、モデルを起用するといったような派手なことは、ほとんどしない。  ショービジネス業界はほとんど知らない潤であったが、それでもこの撮影が、最小限の規模で行われているという印象はあった。  この撮影に立ち会っているのは、潤と江上のほかに、尚紀と付き合いが長いというモデル事務所のスタッフが一人と、今回の企画をした女性ファッション誌の編集者とライター、さらにカメラマンとスタイリストのみ。  カメラの前に立つ尚紀は、いつもの彼とは別人のようだった。少し日本人離れしたような彫りの深い中性的な顔立ちはそのままなのに、纏っている雰囲気が違っていて、端的に言えば格好いい。  意志が強そうなのに、煌めいている魅力的な視線。強気で色気のある表情に、女性であればため息が漏れるに違いない。  いや、女性ではない潤も、ため息を漏らしている。なにしろ、以前車窓から見とれた巨大広告の「ナオキ」そのままで、彼が目の前にいるのだ。  興奮して思わず江上をバシバシ叩こうとしたら、彼は電話で中座していた。  カメラの前の尚紀は、素肌の上に白いシャツを纏い、下はシンプルなデニムパンツ姿。ほっそりとした華奢な体型が映える。ボタンを申し訳程度に留めたシャツからは肌が露出されていて、首には、オメガが自衛で着けるチョーカーを巻いていた。  オメガ用のチョーカーは、番がいないオメガにとっては項を守るための自衛用のアクセサリーだ。現在は、自衛として着けている人はあまりいない。フェロモン抑制剤が発達し、薬である程度コントロールできるため、見た目でオメガと判別されやすいもので自衛する必要がなくなったためだ。それでも、おしゃれとして着ける人もいて、現在ではほぼファッションとして定着している。  最近では、数年前に放映された、アルファとオメガの運命の番をテーマにした連続ドラマが大ヒットし、その時にヒロインのオメガが着けていたチョーカーが大ヒットするという現象が起きた。以来、ベータがファッションとしてオメガ用のチョーカーを着けることも多くなり、現在ではそれを着けていることがイコールでオメガであるとは限らないほどにファッションとして浸透しているらしい。  潤自身は、一目でオメガと知れるチョーカーは着けた経験が全くない。  随行したモデル事務所のスタッフは尚紀がモデルとして活動を始めた頃から面倒を見てくれているという、庄司君江という五十代の女性だった。江上から紹介された。  彼女によれば、ファンの間では尚紀がオメガであるのはもちろんのこと、番持ちであることも受け入れられているらしい。彼が前の番の噛み跡を隠さず晒していたためで、ファンの間でも有名だったという。 「そういうありのままの姿が魅力的だったのでしょうね」  君江はレンズの前に立つ尚紀を眺めてしみじみと話す。 「ただ、今回の復帰で項の噛み跡が変わっていることにファンの方も気がつくはずです」  それゆえ、今回の尚紀の復帰作は、その噛み跡……番の証をテーマにした企画という。  隠すことなく堂々と、生まれ変わった自分を見てほしいというのが、尚紀の願いだというのだ。  今回の撮影は女性誌で見開き複数ページにわたる大きな企画だという。モデルとして売り出し中に特集を組んでもらったことがある雑誌で、編集部と尚紀サイド双方に思い入れがあったこともあり、実現したとのこと。  企画は「告白」をテーマにしており、新たな番を得て復活したことを「告白する」構成になっているらしい。  前半にチョーカーを着けたショット、後半にチョーカーを外したショットを配し、その間にインタビュー記事を挟み込みむという構成。新たな番を得たからこそ復帰できたという経緯、そして将来を語る内容だという。  世間一般の常識としては、オメガは生涯でただ一人のアルファを番とするとされている。  尚紀が、もしそのような内容を語るならば、それはかなりセンセーショナルで、それだけで話題になりそうだ。  スマホを手にした江上が戻ってきた。昨日はほとんど社内で不在にしており、今日は何度か電話を取るために中座をしている。  おそらく先日、潤が依頼したオルムという団体について調査を進めているのだろうと思う。 「これは掲載はいつなんですか?」  潤が君江に問う。  順番としては、ペア・ボンド療法の論文が学術誌に掲載されてから、この企画が世に出るのだろう。しかし、もしかしたらこれがペア・ボンド療法が世の中に認知されるきっかけになるのかもしれないと思った。  潤の予感は当たっていたようで、今回の雑誌の掲載時期は学術誌の掲載時期と完全に歩調を合わせており、企画自体が内密なのだという。この撮影が最低限の人数で行われている意図を潤も理解した。  掲載は春以降になるらしく少し先だが、それでもいいと言ってくれた媒体があることに、モデル事務所や尚紀も感謝しているという。 「だって、ナオキが表紙を飾ると売り上げが上がるんですよ」  企画側の編集者が笑った。 「でも、またナオキが戻ってきてくれて本当によかった」  君江が安堵の吐息を漏らし、隣に立つ編集者も頷いた。 「本当に、江上さんのおかげ。ありがとうございます」  潤の隣に立つ江上に視線を向けた。  江上は小さく首を振る。 「いえ、俺は……。  でもここまで戻ってこれると思っていなかったので、俺自身も感慨深いです」 「……そういえば、僕は廉と尚紀のなれそめを聞いたことないな」  潤がそう茶化すと、江上は笑った。 「惚気つきでいいなら、いくらでも話すぞ」  潤も、望むところ、と笑って返した。  撮影はその後順調に進み、陽が傾く時刻にはすべての撮影が完了して、チェックは後日、ということになった。  潤と尚紀と江上の三人は一行と別れ、そのままタクシーに乗り込み、東麻布の一軒家のイタリアンレストランに移動した。  昔、潤がMRとして活動をしていた頃に先輩に教えてもらった隠れ家風レストランで、懇意にしてもらっていたドクターや他社のMRとの飲み会などでよく利用していた店だ。もちろん、江上も颯真も連れてきたことはない、潤だけが知る店である。  ガラス張りの二階建て構造の店内は温かい明かりが漏れている。尚紀はタクシーから店の前に降り立ったとたんに歓声を上げ、素敵なお店ですね! と潤を振り返った。  エントランスで予約している旨を伝えると、そのまま二階の個室に案内される。  その個室も、白い壁に黒壇のテーブルとコントラストが効いたモダンな雰囲気。柔らかく暖かい明かりのなかで、壁には小さな額に入った風景画がさりげなく飾られ、テーブルに添えられた一輪挿しのアネモネの花が揺れている。  席に着くと、まず温かいおしぼりが供された。  そして、テーブルにセッティングされていたグラスに、ウエイターがシャンパンを注ぐ。潤が予約時に銘柄指定で押さえておいたものだった。 「お料理は森生様からシェフのおまかせと伺っております」  食べられないものはないよね? と潤が確認すると、江上の隣に座る尚紀が、少し緊張した面持ちで頷いた。  大丈夫です、と潤が頷くとウエイターが一礼して退出した。 「尚紀、復帰おめでとう」  潤がグラスを取り、そう言うと、尚紀が唇を少しとがらせて、潤んだ目で潤を見る。 「潤さん……」 「今日の尚紀は本当に格好良かったよ。惚れちゃうくらい。あの場に立ち会えて、僕は本当によかった」  江上に視線を移す。 「ここまで回復して安心したし、何より僕の大事な親友の番になってくれて、本当に嬉しいんだ。改めて……幸せになってね」 「潤さん……。ありがとうございます」  三人でグラスをかち合わせて乾杯した。  三人で楽しく食事が進む。ブルスケッタに前菜のサラダにスープ、尚紀はモデルながらも、次々と料理を胃に収める。あまり太らない体質で、トレーニングはするもののダイエットはあまりしないらしい。  パスタが終わったタイミングで、ふたたび江上のスマホが鳴った。潤と尚紀に断って、中座する。  それと入れ違いに店員がパスタ皿を片付けにやってきた。 「今日は廉さん、忙しいそうですね……」  江上が出て行った先を見て、尚紀が呟く。潤は素直に謝るしかない。 「ごめん、僕が先週指示した仕事がわりと面倒だったみたいで」  すると、尚紀が驚いたように両手をかざして手を振った。 「いえいえ! 違います! お仕事なら仕方ないですよね」  それに、と尚紀が言葉を繋ぐ。尚紀がまっすぐに潤を見据えた。 「僕、実は潤さんと二人きりで話したかったんです。  廉さんには申し訳ないけど」  その言葉に潤は驚く。 「なに? 秘密の話?」  冗談めかして問いかけると、尚紀が笑って答えた。 「そうです。オメガ同士の秘密の話」 

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