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「来週月曜日にまた会おう」  潤は、松也とそのような約束を交わして別れた気がするが、記憶が定かではなかった。  それくらい、戸惑っていて、記憶が錯乱していた。  気がつけば、潤は自宅の玄関に帰宅した姿のまま、革靴も脱がずに座り込んでいた。おぼろ気に記憶にある、次の約束を交わしたあと、どのように松也と別れ、ここまで辿り着いたのか、潤自身あまり記憶にない。  身体の力が抜けるような倦怠感に襲われ、呆然としていた。  腕時計を見ると、すでに日付が変わろうかという時刻になっており、極寒の時季に玄関先で呆けていたせいか、足許はもちろん、身体中が冷えきっている。    手はかじかんで冷たく、感覚がなくなっている。  ようやく潤は部屋に上がり、エアコンのスイッチを入れる。コートを脱いで、スリーピースからラフな部屋着に替えた。 「一時の過ちであるということならば、君は俺の手を取るべきだ」  ジャケットをハンガーに掛けながら、ふと松也の決定的な一言が脳裏に蘇り、思わず手が止まる。  彼が救済として差し伸べたこの一言は、潤にとっては酷く残酷な響きを纏っていて、背筋からぞわぞわとした感じの、嫌な悪寒が駆け上がってきた。  たまらず、そのままバスルームに駆け込んで、熱いシャワーを頭からかぶった。頭から温かい湯が身体を伝い、滴となって下に流れる。体温が急激に上がり、血行が改善して手や足の指先がじんじんするほどだが、潤はそこから動けなかった。  安堵感のある温かさに包まれても、なお脳裏を支配しているのは戸惑いだけ。  夢なら醒めてほしいレベルだと現実逃避したがっている本心を叱咤し、これは現実だと言い聞かせる。    立っていられずに浴室の床に座り込む。膝をかかえて、頭上から流れ落ちるシャワーの湯をそのままに、潤は頭を両手で顔を覆い、己に言い聞かせる。  落ち着け。  これは現実だ。  まずは受け入れるんだ。 「問題だというは分かるよね、ましてや君たちは兄弟だ」  不意に松也の冷たい一言が蘇る。  そんなの分かりきっている、貴方に言われなくても。  そんな反発心さえ浮かぶ。  悔しいが、あの人は巧い。交渉に情は無用だ。  情があるように見せかけながらも、あの詰め寄り方だ。容赦がない。  松也は、きっとターゲットを追い詰めることができると判断すれば、相手の事情など考慮することもなく、蹂躙できる冷徹さを持ち合わせている。  だから、思い出したくもない発情期の出来事をわざわざ交渉のテーブルに持ち出してきた。そこがウィークポイントだと判ったから。  同情するように見せかけて、確実に間合いを詰めてくる。そして優しく真実を引き出そうとする。  それが叶わなければ実にあっさりと身を引き、両親という方向に転換した。  もう、潤には嫌悪感しか抱けなかった。 「パートナーにならなければ親に話す」  これは立派な脅迫だと思う。  しかし、両親に知られたくはないということも、事実。  そんな形で取引を持ち掛けられるとは、想定外だった。潤は松也からの求婚を穏便に断ったが、そう心を砕いたのは実家同士の良好な関係があったためだ。親同士の関係に影響を出したくはないと思いつつ、巧く求婚を躱すことができて、安堵しきったところに、持ち掛けられたのがこの取引だ。    そんな流れを考えれば、不意打ちに近い行為に思えて、はらわたが煮えくりかえる。  松也の提案には、乗りたくはない。  でも、両親にはどうしても知られたくない。  シャワーに打たれながら、潤は、ともすれば堂々巡りになりかねない、そんなことをずっと考えた。   風呂から這い出て、ようやくベッドに辿り着いても、長い夜が続いた。神経が過敏になっていて、寝返りを打ってはうつらうつらと夢と現を行き来するようなが状態が続き、まともな睡眠は取れなかった。  しかし、気がつくと、視界が開けていて、目の前で展開される光景に、潤は軽くめまいを覚えた。  颯真と江上が立っていて、なぜか松也と対峙している。両者は睨み合っていた。 「貴方が潤に言ったことは紛れもなく脅迫だ」  颯真の言葉に、松也は軽く笑みを浮かべた。 「心外だ。俺は君とご両親の間で板挟みになっている潤君に手を差し伸べただけだ。君が潤君への執着を止めれば、森生家は平穏に戻る。そのきっかけを提示したに過ぎない。君こそ、実弟に手を出したことを恥じるべきであって、医師の風上にも置いておけない」  止めてください! とたまらず叫ぶ。どう見てもさほどに離れていない距離なのに、三人には聞こえないのか。いや、自分がここにいることに気がついていないのか。  存在を認めてもらうために駆け寄ろうとして、目の前に見えない壁があることに気がついた。  なんだこれは。  理不尽に阻むそれを、どんどんと拳で叩くが三人はこちらに視線もくれない。  なんで、と焦る。早く颯真を止めないと、と気持ちだけが逸る。余計なことを言ってしまったのは自分だ。うっかりと江上に、松也との会話の顛末を話してしまったのだ。激怒した江上はそのまま颯真に連絡を取り、二人で横浜の天野家に乗り込んでしまったのだ。  そしてこの始末だ。  どうして黙っていられなかったのだと、後悔ばかりが先立つ。松也に取引を持ち掛けられたなど、口が裂けても言ってはいけなかった。自分と颯真のことを、自分のことのように思ってくれる親友に話せば、どのようなことになるのか、想像できなかったわけではないのに。 「颯真君」  松也がひどく悪い顔を見せる。 「もうすぐ、ここに君のご両親がいらっしゃる。そしたら君はここでちゃんと告白したらいい。発情期に弟を抱きましたってね。包み隠さず。  そしたら、君たち家族は終わりだ!」  その言葉に、瞬間で沸点を突破した。 「松也さん!」  そう叫んで、力任せに壁に拳を叩きつける。  しかし、その叫びより速く動いたのは颯真。  松也の胸ぐらを掴む。 「おい……!」  静かに怒る片割れを、息を詰めて見つめた。  颯真……。  止めて。  颯真!  叫びが届くか届かぬかのタイミングで、颯真の手が拳を作り、振りかぶった。  瞬間、松也が吹っ飛ぶ。  松也さん!  潤は、叫んだ気がした。 「颯真!」  自分の叫び声に身体が勝手に動き、潤ははっと目が醒めた。    目の前は、明かりが落とされた、ひんやりとする自室。    夢……。であったようだ。  そう判断して、胸をなで下ろす。深く長い吐息をついて、枕元のスマホで時間を確認すると、明け方近くの時刻だった。  夢でよかったと、潤は心から思った。   颯真と江上がふたりして天野家に乗り込むなんて、あまりに最悪だ。しかし、それが夢でなく現実になりそうなところまで、今の潤は追い詰められている。   あのようなことになってしまえば、天野家と森生家の良好な繋がりは絶たれるし、両親との間にも禍根を残すに違いない。  どうも嫌な汗をかいたようで、寝間着の中はしっとりと汗ばんでいる。それが真冬の室内の寒さに冷やされて、潤の背筋がぞわりとした。  慌てて再び布団の中に身を埋めるが、当然ながら睡魔などはやってこない。  潤は考える。  僕はどうすればいい……。  どうすれば、この難局を乗り切ることができる。  そう考えることができるようになったことに、潤はふと気づいた。  夢と現を行き来するような睡眠でも、わずかに身体と心を休めることができたのだろう。現実を受け入れ、少しだけ冷静で前向きな思考ができるようになったようだ。    大丈夫。いつもの自分が戻ってきた気がする。  何か打開策があるはずだ。  そう頭を動かしながら、心に決める。自分の気持ちが落ち着くまで、颯真はもちろん江上にも、このことは話さない。  さっきの夢が、現実になるのが怖かった。

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