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 多分、夢を見る余裕さえない、僅かな間の出来事だったと思う。ふと落ちた意識が、急激に現に戻るその一瞬。  颯真からふわりと漂う、潤を煽るその香りが、脳裏の奥に閉じこめられていたその記録を呼び起こした。  そのいきなり降って沸いたような映像に潤は驚き、目がパチリと開いて視界がクリアになった。    一瞬で悟ったのだと思う。  かつて自身で経験したのに、これまで記憶を閉じていた出来事だと。  鮮烈な記憶だった。紛れもなく自分が経験しておきながら封じていた、十二年前の発情期の時の出来事だった。  病院で打たれた抑制剤がよく効かない中、颯真の香りを求めて、自分を慰め、泣いて。  そして、手を伸ばした。  その香りが手が届こうとしたところで、阻まれた。あと少しだったのに。  その光景が一瞬浮かんで、それをきっかけに潤の脳裏に溢れこぼれるように流れ込んできた記憶に、目を見開いて息を飲んだ。  なんだこれは。  潤は思わず手近にあったタオルケットを強く握り込む。そうでもしないと自分を支えることができなかった。  そうだった。颯真の香りに欲情するのは今に始まったことではない。颯真とは、最初の発情期から惹かれ合っていたのだ。  潤は、これまで失っていた記憶の波に溺れながらも、どこか納得するように悟った。   「潤?」  意識が飛んだのは僅かな間であったのだろう。颯真は潤の中にまだ押し入ったままだった。  腰に手を添えられて、背後から呼びかけられる。  しかし、潤はどういうふうに颯真と相対して良いのか分からなかった。 「大丈夫か?」  心配そうな様子を隠さずに颯真が問いかけてくる。その呼びかけに、潤は応えられない。  その声が耳に届くたびに、颯真のこれまでの苦悩が容易に想像できて、脳が沸騰しそうになる。感情が溢れて、呼吸が乱れる。胸が痛い。身体が震えるのを止めることができない。  肩が揺れる、背中が震える。 「……泣いてるのか?」    様子が変わったと思ったのだろう。後ろから入り込んでいた颯真のものが、するりと潤から抜けた。それを寂しいと訴える余裕などない。潤は顔を歪める自分を見られたくなくて、タオルケットで顔を覆った。 「痛かった?」  颯真が困惑している。嗚咽がこみ上げてきて、応えられない。こんなふうに泣くのは反則だと思う。きっと泣きたいのは、ここまで過酷な道を強いられた颯真だろうと思うからだ。 「潤」  颯真が困ったような様子を見せた。潤はタオルケットに顔を突っ込んだまま首を横にだけ振る。大丈夫と言いたいけど、声を出せば涙声になるのは分かっていた。  颯真は困惑しつつも、何も聞かずに潤の身を起こし、正面から抱きしめた。なぜ泣いているのか分からないのだろう。潤は肩を震わせて、優しい颯真の胸に抱かれた。  嗚咽が漏れるのが止められない。  颯真は、何も聞かずに、静かに潤の背中をさすってくれる。 「……ごめん」  そう言うのが精一杯だった。  水が溢れ返るように突如蘇った、潤が十二年前に経験した初めての発情期は、このようなものだった。    潤が高校二年生の秋。  颯真と廉の三人で買い物に出ているときに、初めての発情期に見舞われた。そのときはアルファ二人の機転により、潤は無事に天野医院に運び込まれた。    そこで初めての発情期と診断され、潤は緊急抑制剤を投与されて自宅の部屋で隔離された。  気持ちの準備なんてまったくできていなかったのに、生まれて初めての発情期は、オメガという自分の第二の性と向き合うことを強いたのだ。  主治医に打たれた緊急抑制剤は、今思えばなぜかあまり効いていなかった。  自分を慰めて、達して、しばらく落ち着くものの、再び欲望が身をもたげる。室内に自分の香りが充満するなか、我慢できなくなって、身体を開いて欲望をしごき上げ、開放感のなかで白濁を放つ。  身体のコントロールが効かない、でたらめな欲望と快感の狭間にいた。  そのなかで、官能を刺激する記憶があった。  発情期に見舞われて颯真に背負われていたときに感じた彼の香り。 「颯真ぁ……」  兄の香りを求めることがいけないことだなんて自覚は、発情期で欲望にまみれた頭ではまったくなかった。  もしかしたら、颯真を実兄と自覚さえしていなかったかもしれない。それくらい頭は沸いていた。  ただ、あの魅惑的な香りを放つアルファに、貫いて欲しい。その精を放って欲しいとしか考えていなかった。  そうすれば、発情期は治まると本能が知っていた。   「そうま……ぁん」  半泣きだった。とにかく颯真が近くに居てくれないのが心細かった。  泣きながら、それでいて身体が煽られるのを止められずに潤はひたすら颯真を求めて泣いていた。  何度、名を呼んだか分からないくらい。  その願いが通じたのか、あるとき、潤が気がつくと、颯真が、潤を覗き込んでいたのだ。  「……潤」  半泣きの潤の目の前に、ひたすら求めたアルファがいた。彼は、潤が求める香りを漂わせていた。やっと来た、と潤が歓喜して、彼を抱き寄せ、彼も潤を搔き抱いた。  潤は首筋に鼻を押しつけて、その求めていた香りを思いっきり吸い込むと、身体が興奮して、刺激を求めて自然と腰が揺れた。 「そうま……」  目はぎらぎらと輝いているのに、困ったような、そして辛そうな表情で潤を見ていた。その真意を、官能で毒された頭が察することなどできようはずもない。 「……ぼくに……」  身体が敏感になりすぎて、呼吸が乱れて思うように声も出ない。すぐにでもこの手に抱かれたい、そして項を噛まれたい。それが潤の欲望だった。 「分かってる……」  温かくて、触れるたびにぞわぞわするその手が、潤の腰を抱いたところだった。 「潤! 颯真!」  遮るような誰かの声がした。  誰? 潤を押し倒した颯真が、その声の主を振り返った。 「かあさん……」  潤は、颯真の胸の中にいた。襲われる記憶に溜まらず、颯真の首に腕を回し、抱きついた。 「潤?」  潤は思い出したのだ。  十二年前のあの発情期の顛末を。 「……そう……ま」  潤は身体の震えが止まらなかった。寒いわけではなくて、なんでこんなことを自分が忘れていたのか、理解できなかった。 「どうした?」  颯真の手が、潤の背中を優しくさする。おなかを動かして口で深呼吸して、呼吸を落ち着けてごらん、とアドバイスをしてくれた。  潤は颯真から離れて、彼の顔を、ようやく見た。 「取り乱して……ごめん」  溜まらず再び颯真に抱きつく。彼は優しく潤の背中をさすってくれた。 「お前の呼吸がおかしくなるのは、いつものことだろ?」 「そうじゃなくて……」 「じゃあなに?」  颯真が優しく問う。  うっかり忘れていた、どころの話ではない。記憶から消去していたのは、自分が望んでいたからだ。  自分だけ楽になりたかったためかもしれない。  そんな逃げ腰が、颯真をどれだけ苦しめたのだろう。  なのに、今になって思い出すなんて。 「初めての発情期で、……僕はすでに颯真を求めてたんだね……」  颯真の動きが不自然に止まった。  そして潤を引き離して見据える。 「思い出したのか?」  何を、とは問うてこなかったが、颯真にもわかったようだった。 「……ごめん」  その視線に耐えられず、謝ることしかできなくて俯いた。ただ、颯真への罪悪感が急激に大きくなって、潤を圧迫していた。 「潤。顔を見せて」  颯真がそう言う。潤は恐る恐る顔を上げたが、どうしても颯真を見ることができなかった。 「こっち向いて」  颯真が促すが、顔を上げることができない。 「やだ……」 「なに、泣いてるんだよ」  兄弟で求め合ったというのであれば、ふたりで乗り越えなければならない。颯真だけが発情したわけではない。互いを求め合ったのだから。  なのに、発情期が終わってみれば、潤だけ記憶が抜けていた。熱い思いを交わしかけた関係なのに、愛した相手がすっかりその感情さえ忘れていたなんて、どれだけショックだったろう。  颯真がこれまで辿ってきた葛藤の道のりが、あまりに過酷で険しすぎて、潤は自分の薄情さを後悔して謝ることしかできなかった。 「本当に……ごめん」  ごめん、なんてこの十二年を謝罪するには軽すぎる言葉だと潤の分かっている。  辛いことのすべてを颯真に押しつけてきた。勝手に自分だけ記憶の蓋を閉じて、その重い責任と感情を颯真だけに背負わせてきたのだ。 「自分が逃げたと思ってるのか」  颯真にそのものズバリを問われて、身体が驚いた。 「……」  潤は応えることもできなった。  気まずい雰囲気が二人の間を漂う。  潤、と颯真がまず呼びかけた。 「実は、最初は俺もそう思った。発情期が終わって、お前は一番辛い時期の記憶がすっぽり抜けていた。それが、俺たちが互いに求め合った時で……。マジかよって思った」  颯真のその言葉は率直だった。潤は責められる覚悟をした。   「本音を言うと、俺はお前を詰りたかったよ」  その率直な感情に、思わずびくりと身体を震わせてしまった。颯真に責められたいと望んでいながら、いざそう言われるとびくついてしまう。  でも、背中をさする颯真の手は温かくて優しくて。一人で戦線を離脱してしまった潤の薄情さを、颯真は受け入れているのだと思ってしまうほどに。 「きっと、あれは潤にとって大事なラインだったんだって思うようになった。いや、俺にとっても」  潤が記憶を閉じたのは、それがまだ自分達には早いからに違いないって思うようになった、と颯真が言う。 「もし、あの時結ばれたとしても、俺たちは幸せになれなかったかもしれない。潤はそう感じたから、記憶を封じたのではないか、そう思うようになった」  颯真がそのように思うに至るまで、どれだけ弟を責め、自分を詰り葛藤したのだろうと思う。 「でも……」  颯真は潤の言葉を遮る。 「いいんだ。潤が俺の気持ちを受け入れてくれて、あの時のことを思い出してくれた。  俺の十二年は、十分報われた……」  その言葉に、なんとも言えない重みを感じた。長い道のりにようやく終止符を打てたような深い吐息のような一言。彼は、薄情さに対する後悔や謝罪を求めていないのだと察し、潤は口を噤んだ。  颯真は、自分の番が実弟と確信したとき、どう思ったのだろう。何を感じたのだろう。  そのまま受け入れることができたわけではないだろう。颯真が全てを受け止めるまでの、その暗い迷いや苦しみの中にあっても、ずっと潤の隣にいてくれたのだ。  それは想像以上に、胸の痛みを伴うことだろう。自覚のない実弟が番という事実は、精神的に消耗するし、神経をすり減らすに違いない。  でも、それでも平然として颯真は隣にいてくれた。  その心中を潤は思った。 「颯真……ごめんね」  潤は、彼の優しさと強さと誠意に、心から報いたいと思った。  どんな言葉ならば、届くのだろう。 「僕は、これから颯真の元から離れない。颯真に辛い思いをさせた十二年は変わらないけど、これからその十二年より長い間を、僕は颯真を幸せにするから……」  潤の決意に、颯真が頷く仕草を見せる。 「ありがとう。俺も、お前の『ごめんね』はいらない。俺の思いは報われた。だから、『辛抱強く待っててくれてありがとう』がいいな」 「颯真……。ありがとう。僕を見捨てずにいてくれて」  潤は身体を離して、颯真の顔を見た。  颯真はまっすぐ潤を見据える。その目は温かみに溢れていて、潤の罪悪感を和らげてくれる。 「潤、ふたりで幸せになろう。  俺はお前がいてくれたら……それだけで、幸せなんだ」  颯真の手が潤の頬に寄せられる。視界が揺れて、潤は思いと潤みを隠せずに瞳を閉じた。目からはらりと潤みが溢れて、落ちたのを感じた。 「何泣いてるんだよ。俺たちは大丈夫だ」  颯真の力強い言葉。潤は、それに小さく、しかし、しっかりと頷いたのだった。 一人のアルファで一人の兄で【了】 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 毎度読んでいただきありがとうございます。また、本章(第二章)最後までお付き合い頂き、本当に嬉しいです。区切りなので、御礼とちょっと今後について語らせてください。 不要という方は、ここから先は書き手の戯れ言なので、戻っていただけると助かります。 ようやく、ようやくここまで来ました! 体感的には幸せへ、ポンポンポンっと、かなり近づいた感じです。それになんとなく想定したあたりに着地できた感じがします。本章はこちらで終わりになりますが、次章……続きはまだありますので、カリカリ書いていきます。 さて、次章ですが、前回同様少し時間をいただいて、準備をしてから始めたいと思います。正直ここで息が切れ気味になってしまい……。しっかり力を溜めてから始めたいと思います(ストックはできないと思いますが…) 今後の予定ですが、前回同様に次章の前に閑話を挟んでから入りたいと思っています。多分颯真視点の閑話になると思います。 またしばらくしたら浮上しますので、そのときにお付き合いいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

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