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閑話:弟の初めての発情期(1)

お久しぶりです。 予告通り、とりあえず閑話を始めたいと思います。 前話までの幸せ気分吹き飛びますが(本当にすみません…)これはこれでお楽しみ頂ければと思います。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧  ようやくこの日が来た、というのが森生颯真にとって正直な本音だった。  しかしそんな本音を、自分の背中で震え耐えている弟に悟られるわけにはいかない。今は、弟の潤に寄り添い、早く天野医院に連れて行かねばならない事態というのは分かっていた。  小走りで急いでいるが、スピードを落とし身体を揺すって潤を背負い直す。そのタイミングで颯真が声をかけた。 「潤、もう少しで着くから頑張れよ!」  そんな励ましに、潤は背中でじっと耐えながら小さく頷いた。  弟の潤の初めての発情期は、まさかというタイミングでやってきた。  颯真は飛び級で入学した医大の一年生、潤と廉は高校二年生。銀杏並木が色づき始めた秋の休日の昼下がりだった。  その日、久々に颯真は、弟の潤と出かける約束をしていた。しばらく飛び級の進級試験の勉強が忙しく、弟をかまってやることができなかったが、潤も部活が忙しかったようで、しばらくほとんど顔を合わさない日々だった。  そんな中、ふたりの予定がちょうど空いた日曜日、久しぶりに買い物に行こうという話になった。みなとみらいに新しい商業施設がオープンしたらしく、廉を誘って行ってみないかと、颯真が誘ったのだ。潤は嬉しそうな反応を見せて、即答で頷いた。  みなとみらいで廉と待ち合わせをして、そのまま三人はその商業施設に向かう。潤はスニーカー、颯真はセーター、廉はシャツをそれぞれ買い、ランチにはハンバーグステーキを食べ、ついでにアイスクリームも平らげて、廉と三人で地元に戻ってきたのが午後二時すぎ。  荷物を持って、元町を歩いているときに、突然潤に異変が起きた。  それに最初に気がついたのは廉。  振り返ると、潤は歩道で立ち止まりしゃがみ込んでいた。 「おい? 潤?」  明らかに普通ではない声色に、颯真も振り返る。廉が歩道に膝をつき、潤は俯いている。  颯真も驚く。 「どうした? お腹痛い?」  颯真がそう問うと、潤は小さく首を横に振る。 「そうま……。なんか……やばい」  潤が意外なことを訴える。 「これ……発情期、かも」  廉と二人で顔を見合わせた。 「まじで」  たしかに潤からわずかにフェロモンが香る。いつもは爽やかなレモングラスの香りが、今日はどこか違う。誘うような、濃厚な蜜の香り。  番ではない発情期のオメガと遭遇したときの対処法。  それはアルファと判明したときに一番最初に教えられる。 「ヒート抑制剤を服用できない場合は、近づくな」  それはオメガはもちろん自分の身を守るためだ。 「廉、お前ヒート抑制剤持ってる?」  颯真がそう聞くと、廉はもちろんと頷く。潤と一緒に行動するときは常に持ち歩いているという。  颯真も兄弟だが、廉同様、潤と行動をともにするときは常に服用していた。  廉に早く飲めとせっつき、颯真は潤の顔を覗き込む。いつもとは異なる潤の表情を、颯真は一瞬息をつめた。  実は今朝から体調が少しおかしそうだなとは思っていた。熱があるのかと思ったが、本人は至ってけろっとしていて、さらにとても楽しみにしている様子だったので、颯真は何も言えなかった。体調が悪くなれば、近所でもあるし予定を切り上げて帰ってくればよいと思っていたのだ。  まさか、発情期の症状だとは思わなかった。  颯真は今年の春に潤が天野医院で初めてオメガとして診察を受けたと聞いていた。その時はまだ発情期の兆候もみられなかったが、いずれはやってくるからと天野に断言され、潤は数日間憂鬱そうな顔をしていた。来て欲しくないと思う気持ちがありありと分かって、その憂鬱な気分が伝播したように、颯真も微妙な気分になった。 「潤、発情期になったらすぐに飲めと渡されてる薬あるよな」  廉が抑制剤を飲んでいるうちに颯真は潤の斜めがけバッグを開き、いつも持ち歩いている財布から薬を取り出す。自宅以外で発情期になった場合に服用せよと、天野から渡されていた緊急抑制剤だ。ここまで症状が出てしまうと効くかは怪しいが、とりあえずそれを潤に飲ませる。  一刻も速く、潤を天野医師に診せたほうがよさそうだと颯真は判断する。オメガの思春期の、とくに初めての発情期はコントロールがききにくいと聞く。だから早く診せて緊急抑制剤なりを打ってコントロールしてしまったほうが楽に乗り越えられるらしい。   「廉、潤の荷物を持ってくれ。背負って天野医院に連れてく」  タクシーも一瞬考えたが、潤の香りでドライバーが惑わされたら大変だ。それに背負って走っていったほうがおそらく早い。  颯真が自分のバッグと荷物を廉に渡す。廉は驚いて目を丸くした。 「おい、お前が背負うのか。大丈夫か」  もちろん潤を背負えば彼のフェロモンはもろに被ることになる。しかし、もうそれしか手立てがない。 「大丈夫」  颯真は潤を背中に背負う。ぶわりと、潤の濃厚な香りが颯真に降りかかってきた。  ここから天野医院まで走ればさほどかからない。自分の携帯を廉に渡し、天野医院に連絡するように伝えた。 「潤、大丈夫。すぐに天野先生の所に連れて行ってやるからな」  颯真が励ますと、潤は諦めたように目を伏せた。潤にとって、この状況下で天野医院に行くことは安心に繋がらないらしい。どうしても不安のほうが先に立つのだろう。  しかし、今の颯真には潤を天野医院に連れて行くしか手段がないのだ。  これでようやく潤にも発情期が来たと思っているという 本音がバレたら、嫌われるなと颯真は思った。  颯真のスマホを使い、廉があらかじめ天野医院に連絡を入れておいたおかげで、天野医院に到着するとそのまま潤は処置室に担ぎ込まれた。  颯真たちも潤の様子が気になったが、潤を引き渡したところで、看護師に待合室に連れて行かれ、フェロモンの影響を受けていないかを聞かれた。  廉はヒート抑制剤を飲んでいることを告げると、そのまま待合室で待つように言われ、颯真も兄弟であると話すととそのまま無罪放免となった。  窓際のソファに仕方なく二人で腰を落ち着ける。 「お前が抑制剤持ってて助かったよ」  颯真が廉に礼を述べると、廉は心配そうな表情を浮かべた。 「お前は大丈夫なのか」  颯真は頷く。 「ああ。潤と出る時は俺も飲んでるから」  自分の番が双子の弟の潤であると確信を持ったのは、颯真が小学生の時。理由は分からないが、その確証は以来変わらない。これまで、実際に颯真が潤のフェロモンに当てられたことはなかったが、それは颯真も潤も成長過程でフェロモンが未熟だったのだろうと思っている。  潤に発情期がやってきたということは、おそらく二人ともアルファとオメガとして生殖年齢に達してきたということ。この状況下で互いのフェロモンに影響されれば、番うことは可能と証明できるのだろう。  颯真にとって待ちに待った瞬間だった。  自分と潤が番であると、客観的に証明できるのだ。これまで、一人でこの気持ちを抱えてきて、潤本人はもちろん両親にも話していない。唯一秘密を共有するのは廉のみ。  それは正直、颯真にとって、抱えておくには重く、しかも確証がないのは大きなストレスだった。  だから、颯真にとって、潤の発情期は待ちに待った瞬間なのだ。潤が自分の番であるという確証が欲しい。そして潤もそれを分かってくれれば、満足だった。  そのため颯真は緊張していた。 「颯真!」  颯真と廉がソファに腰を落ち着けてしばらくして、驚いたことに母茗子がやってきた。確かに潤を引き渡してから茗子に連絡を入れたが、それから一時間ほどしか経っていない。  今日は母は土曜日にも関わらず品川の森生メディカルに出社していた。そこから予定を切り上げてここまでやってきたのだ。  最近は多忙な母とほとんど顔を合わせていなかった。そう思うと、潤の初めての発情期とはこんなにも大事なのかと改めて思う。 「母さん」 「潤は?」 「処置室」 「貴方と廉君が潤を運んでくれたのね。ありがとう」  礼を述べる茗子に、廉はどう反応していいのか迷っている様子だ。 「天野先生が母さんが到着したら中に来て欲しいって言っていたから、入ってみるといいと思う。潤もいるから」  颯真が勧めると、茗子はじゃあちょっと待っててね、と颯真と廉に伝え、処置室に入っていた。  茗子は程なくして出てきて、中にいる潤の様子を教えてくれた。 「緊急抑制剤を打ってちょっと落ち着いたのかしら。でも、ずっと颯真のことばかり呼んでるわ」  心細いのね、と茗子は言う。いや、おそらく番の本能ゆえなのだろうと颯真は思い、少し安堵する。潤の発情期を 自分がこんなに心配しているのも、兄弟だからという理由以上に番の本能ゆえなのだろうだから。 「潤はどうするの?」  颯真が聞く。天野医院に入院するにしても、まさにいま発情期の患者を収容できる病室はないと聞く。  番がいないオメガの発情期の過ごし方として、自宅で自室に鍵をかけてやりすごす、というのが一般的だ。  大きな大学病院などではアルファ・オメガ科に特別室と言われる、発情期のオメガが過ごすための病室が用意されているが、このような民間病院では難しい。  このあたりで特別室があるのは誠心医科大学横浜病院が唯一ではないだろうか。 「潤はこのまま家に連れて帰るわ。多分、しばらくは発情症状が続くと思うから、颯真は潤の部屋に近づかないでね」  フェロモンには当てられないと言われる兄弟でも、何かが起こっては遅いのだと茗子は思っているのだろう。 「母さんは一緒に帰るの?」  茗子は僅かに考えてから頷く。 「……そうね。潤の世話をしないとならないから」 「……仕事、途中で抜けてきたんだろ」  颯真が鋭くそう突くと、母は珍しく大きく溜息を吐いた。 「ううん、潤の方が大事だもの」  本当にそう思っているのだろう。しかし、母の現在の仕事は一企業の最高責任者だ。そうはいっても、ままならないときだってあるのは、颯真も潤も分かっている。 「……抜けられない仕事があるんだろ。俺が潤を見てるから問題ない。母さんは仕事を片付けてきてよ」  驚いたことに、実はこれから森生メディカルの保養施設がある那須高原に向かわねばならない予定だという。  今年の新卒社員が研修を行っており、その陣中見舞いとして顔を出さないとならないらしい。用件としては大したものではないような気がするが、きっと母がキャンセルを躊躇うものなのだろうと颯真は理解した。  あとで知ったことだが、その研修とは、毎年冬の初めに行われるMRの認定試験の追い込み研修のこと。MRとは製薬企業における営業担当者を指し、その認定資格は新入社員には必須とされている。  社長が研修に顔を出すと、新卒社員の試験への士気向上になり、結果として合格率が上がるらしい。  人事部からは毎年強くリクエストされている案件で、MR試験の合格率は翌年の新卒のリクルーティングにも影響する。となれば、部下には託せない社長の大事な仕事だろう。 「確かに颯真は潤のフェロモンには当たりにくいだろうけど……」  母が躊躇っているのは分かった。 「天野先生に念のための抑制剤を出してもらうし、母さんが今夜中に帰ってくるなら、俺も安心だし」  それでも母は心配なようで、主治医の天野に相談した上で、最終的に颯真の提案を受け入れた。 「颯真、ホントにごめん。用事はちゃっちゃっと済ませて速攻で帰ってくるわ!」 「いや、急がなくていいから、事故には気をつけて帰ってきて」  母のその言葉に廉がそっと耳打ちする。 「お前、本当に大丈夫か?」  颯真が廉を見ると、本当に心配そうな表情を浮かべている。 「お前、このどさくさで潤の項噛んだりしないよな?」  廉の懸念は颯真にも理解できる。 「大丈夫、そんなことはしない」  颯真は廉を安心させようと目をみて大きく頷いた。 「大学の医務室でも強めの抑制剤をもらってるんだ。それもあるから問題ない」 「……でも」 「廉」  颯真は廉を窘めるように名を呼んだ。 「なんだ」 「潤の面倒を見るって言ったのは……、俺は、潤の発情期がどんなものなのか、知っておく必要があると思ったからなんだ」

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