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(2)
天野医院で廉とは別れ、颯真と茗子は潤を連れて自宅に戻ってきた。陽も傾き始めた午後四時過ぎ。
母茗子は、父の和真にも連絡を入れた様子。今、和真は珍しく日本にいるものの、一昨日から出張で北海道にいて、帰ってくるにしても明日の昼になるらしい。
潤が自宅で初めての発情期を経験する、というのはやはり大きなことななのだと颯真は実感する。
茗子はこれから車で那須高原に向かい、夕食後の研修時間に社員を激励して、そのままこちらにとんぼ返りしてくるというハードスケジュールのようだ。
自宅から五分のところに母方の祖父母が住んでいるのだが、最近は祖母の体調が芳しくないため、ヘルプを要請することを控えたらしい。頼られていると颯真は感じる。
潤は自宅の部屋に隔離された。茗子からは、必要以上に構うことはなく、潤の好きなようにさせてあげてと言われた。基本的に見守る姿勢で良いらしい。
「発情期は病気ではないから、やってあげられることが少ないの」
茗子の言葉に颯真も納得した。
「ただ、発情の波に飲まれすぎて出てこれないこともあるから、定期的に部屋を覗いて様子は見てあげて」
そのようにアドバイスされた。
颯真が一時的にせよ潤を看護することになったと知った天野は、念のためと抑制剤を処方してくれた。アルファとオメガといっても兄弟では惹かれ合うことはないとされている。
渡された抑制剤はあまり強いものではなさそうだが、颯真はそれをありがたく服用した。大学で処方された抑制剤も飲んでいるが、いずれ効果が切れるだろうし、作用機序が異なるので、飲み合わせでも大丈夫だろうと思った。
「速攻で行って帰ってくるから!」
母のことだから自分で運転していくのだろう。彼女のバイタリティを理解しているつもりだが、それでも帰宅は夜半すぎになる予定。
「とりあえず事故には気をつけて」
颯真の窘めに母は頷いて出かけていった。
これで真夜中まで、颯真は発情期の潤と、この家で二人きりなのだ。
颯真は、実をいうとこれまでオメガの発情期を見たことはない。
アルファと判明して以降、カウンセラーなどから、オメガの発情期について話は聞いている。アルファとオメガが出てくる、第二の性を扱った映像作品であれば、濃度の差はあれ、発情期のシーンは必ずと言っていいほどある。知識と言えばその程度。
現実では経験がない。身近なオメガである母の発情期は、もちろん両親によって巧妙に隠されて見たことはない。
初めて目の当たりにするオメガの発情期が弟の潤であると、年を重ねるうちになんとなく想定はしていた。颯真にとって、潤は自分の番と確信している。だが自分を律していれば潤の発情期には呑まれないと思うし、潤自身も発情期に自分と相対することで、番という関係に気づいてくれるのではないかと、颯真は密かに期待していた。
潤の部屋は、エアコンで適温に調節されているが、彼の香りが充満していて濃密な空気が漂っている。潤の香りと分かるが、いつものものとは違う。誘われていると明解に分かる。思わず颯真は鼻に手を当てた。
「……ふぅ……ん」
ベッドの上で盛り上がる毛布がもぞりと動き、潤の喘ぎが耳に届く。これまでずっと一緒に生きてきたのに、初めて聞く声色に戸惑う。
「潤?」
声を掛けてみるが、返答はない。
「……はぁ……あん」
湿り気のある吐息と喘ぎが、颯真の聴覚を刺激する。
潤が毛布から顔を出すが、目はとろりとしていて意識は完全に内を向いている。おそらく近くに颯真がいることにも気がついていないようだ。
裸の上半身を毛布の上に身を乗せて、赤らめた顔で目を閉じて、切ない声で啼いている。
こんな顔、こんな声。見たことがなかった。
颯真は潤に近づくのを躊躇った。ぐっと鼻孔をくすぐる香りが密度を増す。抑制剤を飲んでいるのに、思考を奪われそうだった。
それでも颯真はベッドに近づく。潤は毛布から身を出し、夢中で自分を慰めている。毛布の下で腰が揺れる。あの潤が、こんなふうにあられもない姿を自分に見せるなんて……、正気を失うのがオメガの発情期なのだと改めて思った。
今日の昼に、颯真が手にしたアイスクリームカップに自分のスプーンを突っ込んで笑って口に運んだ、無邪気な潤の笑顔はどこかに行ってしまっていた。
颯真は困惑していた。
……自分は、潤がこのような姿になるのをずっと望んでいたということか。
夕食は一人で摂った。
平日は家政婦がやってくるのだが、土日は基本的にない。颯真は家政婦が作り置いてくれているおかずとご飯を冷凍庫から出して一人で温めて、黙々と食事を摂る。
一人のダイニングルームは、無駄に広くて寒々しい。なんとなくここまで潤の香りが漂ってきているような気もして、戸惑う。おそらく気のせいだ。
午後十時になると、母茗子から連絡が入った。
「これからこちらを出るわ」
仕事が終わったらしい。新入社員からは圧倒的な熱意をもって受け入れられ、今年の合格率は昨年を凌駕しそうだと人事担当者も満足げだったらしく、無事に職責を全うできたようだった。
「道が順調なら、三時間くらいで着くから」
時計を見る。あと三時間。そう思うと少し気持ちが楽になる。これまで見たことがない潤の姿を目の当たりにして、情けないことに心細くなっているみたいだ。
こんなの自分じゃないと強がり、颯真は母茗子をもう一度、窘めた。
「急がないでいいから、事故には気をつけて」
無力な自分が情けなかった。
覚悟を決めて颯真が潤の部屋を覗くと、案外潤が正気の目をして颯真を見つめてきた。
「……颯真?」
どうやら波を越えたらしい。
母茗子がいう、つかの間の正気の時間のようだ。
「大丈夫か?」
内心安堵して颯真が問うと、潤は、喉が渇いたと訴えた。脱水症状にならないようにと、スポーツドリンクを飲ませてやる。よほど喉が渇いていたのか、潤はごくごくと五百ミリリットルのペットボトルをほとんど空けてしまった。
「なんで颯真がいるの……?」
潤の疑問に、事の顛末を聞かせてやる。母が帰宅するのは日付が変わってからだというと、そうなんだ、と頷いた。
やはりいつもよりは反応が鈍い気がする。
「平気か?」
颯真の問いかけに、潤はこちらを見て力なく笑みを浮かべたが、急に表情が抜け落ちた。
「潤……?」
「……ううん。結構しんどい……」
潤の目に涙が溜まる。片割れの自分にだからこそ出せる本音だと思う。
颯真のなかで、急速に罪悪感が湧き上がる。
「……これ、いつまで続くんだろ……」
その疑問に、医学生としても駆け出しの颯真は、知識も経験も持ち合わせていないため明解に答えられない。
「汗かいてるだろ、身体も拭こう」
そう言って蒸しタオルを用意すると、潤は何も言わずに素直に身体を拭かせてくれた。
それでも、それが下半身に及んだときには、颯真からタオルを取り上げて、潤は自分で拭いた。
洗いたてのパジャマを着せてやると、潤は一言、ありがと、と礼を言った。
「少し寝れるなら寝ておけよ」
颯真がそういうと、うん…疲れたから寝る……と言って、ベッドに横になった。
これで今日は穏やかな夜がやってくるといいな、と颯真は一息吐いたのだった。
「これは一日一錠にしてね」
大学の医務室のドクターがそう言って処方してくれたヒート抑制剤を、日づけが変わる直前になって、颯真は取り出していた。一日一錠ってことは、一度服用したら二十四時間は待て、ということなのだろうが、明日の朝まで待てる自信はなかった。
今日は天野から処方された軽い抑制剤も服用している。完全にオーバードーズである自覚はあった。
医者の卵なのにむちゃくちゃだな、と思わず苦笑する。
潤の部屋を覗く。
濃密な潤の香りが漂う。潤は夢中で自分を慰めている。まだヒート抑制剤が効いているのだろう。本能を揺さぶるほどではない。
これで眠れたら、と思ったのもつかの間だった。
それから三十分も経たずに、発情症状が現れたようで、潤の部屋から、再び辛そうな喘ぎが聞こえてきた。
オメガの発情期とは、皆ああなのだろうかと思い、少し憂鬱な気分になる。どうも潤に気持ちが引きずられてしまっている感がある。
それほどに潤の初めての発情期は苦しそうだった。
潤がオメガと判明しておよそ二年半。
空気を読んで颯真もあまり第二の性について触れることはしなかった。
中学時代、放課後にオメガの生徒を対象にした個別カウンセリングが何度かあったが、そのたびに潤は白い顔をして家に帰ってきた。高等部に進んでからも、廉によれば誰かが初めての発情期で一週間休むといった話を聞くと、表情が抜け落ちていたらしい。
潤は決してオメガである自分を受け入れているわけではない。おそらく、この日が来ることをずっと戦々恐々とおびえて待っていたのだ。
初めての発情期までに、オメガという性を受け入れていればまだ楽だったかもしれない。しかし、その前に身体が成長し、発情期がやってきてしまった。
今、潤は目をそらすことも叶わずに自分のオメガ性と向き合わされている。
それを自分はようやくこの日がきたなどと、思っていたのだ。潤は発情期が来れば、おそらく自分の性を受け入れざるを得ないと、軽く考えていたというのもある。
自分の考えは甘かったのだと思う。
日付が変わる頃に茗子から連絡が入った。
途中、東北自動車道で事故があり、その渋滞に巻き込まれてしまったのだという。ようやく一般道に下りられるため、ここから下道で南下し横浜を目指すという。
「少し遅くなりそう」
その一言に、颯真の胸に一抹の不安がよぎった。
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