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「うん。最初に強い薬を使って正解だったな。フェロモンも少しずつ安定してきているから安心していいよ」
颯真はタブレットに表示された、送信されたばかりの血液検査の結果を見て、満足げに頷いた。
ここ数日で颯真に毎朝投与されるようになったフェロモン抑制剤はよく効いている様子。自分ではよく分からないのだが、颯真の反応を見るに、香りが漏れているということもないのだろうと思う。
その週の土曜日の夕方のこと。潤は久しぶりに誠心医科大学横浜病院で颯真の診察を受けていた。
毎朝体調を診て貰い抑制剤を投与してもらっているが、久しぶりに一度きちんとフェロモン量を調べてみようと言われていたためだ。
基本的に土曜日の外来診療は午前までと聞いている。颯真に夕方においでと言われたのだが、完全に身内のコネだ。少し気も引ける。
潤は胸元を緩めたワイシャツのボタンを留め、ネクタイを締め直してベストとジャケットを羽織る。今日は仕事ではないが、スリーピースを身に着けていた。
「この間も話したけど、次の発情期を完全に押さえることは難しいんだ。予定では三月の終わり。だから、三月に入ったら少しずつ抑制剤と誘発剤を使ってコントロールしていこう。その方が楽な発情期になると思うし」
それで、と颯真が言う。
「何」
「その発情期は、俺と一緒に過ごしてくれると考えていいんだよな?」
まさか診察室でそう問われるとは思わず、潤は答えに窮する。
「アルファの相手がいるのといないのとでは、コントロールが少し変わってくるんだ」
「……あ、そういうこと」
「もちろん潤は頷いてくれると思ってるけど、必須の確認事項なんだ」
「うん……。颯真が居てくれると思ってる」
「わかった。じゃあ、相手がいることを想定したコントロールをしていこうな」
颯真が穏やかな笑みを浮かべた。潤は自分もきっと同じような笑みを浮かべているのだろうと、なんとなく思って嬉しくなった。
そこでいきなり颯真が話題を変えた。
「ところで、そのネクタイ。やっと締めてくれたんだな。気に入らなかったのかと思ってたから良かった」
颯真が横目で見るのは、潤の胸元だ。今日は、ウールのシャドウストライプのスーツ姿だが、下ろしたてのネクタイを選んだ。颯真は覚えているのだろう。彼に昨年の誕生日でプレゼントしてもらったものなのだ。
昨年の誕生日はお互いに似合う柄のネクタイを贈り合おうと、横浜のなじみの店をあれこれ巡り歩いた。
潤が颯真に「知的な颯真に絶対に似合う」とブルーのドット柄のネクタイを贈った時だ。
颯真が潤に贈ったのが、このネクタイだった。
フランスの有名ブランドの当時の新作。グレーの細かいチェック柄に、オレンジとピンクのラインが差し色で入っており、ネクタイの裏にロケットの刺繍が施されている、遊び心のあるデザインだ。
「仕事に没頭するのは大変結構だけど、時にリラックスすることも大事、というメッセージを込めて贈る」と颯真に言われた。このネクタイが視界に入った時くらい、息を抜けたと言いたいらしい。
ともすれば仕事に没頭して寝食を忘れがちな潤を心配していた。
颯真は潤がプレゼントしたネクタイを大層喜んで、好んで使ってくれていたが、潤は下ろすのがなぜかもったいなくて、使い時を迷っているうちにチャンスを逃してしまっていた。
「気に入らなかったわけじゃなくて、大切なものだから使い時が見つからなくて……」
潤の本音に颯真が苦笑する。
「大切……そんなに気を遣うことなかったのに」
しかし潤にとって双子の兄が誕生日にと贈ってくれたものは特別に思えるだ。
「もう使ってくれないと思ってたから嬉しいな」
颯真の素直な言葉に潤は少し照れた。
「なんか変に力が入ってしまって。でも、今日締めなくて、いつ締めるの? ってさすがに思って」
そう顔を上げると、颯真も頷いた。
今日は潤にとっても勝負の日なのだ。実際にネクタイを締めていると、視界の端に入るたびに颯真のことを思い出して、この幸せを守るために気張らねばと気分が引き締まる。
「さすが俺の見立て。よく似合ってる」
潤もそう言われて満足する。ふっと表情を緩めた。
「今日はおしまい。俺は少し仕事が残ってるから、オフィスで待っててくれる?」
颯真のその言葉に潤は頷いた。
受付で精算を済ませた潤は、オフィスで待っていてと颯真に言われたものの、喉の渇きを覚えて院内のカフェに移動することにした。
颯真の仕事はもうすこしかかりそうなので、ここで待っていても問題ないだろうと思い、メッセージアプリで居場所を伝えると、すぐに了解した旨の返信が届いた。
潤はカフェでロイヤルミルクティを注文し、テイクアウトカップを受け取ると、そのまま席に着いた。ソファに腰かけると、腰が少し沈み込んで居心地の悪さを感じたので、起ち上がってスーツのジャケットを脱ぐ。
今日、潤がスリーピースを着ているのは、この後颯真と一緒に実家に行くためだ。
両親に、番う許可を得るために。
今日は珍しく父和真は都内にいるらしく、早めに帰れるらしい。また、母茗子も休みとのことなので、颯真の仕事が上がり次第、実家に帰る予定だ。
潤と颯真がそろって帰宅すると茗子に伝えると、今年の正月に叶わなかった家族四人の食卓が囲めると、少し張り切っている様子。
茗子には申し訳ないが、おそらくのんびりとした家族団らんにはならないだろうと潤は思う。なるかならないかは、両親の反応次第だが、颯真が無意識ながらも見せている緊張を考えると、そうそう簡単に事は運ばなそうな気がする。
もちろんこれは颯真だけの問題ではないのだ。潤は考える。双子の兄を番に選んだ息子に、両親はどんな反応を見せるだろうか。そして自分はどんな言葉で覚悟を伝えたらよいか。
思考の深みに嵌りそうなところで、スマホが振動した。ディスプレイを見ると、江上から。メールアプリを開くと、仕事の連絡で、先日インタビューを申し込んできた、東都新聞社の記者、西宮の最近の署名記事が添付されていた。
あれから広報部を通じて西宮に具体的なインタビューのテーマや質問内容を求めたが、警戒するような内容ではなかった。
何かを疑うにしても引っかかりさえないので、そのままインタビュー取材を受けることにしたのだが、江上が念のためと直近の署名記事を探していたのだ。
添付されていたデータを見ると、いくつかの社会欄の記事がスクラップされていた。
人権問題をテーマに据えているだけあり、いくつかその手の事件記事や、フォーラムや会合の記録などがある。インタビュー記事もあったが、特段注目すべき点は見受けられなかった。
潤はそのまま江上に連絡を取る。休日だし、連絡が取れなければメッセージを残すつもりだったが、三ゴールで出た。
「データありがとう。特段、何かありそうな人ではなさそうだね」
問題なさそうだよねという潤の言葉に、江上も頷いた。
「西宮記者の経歴を追うと、社会部の前は経済部だったそうで、製薬は担当していないようですが、関連業界には少し関与したことがあるようです。
基本的な業界の知識はあるようですから、問題はないかと思います」
たしかに、西宮が提示したテーマはフェロモン療法と事業展望といったものだった。
ビジネスに、ヒト、モノ、カネが動くという見方は、社会部というよりむしろ経済部の記者の視点だ。オメガの人権運動に興味があるようだが、今回の取材の狙いではないのかもしれない。
潤は頷いた。
「わかった。じゃあ、そのまま進めて貰って問題ないよ。日程調整よろしくね」
「承知しました」
「それで、ここからはプライベートな話だけど」
潤はあえて切り替えの言葉を入れる。その方がお互いに話しやすいからだ。
「尚紀、体調壊してるんでしょ? 仕事してて平気?」
本来の予定では、潤は今日の昼に尚紀とランチをする予定だった。尚紀からは颯真との経緯を詳しく教えてほしいと言われていたし、潤も祝福してほしかったからだ。しかし、朝になって彼から体調が芳しくないと連絡を貰い、約束は延期となった。
江上が親友が番を放って仕事をしているとは思わないが、潤は窘める口調になる。
「尚紀は少し疲れが出たみたいだから、大事を取って休ませてるよ」
江上の口調も友人のものに変わった。その言葉に潤も納得し安堵した。何しろ尚紀は復帰の撮影を一週間前に終えたばかりなのだ。
「そっか。最近忙しかったろうしね」
「潤に会えないことを残念がっていた。今日は一緒にランチする約束だったんだろう?」
「僕の行きつけのお店に案内する予定だったんだ」
「尚紀の調子は戻りつつあるから大丈夫。次回連れていってやって」
その言葉に潤は安堵した。
潤は頷いた。
「……そうだね。そうするよ。お大事にって伝えて」
江上との通話を切ると、ちょうどカフェの出入り口に白衣を脱いだ片割れの姿を認めた。
潤は、そのまま颯真と共に車に乗り込み、実家に向かうはずだった。しかし、運転席の颯真が急に寄り道をしたいと言い出した。
少し緊張していた潤は、少し拍子抜けした気分だったが、目的も行き先も聞かないまま、いいよと頷いた。
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