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(6)
颯真がそのまま車を駆って潤を連れてきたのは、実家から徒歩五分ほどの、かつての祖父母の家だった。
寄り道と彼は言うが、その意図が潤には読めない。でも、この家に二人で訪れるのはとても久しぶりで。潤自身、実家から僅かの距離でありながら、実際にここに来たのは十年近くぶりになる。
「颯真……?」
車から降り、潤は鍵が締められた所々錆びが目立つ鉄製の門の前に立つ。
外観や庭は最低限の手入れがされている。母茗子が、かつての両親の住居であったこの家を、祖父母の死後もきちんと管理しているのだろう。
それでも人が住まなくなって久しいと察するに十分な外観だった。カーテンがかかっていない窓や、明かりのない人気が感じられない室内、どうしても庭を覆ってしまう雑草などを見ると、やはり空き家であるとわかる。
颯真が、潤を引き寄せ手を握る。
潤も手を握り返した。ふたりで、夕闇に沈むその祖母宅を見上げる。
「潤、子供の頃はここで過ごした時間が長かったな。覚えてる?」
潤は頷く。
「もちろん」
実家よりこじんまりとしたこの洋館が、潤は大好きだった。一階に祖父母が居て、颯真と二人で二階でよく遊んだ。室内遊びに飽きると、庭に出て、梅の木に昇り、草木のトンネルをくぐり、芝生で転げ回った。
その裏庭を見やるが、あの頃の梅の木はもうなかった。
もう二十年近く昔の話だ。
「あの頃は楽しかったね。父さんと母さんはいなかったけど、颯真とおじいちゃんとおばあちゃんが居て、全く寂しくなかった」
「今でもその話をすると、父さんと母さんは複雑そうな顔をするけどな」
颯真の苦笑に、潤も頷いた。
「そうだね……。母さんからは、貴方たちは放っておいて大きくなっちゃったって言われたよ」
颯真と距離を置いていた時期に、カレーを作りに来た茗子と、そのような話をした。
「昔から二人とも忙しかったから、別に寂しいとか思ったことなかったよな」
「だね」
ただ、それは祖父母と颯真とこの家があったからに違いない。
「……だからかな、この家がこんなふうに空き家になってるのを見ると少し寂しいよ」
潤の言葉に颯真は頷いて、潤の腰を引き寄せる。暗がりとはいえ、公共の道ばたでそんな行為は少し焦る。
「颯真」
窘めるような声を、颯真は無視する。
「潤。提案だ。番ったら、ここで二人で暮らさないか?」
颯真の言葉に、潤は思わず彼の顔を見る。
そんなことは可能なのか。
「会社は遠くなるけど、通えなくはないだろう。
親から番う許可を貰ったら、母さんからこの家の権利を譲り受けたいと思ってる。そしたら……」
潤の脳裏に、ふいにあの温かい空気が想起される。この家に住めるならば、通勤なんてなんでもない。
それに、この朽ちかけた家は、自分たちが移り住むことできっとかつての頃のような生気を取り戻すだろう。颯真らしい提案で、この先のことにわくわくすらしてくる。
「うん……!」
潤は腰に添えられた颯真の腕に手のひらを添える。
「僕もここがいい」
颯真、素敵な提案をありがとう、と潤は彼の胸に顔を埋めた。
「それならなおさら、母さんたちに祝福してもらわないとな」
そうだ。この家を譲って貰うならば両親の承諾はなおさら必要だ。颯真の胸のなかで、潤も頷く。
「颯真、愛してる」
潤の言葉に、俺も愛してる、と颯真が返す。
その言葉の響きだけで、強くなれる気がした。
「おかえりー! 二人そろってなんて、久しぶりだよね」
祖父母宅から徒歩五分のところを再び車で移動して、自宅敷地のガレージに車を停めてから玄関のポーチをくぐる。
祖父母宅を出る時に、もうすぐ着く旨を母茗子に連絡を入れておいたためか、二人そろってポーチまで来ると、中から扉を開けて招き入れてくれた。
「ただいま」
潤がそう挨拶すると、茗子もお帰りと返してくれる。
「外、寒かったでしょう。お茶入れるわ」
お父さんはさっき社を出たらしいから、しばらくすれば帰ってくるわと茗子は告げる。父、和真が社長を務める森生グループの精密機器を取り扱う森生システムの本社は横浜にある。今日は本社にいるらしい。
思わず父のことを聞いて潤は颯真を見やったが、颯真は穏やかな表情を浮かべていた。
潤と颯真はコートをそれぞれの部屋で脱いでくると、ダイニングに向かう。
二人そろってスーツを着ているのだから、母茗子は何事だと思うだろうと潤は思った。
「あら、潤も今日は仕事だったの?」
茗子がそのように問いかけてきたので、潤は曖昧に笑う。このスーツを着ている理由は、父の和真が帰宅してからがよさそうだと思う。
ダイニングにはすでに食事の準備がされていた。茗子によると、久しぶりに家族が揃うために張り切ってしまったとのこと。今日は土曜日で、家政婦も来ないため一人で昼間から準備したらしい。
「手伝うよ」
潤がそう申し出ると、ならばパンを切ってトースターに入れて、とフランスパンを渡された。
実家のキッチンに立つのは久しぶりで、潤はジャケットを脱ぐと、バケットナイフを取り出してフランスパンをカットしてトースターに入れた。
茗子が腕によりを掛けて作った晩餐は、アイリッシュシチューだ。父和真の好きなメニューで、牛肉と野菜をギネスで煮込んだシンプルな煮込み料理だ。
前菜にカルパッチョ、菜の花のキッシュ、グリーンサラダのポテトサラダ添え、アイリッシュシチューにバケットだという。
ずいぶん手が込んだものが並んでいる。
「あ、ポテトサラダだ」
母のポテトサラダは茹で卵とブロッコリーと人参が入った彩り豊かなもの。潤が嬉しそうな反応を見せると、茗子は目を細めて頷いた。
「貴方たちの好物でしょう」
これらの料理の数々は、茗子からレシピを伝えられた颯真も度々作る。アイリッシュシチューは子供の頃は麦芽の渋みが少し舌に触ったが、成長してそれを旨みとして捉えられるようになり好物になった。
ポテトサラダはじゃがいもの潰し加減や味付けが難しいらしく、颯真でさえこの味が再現できないらしく、あまり作らない。
食卓に並ぶのは父と自分たちの好物ばかり。潤は、茗子の愛情を感じる。
潤は、純粋に食事を愉しみたいと準備をした母に対し、わずかに申し訳ない気持ちが沸いた。
父和真はそれからしばらくして帰宅した。
「お。今日は息子二人が揃って帰ってきたか。久しぶりだな」
父も嬉しいようで、諸手を挙げて歓迎してくれた。
家族でダイニングテーブルに着く。このテーブルに設置された椅子は四つ。これはすべて埋まるのは本当に久しぶりだ。
「和真さん、お酒の飲む?」
グラスを手にした茗子の問いかけに、和真はゆるりと笑みを浮かべて、小さく首を振った。
「今日は茗子さんが腕によりをかけて作ってくれたらしいから、酒はあとでいいかな」
後で付き合え、と和真が颯真に視線を向けた。颯真も無言で頷く。二人とも酒豪である。
潤は意外に思った。いつも和真は食卓で酒を愉しむことが多いからだ。
それでも、食後に颯真も付き合わされるのだから、おそらく今夜は実家に泊まることになるのだろう。
久しぶりだし、いいかと思う。
ダイニングテーブルに広げられた料理の数々を前に、四人で乾杯し、茗子が取り分ける。近況報告を交えながら食事を進めていく。
茗子が作るポテトサラダはやはり絶品で、潤がそればかり食べていると、颯真が茗子からジャガイモの下処理や潰し具合の目安、味付けのポイントを聞き出してくれた。
「ジャガイモはねえ、茹でるんじゃなくて蒸かすの。皮ごとね。それをざっくりと潰せばいいのよ」
「そのざっくりの加減が難しい」
「口に入れたらジャガイモがなんとなく残るくらい?」
「分かりにくいなー。何割くらい?」
颯真の突っ込みに、茗子が当惑する。
「えー? あまり考えたことないのよね。味付けも。勘に近いのよ。今度都合が付いたら作りにいらっしゃい。一緒に作ればコツも掴めるわよ」
家族四人のうち三人が経営者だが、見事なほどに仕事の話はしない。
「潤、お前は料理しないのか?」
「父さん、潤には料理は無理だよ」
颯真の即答に、和真が苦笑する。
「だって、颯真が居ないときは自炊くらいしていただろう?」
「……冷蔵庫、ほぼ空っぽだったな」
潤は何も言えない。本当にその通りだったからだ。和真が笑い声を上げた。
「お前はお母さんの料理の腕は継がなかったのか」
するとそこに参戦したのは茗子。
「それはむしろ颯真の方よ、和真さん」
颯真も頷く。
「俺、料理好きだよ。ストレス解消になるし、潤は美味しいって食べてくれるし」
「今時は、男性も料理は出来た方がいいって言うけどなあ」
潤は真顔で頷く。
「うん。そういう意味じゃ、颯真の方が断然モテるのは間違っていないよね」
他愛のない話を交わしながら、皿に盛られたカルパッチョもキッシュもポテトサラダも消えていく。
特にアイリッシュシチューは、父が旨い旨いを連呼しながらお代わりをして、茗子をよろこばせた。
久しぶりの家族団らんだ。
颯真と茗子が手早く食器を片付け、茗子が食後のコーヒーを淹れてくれた。
「で、二人揃ってスーツで来て。なにかあったのか」
やはり和真は何かを察していた様子で、それでも茗子が食事を楽しみいたいのが分かっていたためか、あえて話題を避けていた様子だった。
「あの」
潤が言いかけたところで颯真が、テーブルの下で潤の手を握り、それを止める。
颯真と目が合う。
すると、颯真がそれからふっと逸らし、和真に向かった。
「実は、今日は二人に報告があって来ました」
「何だ」
颯真と和真の間の空気が一瞬で変化する。ぴりっとした、緊張感が増した気がした。
「俺は潤と番います」
室内がしんと、沈黙が降り立った。
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