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アオイ④
エルミタージュへの出勤は月に1度か2度程度だ。
今月はすでに1度出勤したので、もういいか、と思っていたところだった。
平日は普通に会社員のアオイが出勤するのは、土日祝日。まとまった時間が取れる休日のみだ。
常連の神山 から連絡がきたのは、すっかり秋めいた9月も終わりに近づいた、金曜の夜のこと。
ブーッとメッセージの受信を通知するバイブが鳴ると「鳴ったぞ」とベッドの上で寛いでいたシンが、枕元のスマホをアオイに投げてよこす。
「おいっ、投げるなよ」
シンは聞こえないフリを決め込み、タオルケットに包まってベッドの上で丸くなった。
アオイの家は、学生の頃からは想像もつかない2LDKの立派なマンションだ。
学生時代、ボロアパートのお隣さんだったシンはもうお隣さんではない。だが電車で30分ほどの距離に住んでいて、学生の頃と同じ気安さでたびたびアオイの部屋を訪れた。
彼女はいない。
学生の頃からの質素倹約が染みついているアオイは、一番の倹約は恋人を作らないことだと知っている。
メッセージを確認すると『明後日の日曜は出勤できないか』というような内容だ。
「お、神山さんじゃん」
「何、客?」
「ん」
神山も、浅野と同じくアオイが学生の頃からの常連客だ。前回、前々回と貴重な予約を勝ち得たものの、急な仕事で泣く泣くキャンセルとなったのだ。神山とも随分と久しぶりになる。
アオイは『ドタキャンしないって約束するなら、出勤してもいいよ~』と返事をした。神山からの返事はすぐに返ってきた。
いく、と一言だけ。
スマホの扱いはあまり上達していないようだ。
アオイは小さく笑って店にメールを送る。この時間ならまだ阿部か加藤がいるだろう。
『急なんだけど、明後日の日曜出勤してもいい? 11時から19時』
「出勤すんの?」
タオルケットに包まったまま、シンが顔だけこちらに向けて訊ねる。
「うん、日曜日」
「ふーん……俺も出よっかな」
「そーしよ。明日も泊まってけば? んで一緒に出勤しようよ」
「ん、そうするかな」
アオイは続けてメールを打った。
『シンも同じ時間で出勤希望』
間もなく阿部から返信がきた。
『2人ともりょーかいです。よろしくお願いします』
こうして日曜日、アオイとシンは揃って出勤することになった。
日曜の朝、出勤確認の電話を店にすると「シンくんも、アオイちゃん11時から予約入ってるから。よろしくねー」と電話に出た阿部が和やかに言った。
そう言えば神山は無事に予約は取れただろうか。今日は神山のために出勤するようなものなのだ。
しかし、それにしても眠い。
久しぶりにシンと丸一日一緒に過ごしたので、ついはしゃいで昨日も夜遅くまで起きていた。
シンがこの店 で働く理由――それはきっとアオイだ。
アオイ同様、倹約家が骨の髄まで染みついたシンも、とうの昔に奨学金の返済は終わっている。この店で働かなければならない理由はなかった。大学卒業と同時に、2人は店も卒業したのだ。
毎日一緒にいた2人も、ボロアパートを出てそれぞれ会社の近くに引っ越してしまうと、日々の忙しさにかまけて徐々に疎遠となっていった。
アオイが会社を辞めるまでの3年近くの間、事実シンとは殆ど音信不通と言っていい。というよりも、時々来ていた連絡をアオイが一方的に無視していた。
にもかかわらず、シンはアオイの話を辛抱強く聞き、当時の壊滅的な生活を精神的にも肉体的にも支えてくれた。
シンは「そんな辛い仕事ならさっさと辞めちまえ」と言い、ビールと栄養ドリンクしか入っていない冷蔵庫を見て死ぬほど怒った。
そしてひとしきり怒った後、アオイのためにアパートから一番近いコンビニまで買い出しに出掛けたのだ。
「くそ、何もねーじゃん。あのコンビニ」
とブツブツ言いながら買ってきたのは卵ともやしだ。
いつ買ったかも覚えていない袋ラーメンに(何とか賞味期限はギリギリ大丈夫だった)、たっぷりのもやしを入れたもやしラーメンを、シンは作ってくれた。
「とりあえず食え! 食わねーと、何もやる気でねーよ」
最後にぽとんと卵を落としたラーメンを、アオイは夢中で食べた。夢中になり過ぎて無言になってしまったアオイに「実家に頼りたくないのも分かるけどさ」とぼそりと呟く。
シンは、友人であり、戦友だ。
貧乏暮らしも、風俗バイトも共に切り抜けてきた同士だ。
「ありがと」
「……水くさいんだよ。親に頼りたくないなら俺に頼れ」
「ん。ラーメン美味い」
「そうかよ。そりゃよかった」
具がもやしだけなんて、まるで学生時代のようだ。……卵が乗ってるなんて贅沢だけど。
懐かしい。
懐かしくて、すげー美味い。
アオイは新卒から三年勤めた会社を辞めることにした。
何とかもぎ取った有給が1ヵ月近く残っていた。しかし有給消化中に、上手いこと次の仕事が決まるとは限らない。そこでシンは就職した後もエルミタージュを続けていた麗 に連絡を取り、店に戻る手筈を整えてくれた。
「うち、出戻り大歓迎だから」
と、軽い調子で社長の後藤田は言った。
「アオイちゃん、おかえり」
と、入店時から既に働いていた阿部は、まるで久々に会う親戚のおじさんのような気安さで温かく迎えてくれた。
アオイ達が卒業する少し前から働きはじめた加藤は、当時不動のNo.1だったアオイを神聖視している節がある。
「アオイさん!おかえりなさい!」
と、キラキラ輝く目を向けた。
久々に会うキャストも、常連客も、皆アオイを歓迎し復帰を喜んでくれた。
正直、心底安堵した。
自分はここにいていいのだと。
実家ですら、ここまでの安堵は得られないだろう。
「お前が店戻るなら、俺も戻るから」
と、アオイとともにシンも店に復帰した。
「でも、いいの?……〝アレ〟治ったの?」
「……治ってねーよ。だから今更辞めようと続けようと変わんないの」
それでも躊躇うアオイに「悪いと思うんなら、また付き合ってくれたらいい」とシンはこともなげに言い放った。
「こっちはお前が音信不通のせいで、何年もご無沙汰だっての」
「そんなの、俺もだよ」
会社を辞めるまでの、特に直近の1年間。朝起きて仕事に行き、帰宅し、明くる日また仕事に行く。たったこれだけのことに精一杯で、それ以外のことを考える心の余裕なんて、これっぽっちだってなかったのだ。
*
会社を辞めて、新たな会社に勤めだして約2年。
アオイは心身ともに、すっかり健康だ。
「ふぁ~、ねみ」
店に着くなり、シンが大きなあくびをした。
「同じく」
「アオイがしつこいから」
「シンだってノリノリだったくせに」
シンが何か言い返そうと口を開いたが、控室のカーテンがシャッと開き現れた阿部に遮られる。
「アオイちゃん、シンくんっ。予約のお客さまいらっしゃったから! 準備して、早く早くー!」
2人は同時に「はぁい」と返事をして、お客様を迎える準備をするため、それぞれの個室へと向かった。
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