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シン②
二人の出会いは、高校を卒業したばかりの春休み。
進学を機に実家を出た。選んだのは築四十年超の、おんぼろアパートだ。
家具家電は必要最低限中古で買い集め、父が知人から借りたハイエースに乗せ、アパートまで運んだ。
父が帰ってしまうと、亘 は一人になった。
持ってきた荷物は本当に少ない。
お気に入りの漫画と、着替えが夏服、冬服も込みで大きめのダンボール二つ分。
部屋はすぐに片付いてしまった。今日からここは、自分だけの城だ。お節介な母親も、生意気でうるさい弟達も、天使みたいな妹も。ここには誰もいない。
憧れていた静かな一人だけの暮らしだが、いざ始まってみると存外さみしいものだ。
一人ぼっちの部屋でぼんやりしていたとき――ピンポン、と玄関の呼び鈴が鳴った。
マイクもモニターもついていない。「♪」マークのただの押しボタンで、インターホンとはとても呼べない。来客をただ音で知らせるだけの、かなり前時代的な玄関チャイムだ。
引っ越してきたばかりで友人もいない亘の家に、当然来客の予定なんてない。
噂のNHKの集金だったらどうしよう……と、扉ののぞき穴から外の様子を確認する。
しかし、そこに立っていたのはどう見ても同じ年頃の少年だった。
不審に思いつつ、扉を開けると目の前の少年は亘の顔を見るなり開口一番こう言った。
「あっ、やっぱり! キミも大学一年生? 上京組?」
呆気にとられる亘に対し、少年はにこにこと屈託なく笑いかける。
「キミ、名前なんていうの?」
「新田 、ですけど……」
「下は?」
「……亘」
「ワタル! 俺、隣の部屋なの。二日前に引っ越してきたんだけど、両隣空き部屋でさ、退屈すぎてどうしようかと思った! あ、俺、葵生川 です」
初対面の相手に対し、まったく躊躇いとか遠慮というものがない。
人見知りというわけではないが、それなりに他者への警戒心や気遣いというものを備えていた亘は、少々面喰った。
「え……けぶ……何?」
「け・ぶ・か・わ! でも言いにくいでしょ、望 でいいよ~」
第一印象は「なんだ、こいつ」。
これがアオイとの――葵生川 望 との出会いだった。
同じ年の葵生川望は、亘と同じく進学を機に実家を出た大学生だ。
奨学金とバイト代だけで生活しなければいけないという点において、二人は同志だ。
最初こそ、やけに馴れ馴れしい望に「こいつ、大丈夫か?」と不安を抱いていた亘だが、気さくで屈託のない望と打ち解けるのは、案外簡単なことだった。お互い貧乏学生だということが分かると、より二人の距離は縮まった。
二人は、入学式の前にはそれぞれバイト先を見つけてきた。
亘は近所のコンビニ、望は駅前のカフェ&バーだ。
生活がかかっているのだ。ここは親の庇護下ではない。生活費は自分で捻出しなければならない。
望の働くカフェ&バーはの営業時間は、朝は七時から夜は深夜一時まで。
おはようからおやすみまで、様々な客が訪れる。女性が好みそうな雰囲気の店で、当然女性客が多い。従業員も9割女性である。
望は、特別背は高くないけれど手足がスラリと長く、切れ長の目がどこか色気のある男前だ。
当然、モテる。
同じアルバイトの女子大生から常連客のOLまで、まさに入れ食い状態。それなのに望が誰かと付き合うことはなかった。
大学がはじまると、望の周りは一層賑やかになったようだが、その姿勢は変わらなかった。
女の子からの人気なら、亘だって負けてはいない。
これでも高校ではバスケ部で、ポイントガードとして大活躍、キャプテンまで務めた。当然、高校時代はモテまくり、彼女が途切れたことはない。今だってバイト先でも大学でも、亘に興味を持つ女はそれなりに多いが、亘も彼女を作ろうという気にはなれなかった。
そんな金も時間もないからだ。
女と付き合うのは金がかかる。
一人だったら、一食の原価が100円以下で済むお手製お好み焼きで済ませるところを、彼女と出掛ければお洒落な流行りのカフェやレストランで1000円以上のランチセットを注文しなければならない。
午後のティータイム、映画、遊園地、水族館。
見栄を張って彼女の分まで出そうものなら、一か月に一体いくら必要なのか。目的地までの電車賃、街に出掛けるならば見栄えのいい服もいる。
金、金、金。金だ。
生きていくには金がかかる。
だが、女と付き合うには、もっと金がかかるのだ。
女と過ごす代わりに、望と一緒に過ごすことが増えた。食費節約のため、一緒に食事をすることも多い。一玉100円のキャベツを買っても、傷む前に使い切ることができるし、安上りで美味い上に、一緒にいて楽しい。いいことずくめだ。
亘と望は、盆休みも実家に帰らず働き続けた。
共益費、水道代込みの家賃42,000円。
新宿区にして驚異的な安さのボロアパート。
築四十年超、おそらく〝ユニットバス〟なるものができる以前の建物なのだろう。バス・トイレは別(ただし和式)、風呂場に張り巡らされた黒丸のタイルは……まあ、よく言えばレトロである。
9畳という余裕の広さのワンルームは、隣の音は筒抜けだが慣れれば中々快適だった。
びっちり埋まった授業をこなしつつのバイト漬け生活にも慣れてくると、やはりそこはお年頃のオトコノコ。性欲は溜まるもの。
三歳年上のバイト先の先輩は、何度断っても積極的に誘ってくる。
あるとき亘は、望が夜遅くなる日を狙い、ボロアパートに連れ込んだ。
積極的に誘ってくるだけあり先輩はベッドの上でも積極的で、亘は数か月ぶりに心身ともにリフレッシュした。
「亘クン、また来てもいい……?」
あれだけベッドの上で果敢に腰を振っていた先輩が、突然恥じらいを見せるこの様変わりに思わず浮かびそうになる苦笑を封印し、亘は柄にもなく甘ったるく微笑んでみせる。
「うん、また来て欲しい」
マナーとして彼女を駅前まで送り届け、アパートに帰ってきたとき。
がちゃりと隣の部屋の扉が開き、にやにやと笑みを浮かべる望が顔を出す。いないものとしていた望の登場に、亘はギョッとした。
「亘クンったら、お・さ・か・ん~!」
「えっ……はっ!? な、何でいんの!? 今日バイトじゃ――」
「バイトだよ? 今日すっご~く暇でさ、早上がりさせられちゃったの。おかげで面白いもん聞いちゃった」
「趣味悪すぎ」
「亘クンは激しすぎ」
「……黙って?」
望はからからと声を上げて笑った。
「廃棄のケーキもらってきたんだ。セックスして腹減ったっしょ? 一緒に食わない?」
夕食は、彼女の差し入れてくれた近くのカフェのサンドイッチやデリを一緒に食べた。たしかに望の言う通り、久しぶりのセックスでとても腹が減っていた。
「食う」
即答した亘に、望は再度声を上げて笑う。「おいで」と扉を大きく開け放ち、亘を迎え入れた。
望の部屋に入ると、亘は迷うことなく座椅子タイプのリクライニングソファに腰を下ろした。お互いの部屋にはしょっちゅう出入りしている。
ここは、亘の部屋以上に殺風景だ。
家具はベッドとこのちゃちなソファがあるだけで、テレビも本棚もない。教科書や小難しい参考書が床に直接並べられているだけだった。
望はインスタントのコーヒーをいれ、亘の隣に座った。
安物のソファは男二人で座ると狭いが、仕方ない。
「亘、コーヒー」
「ん、サンキュ」
「カップ一緒でいいよな」
望の部屋に行っても、お客さん扱いされなくなって随分経つ。
最近はコーヒーを入れるときも、カップは大きめのマグカップ一つで、二人でシェアして飲むのが普通になってきた。洗い物も一つで済んで都合がいい。
「亘、どれ食べたい?」
「わっ、いっぱいあるじゃん」
「これ、秋の新作だって。カボチャのタルト」
「あっ、俺それがいい」
広げて見せてくれた箱の中には色とりどりのケーキが並んでいた。
望のバイト先は都内中心に展開しているローカルチェーンのカフェ&バーだが、デザートにはかなり力を入れているらしく、工場生産の冷凍ケーキとは違いかなり本格的だ。専属のパティシエが工房で全店分のケーキをすべて手作りしている。
大体いつも売り切れてしまうため、廃棄処分になること自体が稀だが、こうしてときどき望が持って帰ってきてくれるケーキは、いつも何を食べても美味しかった。
「美味い?」
と、望はにこにこしながら小首を傾げる。どうやら望の癖らしい。
無意識にやっているようだが、男のくせに可愛らしくて亘はときどきドキリとさせられる。
「ん、美味い」
タルト地はサクサクホロホロで、まるで焼き立てのように香ばしい。
二層になった、バニラが香るカボチャのムースと、カボチャのペーストはとても滑らかで口の中でとろける。しかしカボチャ感を損なわないしっかりとした重さもあって、堪らない美味しさだ。よかった、と望もにこにこしながら洋梨のシブーストを頬張った。
「亘は、ほんと何でも美味そうに食うよな~」
「そう?」
「うん。もやししか具のないラーメンでも、ここのケーキでも」
「どっちも美味いもん」
望は声を上げて笑うと、亘の髪をくしゃりと撫でて「お前のそういうとこ、すげー好き」と言った。
――〝好き〟。
その言葉の響きにどきりとする。
「なにキモいこと言ってんだよ」
「えーっ、亘ちゃんつれな~い」
「うざ」
望はやっぱりからからと声を上げて笑って「あ~、うまっ!」と残りのケーキをペロリと食べた。
――……俺も、お前のそういうとこ、好きだよ。
しかし気恥ずかしさが勝り、それは言葉にはならなかった。
両親がいて家族仲もよい亘の家とは違い、望の家は少々複雑なようだった。親には意地でも頼りたくない望は、必死で働きながら学校に行っている。
そんな苦労を微塵も見せず、いつもにこにこ(ヘラヘラともいう)明るい。
何も知らない人間が見たら、悩みなんか一切なさそうな、イケメンでさぞリア充大学生に見えることだろう。カッコよくて頭もいい。仕事もデキるようだし、女にモテる。妬まれこそすれ、同情されるようなことはないだろう。
そんな望のことが大好きだ。尊敬する。
素直になれない亘と違い、気持ちをいつもストレートに言葉にしてくれる。
そんな真っ直ぐなところも、何もかも。
このボロアパートを選んで、よかった。
望と隣の部屋になれて、友達になれて本当によかった。
素直じゃない亘は、それを口にすることはこの先もきっとないだろうけど。
「残り朝飯にしよ。亘、部屋戻る? 泊まる?」
「泊まる……ふぁ、ねみーっ。急に眠くなってきた」
「えー? 風呂は?」
「朝にしよ。もう眠い」
亘はもぞもぞとソファからベッドに移動すると、タオルケットに丸まった。
おい、と望の呆れた声が聞こえたが、知らんぷりを決め込む。
「仕方ないな」
と、望の溜息混じりの声が聞こえたかと思えば、電気が消えた。水を使っている音がするから、歯を磨いているんだろう。
――あ~、俺も歯磨きしてから寝なきゃ。
そうは思っても、望の匂いのするタオルケットに包まれていたらすっかり安心してしまい、一気に眠気の波に攫われる。
シングルベッドの隣に、望の温もりが滑り込んでくる気配がした。ああ、温かい。気持ちいい。
夏場、エアコン代節約のため、寝苦しい夜は同じ部屋で眠ることにしてからというもの、同じベッドで眠ることにも抵抗がなくなった。
あっという間にバイトに明け暮れた夏は終わり、秋がすぐそこまで迫っている。
寒くなったらまた節電の名のもと、ベッドの上で寄り添い眠るのだろう。
幼い頃、友人の家に泊まりに行ったときのワクワク感を思い出す。
そんなことを沈んでいく意識の淵で考えながら、亘は深い眠りについた。
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