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第3話
「ブレンドコーヒーひとつ。ブラックで」
沖村が僕にメニューを手渡しながら言う。僕は手元だけを見て「かしこまりました」と返す。彼の注文はいつも同じだ。沖村が昔からコーヒーが好きなのかはわからない。彼がどんなものを好きかなんて、何ひとつ知らなかった。ファンだとか言っておきながら、僕は彼がバスケをしているところ以外、見ていなかったということに気づく。
梅雨入りして以来、沖村はこの二週間で五回はこの店に来ている。いつもスーツ姿で、いかにも外回り中の営業といった風だった。
僕が働く純喫茶『三日月』は、五十年以上前に創業した小さな老舗の喫茶店だ。「古き良き」といえば聞こえは良いが、今若者の間で流行りの「レトロでお洒落な」という店とはちょっと違う。店内はどうがんばって改修してもボロは目立つし、赤い布張りのソファや木目が綺麗に見えていたはずのテーブルも傷だらけだ。
それでもこの店は、大学生のときに上京して以来、一番気に入っている場所だ。店内にはレコードのややくぐもった音で穏やかなジャズが流れている。マスターが自分のコレクションの中からその日に選んだものだ。三日月という店名のとおり、月をモチーフにしたアンティークのオブジェやランプシェードが薄暗い店を彩っている。そしてなにより、マスターが淹れるコーヒーは絶品だった。ケチャップがたっぷり絡んだ特製ナポリタンも、ふわふわに焼き上げられるホットケーキも、何度も食べているが飽きたりはしない。コーヒー通の間ではそれなりに名が知られているようではあるが、店に来るのは基本的に近所の常連、それも年配の人ばかりで、若い人が客になることは珍しい。僕はその「珍しい客」のひとりだったわけだ。
だから、沖村がこの店に来るようになってマスターも僕も驚いていた。でも、店に来るのは雨が特別ひどいときだけだ。おそらく、最近になってこの辺りが彼の営業ルートになったのだろう。あまりにも雨に濡れた状態で客先に行くわけにもいかない。そんなときに、ちょうど空いている喫茶店が目の前にあった――そんなところだろうと僕は結論付けた。当然、僕のことを覚えている様子もない。
正直に言えば、ほんの少しだけがっかりした。でも、覚えているかと訊ねて怪訝な顔をされるのはあまりにも辛い。小心者の僕にはそんな勇気も根性もなかった。
レジのほうから足音が聞こえる。皿を拭いた布巾を手に振り向くと、沖村が所在なさげに立っていた。マスターはコーヒーをドリップしている真っ最中だ。僕が行くしかない。
「ありがとうございます。お会計は――」
そう言おうとして、銀色の丸いトレイの中にはすでに千円札が入っているのに気がついた。彼は窓の外を見ている。彼が店に入ってきたときには土砂降りだった雨はすっかり弱まり、時折柔らかな光が射していた。晴れ間が見えているのだ。
「四百円のおつりです」
トレイに釣銭を入れようとしたとき、目の前に大きな手が差し出された。僕は少しだけ迷って手を伸ばした。
「あっ」
百円玉が一枚、沖村の手からこぼれおちた。慌ててカウンターから飛び出す。沖村のすぐ後ろ側に転がっていくのが見えた。かがんで拾おうとしたとき、沖村の腕が伸びてくるのが見えた。指先がほんの一瞬だけ重なる。
「ご、ごめんなさい!」
勢いよく引っ込めた腕がびりりと痺れたように感じた。沖村の手のひらが崩れた小銭を包み込むように丸められる。
「大丈夫ですよ」
彼はくすりと笑って立ち上がった。
「このあたりに住んでいるんですか?」
唐突に沖村が切り出した。急な問いかけに息が詰まる。僕は唾を飲み込んで頷いた。
「いつから?」
「十年くらい前に上京してからは、ずっとこの辺にいます、けど……」
沖村がまっすぐに僕を見ていた。僕も彼を見てしまった。
君は? 本当はそう聞きたかった。でも僕の口から出てきたのは、「またお越しください」という定型文だけだった。
彼はほんの一瞬笑みを浮かべて踵を返した。
*
『明日は梅雨の切れ目となります。全国的に気持ち良く晴れ、青空が広がるでしょう――』
テレビを切り、リモコンを放り投げた。そのままベッドに横たわる。右手を目の前にかざした。
沖村の声が頭に残っている。高校生のあのときの感情がじわりとにじみ出てくる。
(ああ、もうダメだ)
下した右手がじんと疼く場所に行きつく。
「っ……」
沖村は、平凡な僕とは真逆の人間だ。明るい人気者で、バスケだけじゃなくて勉強だってよくできていた。彼にはファンがたくさんいて、四六時中彼の周りを囲んでいた。
「あ、……」
ゆるりと硬さをもちはじめたものに指を沿わせる。自然と息が上がる。
最初は、僕も普通のファンだと自分に言い聞かせていた。でも、こういうときに想像するのは決まって沖村の姿だった。
十年も経っているのに、やっていることは変わらない。口の端から情けない笑い声がこぼれる。ひとつだけ違うことは、妄想の中の沖村が、大人になった今の彼の姿ということだ。
『直井』
たった一度だけ僕の名前を呼んだ声を思い出す。沖村の顔がわずかに傾ぎ、柔らかな唇が触れる。僕は彼の唇に吸いついて、もっとほしいとねだる。彼はそんな僕を笑って、なだめるように僕の舌を舐める。身体は密着していて、彼のものも――都合が良いことに、想像の中ではしっかりと昂っていた。
「あ、あっ――」
彼のものに弾けそうな自身を擦りつける。
僕が彼のことを――好き、だなんて、誰にも知られるわけにはいかなかった。諦めなければと思っていた。気持ち悪いと思われるくらいなら、知られないほうがいい。
腰が揺らぎ、脚に鋭い緊張が走る。崖から突然落とされたように、ぐんと身体が重く沈みこんだ。
「僕は変態だ……」
肩で息をしながら枕に顔をうずめる。心に残る後ろめたさも、あの頃と何ひとつ変わっていなかった。
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