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第4話
「そういえば、最近彼を見ないねぇ」マスターが真っ白なコーヒーカップを拭きながら言った。
「ほら、雨の日に来るスーツの若いお兄さんだよ。ハルくんと同世代くらいじゃないかい?」
「そう、かもしれないですね……」
カップを受け取り、戸棚に片づけていく。
「もうしばらく雨も降っていないし、もしかしたらこのまま梅雨が明けるかもしれないね」
カップがソーサーの上でかちゃりと音を立てた。
「すみません」
マスターが首を振り、「今日は暇だねぇ」とのんびりとつぶやく。今日は奥のテーブル席に常連のおじいさんが座っているだけで、客はほとんど入っていなかった。窓からは濃い青の空に大きな入道雲が浮かんでいる。夏の気配が漂っていた。
雨が降り始めたのは突然だった。みるみるうちに空には黒い雲が広がり、轟音とともに窓に雨が打ちつけられる。遠くで雷が鳴り始めた。
「いらっしゃいませ」
マスターの声に顔を上げる。扉のところに肩を濡らした沖村が立っていた。小さな折り畳み傘はたっぷりと水をまとっている。
「ハルくん、はい」
「え?」
「ほら、あのお兄さんに渡してあげて」
手渡されたのは白いタオルだ。にっこりと笑ってコーヒー豆を取りに行ってしまう。彼が間違いなくブレンドを頼むからだ。カウンターから出ると、沖村はいつも座る窓際の席に向かっていた。
「良ければ使ってください」
「ああ、ありがとう」
「注文はブラックのブレンドですか?」
ソファに身体を沈め、沖村が僕を見上げた。
「覚えてくれた?」
どこかからかうような響きがあった。タオルで水を拭きとりながら、僕の返事を待っている。
「何度も、来ていただいていますから」
僕はかろうじて声をしぼりだした。彼の視線から逃れるように会釈をしてカウンターに戻る。
梅雨が終わったら、と考えてしまう。もしかしたら、彼はもうここに来なくなるかもしれない。高校生のときだってそうだ。二年の梅雨が明けてしばらくしたあと、転校してしまったのだ。
もし高校二年の僕に会えるとしたら、「転校する前にさっさと告白してしまえ」と助言するだろう。あの頃に思い切り振られてたら、今みたいにずるずると想い出を引きずっていることもなかったはずだ。
「タオル、ありがとうございました」
「あ、いえ……雨、止んで良かったですね」
レジでいつもと同じ金額の会計をする。今日はきっちり六百円、おつりは不要だ。
「ごちそうさま」
「あ、あの!」
扉へ向かおうとしていた彼の動きがぴたりと止まった。振り返った彼が、僕を見据える。
今ならどうだろう?
僕が同級生だと言ったら……僕は君に憧れていたんだと言ったら、彼は驚くだろうか。
「いえ……また、お待ちしています」
ソファの足元に折り畳み傘が忘れられていたのに気づいたのは、カップを片づけに行ったときだ。
「マスター、これ……」
「あのお兄さんの忘れ物かい?」
うなずくと、「今ならまだ間に合うかも」とマスターが言った。
「今日はまた雨が降るかもしれない。店は大丈夫だから、早く行ってあげなさい」
柔和なマスターがいつもよりはっきりと告げる。僕はまだ湿った傘を握りしめて走り出した。
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