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第5話

 すっかり鈍ってしまった身体は、少し走っただけですぐに息が上がってしまう。おまけに飛び出してきたものの、思いきり当てずっぽうで走ってきてしまった。この道を曲がった先に地下鉄の駅がある。移動するならそこだろうと思ったのだ。  背の高い人影が地下鉄への階段を下りようとしているのが見えた。  どうしよう。  一瞬の迷いの間に、彼の背中が遠ざかる。 「沖村!」  僕の呼びかけに彼が振り返った。肺が痛くて、足が震えて、膝に手を当てて立ち止まってしまう。ようやく眩暈が落ち着いたとき、黒い革靴が視界に入った。 「大丈夫か?」  沖村が僕の背をさする。顔を上げると、彼は僕の手から傘を取って目の前で振ってみせた。 「やっと呼んでくれた」 「……へ?」  沖村は満足気に笑みを浮かべている。 「もしかして、わざと……」 「そうでもしないと、ずっと知らないふりをするつもりだっただろ?」  悪びれもなく言う彼に僕は唖然とする。 「いつ、から?」 「最初から。気づかないはずがないだろ。直井は全然変わってないよ」  それに、とひと息間を置く。 「いつも俺のことを見てただろ」  かっと顔が熱くなる。完全にばれていたのだ。 「それなのに、お前は俺に声をかけるどころか、すれ違ったって絶対に目を合わせてくれない。気にならないわけがないだろう。だから、あのときだって――」  沖村は頭をかいた。まるで照れくさそうに。 「ギャラリーのどこに直井がいるかはわかってた」 「それって、あのボール……?」 「俺があんなに盛大に外すわけがないって、わかってたはずだけど?」  今度は拗ねたような表情になった。今まで見たことがない表情をいっぺんに見せられて、僕の頭は混乱しきっている。 「でも、どうして――」  ぽつりと小さな雫がまぶたを叩いた。道路にできた水たまりに波紋が浮かび、次々と重なっていく。  沖村が折り畳み傘を開いた。彼が僕の腕を引き、小さな傘の中に引き入れる。 「俺は、お前が俺のことを好きなんだと思っていた」  傘がぱたぱたとうるさく音を立てて震える。 「俺を見てるのは一体誰だと思って、陸上部の同じ学年のやつだって知った。気になってお前のことをずっと見てたのに、お前はまったく気づかなかっただろ?」 「え?」 「一年の冬のマラソン大会だって、お前の後ろを必死に追いかけてたんだぜ? 全然敵わなかったけど。おまけに転校するときすら何も言ってこなかったし。ああ、俺の勘違いだったかって……結構ヘコんだ」  何がなんだかわからなくて、まったく言葉が出てこない。 「あの喫茶店に入ったのは偶然だけど、ひと目見て直井だってわかった。お前だって俺に気づいただろうって思ったのに、お前は知らんふりするどころか避けてるみたいだったし……また勘違いか、って。昔も今も、俺ばっかり意識してるみたいで悔しくてさ。だからつまらない意地を張って、俺も気づかないふりをしていた」  沖村が傘を僕の方に傾けた。彼の目に薄い陽の光が差し込む。 「勘違いじゃ、ない。勘違いじゃないんだ。僕は、僕は……」  どこから話せばいいのだろう。伝えたいことはたくさんあった。今なら言えるはずなのに、僕の頭の中は想い出と溢れ出した感情が氾濫して大洪水のような有様だ。 「沖村に、ずっと憧れていたんだ。でも、そんなこと言えるはずもなかった」 「どうして」 「沖村と僕とじゃ、住む世界が違う、っていうか……」  沖村が目を見開き、そしてぷっと噴き出した。 「こうしてひとつの傘に一緒に入っていても、住む世界が違うって言えるか?」  ほらどうだと言わんばかりに笑みを浮かべる。十年前と変わっていない、眩しいほどの笑顔が目の前にある。 「俺は昔から、もっと直井のことを知りたいと思ってた。お前は?」  僕のことを知りたい。まさか、本当に? 混乱しながら必死に自分を奮い立たせる。今言わないで、いつ言う? 「僕も、沖村のことを知りたい。高校生のときのことも、転校してから今までのことも――それから、雨が降っていなくても君に会いたい」    沖村は驚いた表情で僕を見つめた。しまった。沖村は絶対にそんなつもりで知りたいと言ったわけじゃない。 「いや、あの、そういう意味じゃなくて、ええと――」 「どういう意味?」  沖村が僕の顔をのぞきこむ。恥ずかしすぎて目を合わせることができない。 「直井、こっち見て」 「今のは忘れてくれ。引き留めて悪かった」  傘の下から出ようとした腕を掴まれる。 「いつでも会えばいい。晴れていても、雪が降っていても」  遠くから「虹だ!」と叫ぶ小さな女の子の声が聞こえてきた。僕と沖村も同時に空を見上げる。  いつの間にか雨は止んでいて、空のてっぺんにぽっかりと晴れ間ができていた。その隙間から光が注ぎ込まれるように虹が降りてきている。 「さあ、何から話そうか」  そう言って沖村は傘をおろす。 「そうだな……まずは高校一年の梅雨の始まりから、かな」  彼は楽しげに微笑み、ゆっくりと閉じた。 ~Fin.~

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