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第1話

1785年:トランシルヴァニア 月の眩しさに、フレデリックは思わず目を覆った。 山奥深く、手入れが行き届かず、間伐もされない森は、人の都合などお構いなしに縦横無尽に枝や藪を茂らせている。先まで屋根のように厚く茂っていたかと思えば急に開けた場所に出たものだから、目が明暗についていかない。 手をそっと放せば、視界いっぱいに黄金色の月が広がっていた。その瞬間、フレデリックはここへ来た理由も、それに伴う責務も全てを忘れて、ただ美しいと思った。 ルーマニア公国は長く帝国の支配を受けていたが、百年前、解放戦争の後にはハンガリーに統合される形で組み込まれた。いまや何割という単位でハンガリー国民(マジャール)がルーマニアで生活していて、それを治める者もまたハンガリー貴族(マジャール)といった具合だ。 今回フレデリックが、故郷を離れ、こんな人里離れた山中で、山狩りを行っているのも、そんな背景が影響している。 なにしろ、境界付近の三つの村と、二つの山を治めるイシュトヴァーン家は、フレデリックが当主を務めるヴァール家とは解放戦争以前からの交流があり、現当主の妻はフレデリックの父のまた従妹だ。十六年前に父が戦死した時に初めてその事実を知り、実際には顔も見たことがなかった遠縁の親戚だが、血は水よりもなんとやらの貴族社会だ、助けを求められたら邪険にはできない。 加えてその内容のこともあった。こればかりは見て見ぬ振りもできないと、義父のエステルハージ公が渋ったのを押し通って来たのだ。 イシュトヴァーン家領内で、若い男女の不審死が始まったのは、もう一月以上前の事だ。最初はよくある風邪かと思われたが、急速にその症状を悪化させ、三日後に息を引き取った、そんな事が3人続き、疫病の可能性に震え上がる村人たちを、それ以上の恐怖に叩き落としたのは、4人目の被害者ジャコブ青年の証言だった。 「吸血鬼に襲われた」 泣きながら露わにされた首筋には、醜くえぐれた二つの咬創があり、まるで目のように住民を見渡したという。慌ててイシュトヴァーン伯が前三件の被害者の遺体を掘り返せば、どれにも同じ傷が残っていた。 吸血鬼の歴史は古い。1000年前にはその存在が確認されており、聖典にも所々に奴らの存在をうかがわせる記載がある。 獣と人間を混ぜたような醜い形で描かれるその化け物は、人など及びもつかない怪力と、鋭い感覚を持ち、剣や武器を持たずとも、たやすく人を引きちぎり、血をすするのだという。 だが、奴らの最も恐ろしい特徴はそんなものではない。 奴らの最も恐ろしい特徴は、その毒である。吸血鬼の体液には毒があり、噛まれたり、もしくは性的接触を持ったりすると、高熱、幻覚、貧血などの症状を引き起こし、大抵三日以内に死亡する。解毒の術はなく、吸血鬼討伐の為に呼ばれたヴァール家の私兵たちも、その毒を恐れて、真夏だというのに一切肌の露出を許さぬ恰好に身を包んでいる。 若者達は命を奪われただけでなく、“辱め”も受けたという事実が知れ渡った。遺族の悲しみはどれほどのものか。遺体は灰になるまで燃やされ、集団墓地にすら入れてもらえない。とっくに悲劇の実態を察していただろう遺族が、全員口を噤んでいたのも無理はない話だった。 とは言え、同情ばかりもしていられない。イシュトヴァーン家領から、山を一つ越え、川を一つ渡れば、すぐハンガリー王国である。王国最東部に領土を持ち、エステルハージ家と共に、東の防衛線を担ってきたヴァール家からすれば、災厄をまき散らす悪魔を見過ごすわけにはいかなかった。 エルデーイについてすぐ、フレデリックは被害者の容貌をまとめさせた。悪名轟く吸血鬼は多くが“美食家”で、好みというものがある。案の定今回の被害者も一様に、スラブ系の面立ちをした美しい少年少女で、年ごろは十五から十八、昏い色のブルネットないし黒色の髪を長く伸ばしている点が共通していた。その条件に当てはまる若者を先に見つけ、襲い掛かるところを待ち構えるという寸法である。 イシュトバーン伯に言わせるところの『エステルハージの婿養子の地味な献策』であったが、これが功を奏し、先日は、あと一歩というところまで吸血鬼を追い詰めたのだ。 その際、駆けつけた現場で、フレデリックは、吸血鬼と対峙していた。 初めて見た吸血鬼は、絵姿で伝わる怪物とは違い、言われてもわからないほど人間らしい姿をしていた。こちらを見据えた夜色の目には深い知性が垣間見え、整えた髭や、仕草には化け物とは程遠い気品のようなものがあった。それが、フレデリックに弓を引く部下への命令を躊躇わせた。もしかしたら本物の人間かもしれない、と。 だが、フレデリックをあざ笑うかのように、袋小路の吸血鬼は、軽々と屋根に飛び移ると、到底人には真似できぬ身のこなしで、夜闇へ消えていったのである。 地元の猟師や優秀な猟犬を交え、その跡を追跡し一週間、ようやくこの山の一定のポイントまで絞り込むことができた。もうあんな失態は繰り返さない。フレデリックは、自分を戒める意味も込めて、帯剣の柄を強く握りしめた。 「フレデリック様、少しお休みになられてはいかがですか。もう三日も寝ておられません」 夜陰に紛れるフードを身に着けたヴァール家私兵団団長のジャクシスが後ろから追いかけてきた。 「あと少しなんだ、ここで寝たら集中が切れる」 「疲れていたら肝心の戦で、剣の重みにたたらを踏みますよ。どうせ吸血鬼相手に夜襲は無謀です。今日は索敵と包囲網の確認だけのはずでしょう。一足先にお戻りください」 「もし、吸血鬼が今晩襲い掛かってきたら?」 「フレデリック様が勇敢にも止めを刺したと、エステルハージ公にはお伝えします」 「生意気な」 フレデリックは鼻で笑って剣を抜いた。重みでよろめく事はないが、手に吸い付くように慣れ親しんだ得物が、いつもよりも重く感じる。疲労感を自覚してしまうと、もう駄目だった。包囲の人員が少しずつ交代していく中、フレデリックも下山する馬に乗る。 「三時間寝たら戻る。後を頼んだぞ」 「かしこまりました」 討伐隊の特設キャンプは山のふもとに設営している。交代した十二名と共に、フレデリックはそこを目指し下山する。その内、ヴァール家の私兵団が三名、イシュトヴァーン家の護衛官が二名、他はイシュトヴァーン家領内から集められた青年たちだ。今回の討伐隊全体の割合もおおむねこの通りである。 フレデリックは吸血鬼とやらがどれほど強いのか、思いを巡らせた。軒並み文献は読み漁ったつもりだったが、世界各地で目撃例や被害例が出ている割には、討伐例は驚くほど少ないのだ。 直近の例では三年前北方で三十六人が犠牲となったキエフの吸血鬼がいまだ捕まっておらず、十八年前のウィンストンの吸血鬼、二十年前のヨークの吸血鬼など、当時の欧州を凍り付かせた奴らも捕まっていない。討伐例で近いものは十四年前のエルデーイ南部の女吸血鬼だが、当時の記録には魔女狩りじみた所もあり、実際に吸血鬼だったかは疑わしい。それ以前では百年ほど前に討伐された例があったが、英雄譚のように脚色されていて、正しい情報をつかむのは難しかった。 思うに、吸血鬼は人間に似すぎているのだろう。だから、人に紛れてしまえば追うことはたちまち困難になり、ひいては思っている以上の数の吸血鬼が、身近に潜伏しているのかもしれなかった。人中で派手に暴れた者は存在が表出しているが、なるべくそうしたリスクを取らぬ者もいるだろう。そして、戦時の欧州の混乱を思えば、発覚していない犠牲者が幾らいても驚くことではない。 薄気味悪さが、この地に来てからいつもフレデリックのそばにあった。しかし、吸血鬼は決しておとぎ話の不死の悪魔ではない。熊や狼と同じに実態を持ち、剣と弓矢で殺せる害獣なのだ。フレデリックは自分を奮い立たせた。 だが、その克己はすぐに打ち砕かれる事となる。一行の先頭で、いきなり悲鳴が上がった。 見れば、血を拭きだす首を抑えながら落馬したのは、先頭を任せていたイシュトヴァーン家の護衛官たちだった。農民たちは恐慌状態に陥り、フレデリックに付き従っていた私兵団たちは抜剣し主君の周りを囲う。武器を捨て、山を駆け下りた者たちもいたが、その人数分だけ、暗がりから悲鳴が帰ってくる。 あたりは木々と夜闇に没し、襲撃者の姿を隠す。フレデリックは逃げ惑う農民たちに向け、声を上げた。 「隊から離れるな! 武器を拾い、背を合わせ、陣形を作れ!」 おずおずと、不格好な陣形が形作られていく。フレデリックも、馬上では咄嗟に動けないと、馬を下りた。 ふと、枝のこすれる音がしたかと思うと、藪の中から何かが飛び出し、陣の外周にいた農民の一人を捕まえて再び闇の中に消えていく。フレデリックにはろくに姿も見えなかった。恐るべき速さである。 「狼煙を上げろ!」 私兵団の一人が、火薬を入れた狼煙袋に火を点けて狼煙を上げた。混ぜてある薬品がぱちぱちとはじけながら、まっすぐに白い煙が上がっていく。これに気づけば応援がやってくるはずだ。 まだ十人近い人数が残っている。陣は完成し、応援が来るまでの時間なら稼げるだろう。 しかし、その希望もやはり打ち砕かれた。突然、夜陰より何かが飛来したのだ。恐怖に駆られた農民が振るった鍬に叩き落とされたそれは、目を剥いた人の生首だった。 死体に見慣れた兵士ですら血色を失う形相のそれに、農民たちは一瞬で恐慌を取り戻し、隊列が崩れた。こうなると、統率を立て直すことは難しい。私兵団の三人とフレデリックは、自分たちだけで陣をとった。 真正面から“それ”は現れた。背中の中ほどまで伸びた黒髪、丁寧に整えた髭、三十後半から四十半ば程と思われる面は、元々の美貌に加え、倦怠と哀愁が強く滲んだ貴族特有の上品な雰囲気があり、全身に浴びた血さえなければ、道に迷った有閑貴族だと思ったかもしれない。 吸血鬼は優れた舞台に送るように、手を叩きながらゆっくりと近づいてくる。本物の吸血鬼の登場に、農民たちのパニックは最高潮に達した。次々と背を向けて潰走していく。 フレデリックは正面から見据え、剣を構えた。自らの失態を感じた。 最初から、吸血鬼と狼との違いを失念していたのだ。害獣と違い、吸血鬼には知性がある。初撃で手練れを討ち取ったのも、恐怖を使いこちらの陣形を乱したのも、狼では取りえない策略というものだった。 農民たちの悲鳴が遠く離れていくと、吸血鬼は口を開いた。 「お初にお目にかかります。ハンガリー王国、ヴァール伯フレデリック様とお見受けいたしますが、いかがか?」 低いバリトンの、訛りが一切ないマジャル語だった。自分の名前を知られていたことに加え、吸血鬼に話しかけられるとは思わなかったフレデリックは、内心の動揺を押し殺すと、背筋を伸ばしてはねつけた。 「人にものを尋ねるときは、自分から名乗るものだ」 「それは大変失礼を、わたくしはルーマニア公国、チャウシェスク卿ヤノーシュと申します」 「ルーマニア公国? 百年以上も前に滅んだ国だ。今はハンガリー王国領と呼ばれている」 そこで、吸血鬼は初めて温和な笑み以外の人間臭い表情を見せた。苦笑である。 「かような身になってから、二百年余りがたちますが、人間社会の時間とは相いれず、世情には疎いのです。的外れな妄言も、お許し召されよ」 ちらりと見せた眼光は思いのほか鋭い。フレデリックの背中に、嫌な汗が伝う。 道化じみて謝ってはいるが、かつて王国から統合と独立を繰り返したルーマニア公国の人間らしい誇りと、闘争心は、本物のように感じる。 「世情に疎い男が、王国の田舎貴族の名を知っているとは、おかしなことだ」 「ご謙遜を、継承戦争で武勲を上げた先代に勝るとも劣らない大器であると、ご高名は拝聴しております」 「吸血鬼に世辞を言われることになるとは、片腹痛い。何が目的だ? 命乞いか」 「ふむ、確かに命は惜しいですが、それ以上に……」 そこで吸血鬼は言葉をきり、夜の闇へと首を傾げた。どうやら、フレデリック達には聞こえない音が聞こえているようだ。 「……どうやらお仲間が狼煙に気づいたようで。お話は楽しいのですが、こちらの用事を済ませていただきましょう」 フレデリックの全身が、頭より先に動いていた。 「右だ!」 指摘された私兵団員が剣を上げるが、地面が抉れる勢いで助走をつけた吸血鬼はそれより早い。構えの合間を縫うように手を伸ばすと、剣も持ってはいないのに、冗談のように兵の首が吹き飛んだ。さらに化け物は間髪入れず、鞭のような足払いをかけると、倒れたもう一人の顔面に手刀を突き立てる。 フレデリックはその時初めて、兵の両目に刺さった、長く伸びた鉤爪を見た。 最後の兵が動揺をふりきるように剣をふるった。相手は早すぎる。行動を許せば、こちらは対処できることもなく死ぬだろう。フレデリックと共に、反撃の暇を与えず打ち込んでいく。さすがの吸血鬼も、両腕の爪を使い、剣をいなしていく。 一瞬の隙を見て、フレデリックが爪の合間をつくように剣を突き入れる。吸血鬼は刃と柄に爪を絡めると、その心臓の直前で剣を止めた。しかし、それこそフレデリックの狙いであった。今度は全体重をかけて剣を押し下げる。どんな作りをしているのか、吸血鬼の爪が折れることはなかったが、思わぬ方向から力を受け、その体勢が崩れた。 兵が隙を逃さず、首元を狙い袈裟懸けに切りつけた。肉を断つ鈍い打撃音がするが、致命傷を与えるはずの一撃は、すんでの所で届かなかった。吸血鬼はほんのわずかに肩を持ち上げ、上腕骨に食い込ませるようにして、剣を止めていたのだ。 「ほう、これはなかなか」 何やら愉快そうな表情を浮かべ、肩に食い込む剣を見た吸血鬼の前で、二人は一瞬対応が出来なかった。 姿勢が崩れた動揺をものともせず、片腕を犠牲にすることもいとわない判断力や、剣筋を見切り、それを可能にした反射神経も化け物の名にふさわしいが、歴戦の戦士が全力で振るった剣は常人の腕ならば一刀両断するだけの威力があったはずだ、おそらく鉄並みの強度を持つ頑強な骨は、人間とはつくりがまるで違うのだという事実と絶望を思い知らせたのである。こいつには勝てない、その絶望が動きを止め、その隙は決定的に勝負の明暗を分けた。 吸血鬼が、剣の食い込んだ腕を兵士に向けて跳ね上げると、装備も含めて80キロをくだらない成人男性の体が、人形のようにひっくり返る。慌てて引こうとしたフレデリックの剣を素手で握ると、彼を引きずるようにして、起き上がろうとする兵士の胴を踏みつけた。苦鳴が聞こえる。フレデリックが叫んだ。 「やめろ!」 しかし、吸血鬼は止まらずに、片手で掴んだフレデリックの剣を、兵士に突き立てた。 振り落とされたフレデリックは、急速に死体に変わりつつある部下の前で言葉を失ったが、すぐに起き上がると予備の短刀を抜き、切りかかる。吸血鬼は、流れるような所作でその手をつかんだ。軽く力を入れただけのように見えたが、万力に挟まれたような激痛に、指が短刀を取りこぼす。 脂汗を浮かばせながら、フレデリックは矜持だけは折るまいと、化け物を睨みつけ、吐き捨てる。 「殺すがいい。しかし、私の部下が必ずお前を討ち取るぞ」 「……予感がする、という経験をした事はありますか?」 唐突の問いに、フレデリックは面食らった。しかし、相手は返答を求めてはいなかったようで、熱に浮かされたような表情でフレデリックの拳を引き寄せると、もう片方の手でその頬を撫で上げた。先ほどまで剣をつかんでいた手であった為、べったりと吸血鬼の血が、白い頬を汚す。その手つきの意味するところもそうだが、吸血鬼の体液は毒とひらめいた頭が、反射的に逃げ出そうとする。しかし、手練れの兵士たちを討ち取った怪力はびくともしない。 「は、はなせ……」 「そう怯えずに……あぁ、無体はあまり働きたくないのですが、時間もないようだ」 吸血鬼はまるで犬がそうするかのように、一方へ顔を向けて音を集めた。フレデリックの耳にも人の声や足音がかすかに聞こえる。応援がこちらへ向かってきているのだ。声を上げようとした喉を、吸血鬼が掴んだ。 「少し静かにしていただきましょう」 吸血鬼の指に力が込められ、耳に鼓動の悲鳴が響く。呼吸と血流の両方を止められ、瞬く間にフレデリックの意識は暗中に没した。

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