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第2話【R18】
目を開く前に、雨のあとのような湿った臭いを感じた。仰向けに寝かされていたフレデリックの目に飛び込んできたのは、夜空ではなく、岩盤でできた硬質な天井だ。
洞窟か何かだろうか、しかしゆらゆらと燃える骨董品のカンテラが、古い材木で補強された壁面を照らしている。印象は使われなくなった坑道だった。
フレデリックは身を起そうとして、違和感に気づいた。頭上にあげられた腕が縛られ、岩盤に突き立てられたピックに括り付けられている。しかも一糸まとわぬ姿で、毛皮の上に寝かされているのだ。さしものヴァール家当主も血の気を失う。その時、暗がりから声をかけられ、まるで生娘のように身をすくめてしまったのも無理からぬ事だった。
「お目覚めですか」
闇から生まれた化身のように、音も立てずに吸血鬼……ヤノーシュは近づいてきた。血染めの上半身の服は取り払ったらしく、腰を締め、裾のゆったりした帝国風の履物以外は何も身に着けていない。服を着ていた時には痩身に見えたが、実際、長い手足の骨組みには、締まった筋肉が乗っており、いかにも有閑貴族といった耽美な面立ちに似あわず、戦いを経験してきた体だった。
相手を観察しているうち、フレデリックは異変に気づいた。
(傷が、ふさがっている)
先立った部下が、吸血鬼の肩に残した傷は、骨まで到達する深いものだったはずだ。しかし今ヤノーシュの肩には、伸びたミミズに似た桃色の筋が盛り上がっているだけで、あたかも一月ほど時間を前借りしたかのような治り具合である。眠っていた為、正確な時間の勘はないが、一晩以上寝付いたつもりもない。声もなく驚いていると、フレデリックの視線を感じたらしく、ヤノーシュは傷を負った肩をすくめて見せた。
「この体の数少ない利点ですよ。即死でもしない限りは、大抵の傷が治ります」
「化け物め」
ヤノーシュは苦笑した。
「否定はしません。ですが、ご存じのように私ももとは人間だったのですよ」
ヤノーシュは長い指を伸ばし、フレデリックの黒髪を弄った。
「ルーマニア公国はハプスブルク勢と帝国に挟まれ、長年緩衝地帯として緊張状態にありました。私の家はしがない地方貴族で、当代公家に仕えておりましたが、閣下が崩御された際に、継承でもめましてね。落ち延びるさなか、“マスター”に拾われ命を長らえました」
フレデリックは吐き捨てた。
「悪魔と手を組んだわけだ」
ヤノーシュは心外だと言わんばかりに首を振った。
「私の事はなんとでも言えばよろしいが、マスターは悪魔などではありませんでしたよ。彼女は戦地を渡り歩き、極力生きた人間には手を出さなかったし、“花嫁狩り”などもっての外という方だった。折悪く魔女狩りに巻き込まれ、人間に捕縛された際も、無闇に命を散らす事を厭い、自ら処刑台に上ったほどです」
ヤノーシュがフレデリックの髪を引っ張る。
「『自分の仇を討とうと思うな』と強く申しつけられていますので、それに関して考えることは止めました。彼女に習った生き方を続け、人間社会の影を縫うようにして過ごしてまいりましたが、その内彼女が大切なことを教え忘れたと知ったのです」
フレデリックはヤノーシュの目に暗い光が宿ったのを見た。温和で理知的とすらいえる元青年貴族の目が、まるで底に槍を仕込んだ落とし穴のような、虚無と暴力的な悪意をのぞかせる。思わず身を引こうとするが、捕まれた髪が邪魔をする。
「我々は人と触れ合うことが出来ません。触れれば容易く人は死ぬし、そもそも生きている時間が違いますから、みるみるあなた方は老い衰え、そしてやはり死んでしまう。同じく長い命を持つ仲間がいるというのも聞いたことがありますが、彼らも隠れて生きているため、見つけ出すのは容易ではありません。マスターと共に過ごしていた時は気づきませんでしたが、我々は本来孤独な種なのです。このまま先も見えないほど長い時間、孤独に耐えながら生きていく方法は学ばなかった。その時罪深い発想に至ったのです。仲間が見つからないのなら、作ればいいのだと……ところで、我々がどうやって仲間を増やすかは、ご存じですね?」
「無駄なことだ。信心深い者は、そうはならない」
ヤノーシュは優しげな笑みを浮かべると、自分の胸元を探った。取り出したのは、金のロザリオだ。震えがくるほど精緻な細工で、磔刑の救世主の苦悶の表情はまるで生きているかのようだった。
「我が家は代々敬虔な信徒でしてね。喜ぶべきことに、こんな身になっても信仰だけは自由です」
ヤノーシュの手が、青くなったフレデリックの裸の胸をなぞる。一層強く抵抗するも、押し返す体はびくともしない。『誰か!』叫んでみるも、声はむなしく岩盤に当たって返るばかりだ。
「この洞窟は、父の代に掘り進めた銀鉱です。地下水脈に当たって、二十人以上死なせ、泣く泣く入口を埋め廃坑にしました。今では地元の者も存在は知りません。抵抗は止めたほうが……楽しめますよ」
カチャリと硬い音がしたほうを見れば、ヤノーシュが傍らの小箱から手のひらほどの小瓶を取り出していた。とろりとした液状の中身がフレデリックのヘソ辺りへ落ちると、花のような甘いにおいがする。香油だった。
ヤノーシュは、それを指ですくうと、下腹部へと伸ばしていく。水気のある音を立てて、フレデリックの竿をしごくと、恐怖や嫌悪に反して、仕事にかまけ、一月近くも構わなかった部分が反応する。フレデリックは羞恥だけで死ねそうだった。目をつむり、募る解放への欲望に対抗するも、寄せた眉根に、ヤノーシュの笑う吐息がかかる。
「中々愛らしい顔をされる。そちらの経験がおありで?」
「ふざけるな……うっ」
もう片方の手は、フレデリックの体のラインをなぞるように愛撫する。ヤノーシュは感心したように言った。
「ご高名に恥じない、剣さばき。さすがに体もよく鍛えていらっしゃる。これでそのお顔なのですから、さぞご婦人がたが放っておきますまい」
「女には、な……こんな男を慰み何が楽しい」
「実を申しますと、私もできれば少しでもマスターに似た者を仲間に加えたいという我儘はあります。そして、残念ながらあなたはマスターとは似ても似つかない……この美しい黒髪以外はね」
ヤノーシュは慈しむように、黒髪を撫でた。
「ですがあなたを一目見た時、マスターの言葉を思い出したのです。『予感がする』と」
「よ、予感?」
口を動かしながらも、ヤノーシュは手を止めない。気を紛らわすため、うわ言のように聞き返えせば、ヤノーシュは熱のこもった声で答える。
「えぇ、まるで旧知に合うような、一体感と申しますか。きっと、上手くいくという予感があるのです。フレデリック様、あなたはきっと上手くいく」
「くぅっ!!」
何が“上手くいく”のか、追及する間はなかった。ヤノーシュの白い手が、解放寸前でフレデリックを強く掴む、痛みともどかしさにフレデリックは背を逸らせた。
「ご無礼を、ですがまだ達しないほうが楽ですよ」
「はぁっ……はぁっ……?」
長い指が油と先走りの混じったものを、さらに後ろへ、双丘の秘所へと運ぶ。人に触れられた事などないそこが、思わぬ刺激を受け、フレデリックは悲鳴に近い声を上げた。
硬く閉ざした門に、狡猾な蛇のような動作で長い指が滑り込む。恐怖と羞恥で逃げる腰を追うようにして、二本目が続く。怒声を上げ暴れるフレデリックを怪力でねじ伏せつつも、指は紳士的に中をこじ開け、恐ろしい準備を進めていく。執拗に押し広げる手つきは、慣れた様子で痛みもなく、当初あった抵抗が物理的にも感覚的にも遠のいていく。それどころか、腹側の一部分を硬い指の節が圧迫すれば、未知の感覚に翻弄される。窄めて締め出そうとすれば、あざ笑うように敏感な所を嬲られる。
ジンと染みるような快楽が、無理やり底上げされていく。認めたくはないが、ヤノーシュは巧みだった。一度萎えた物が、再び芯を通そうとしている。抵抗にも快楽を逃がすのにも体力を消耗したフレデリックの息は上がり、ぐったりと毛皮に身を預けた。
(熱い……)
妻と一夜を明かした後と似た疲労感に、意識が一瞬故郷へと飛ぶ。
強姦魔にありえぬ前戯を尽くしたヤノーシュが前をくつろげたのにも気づかなかった。
「あっ」
指ではない圧力を秘所に感じ、フレデリックは夢から引きはがされた。
「やめっ……うわぁ!」
頭の一番太い部分までが、狭い入口をこじ開け、一息に突き入れられる。指とは比べ物にならない異物感に、知らず、腕を拘束する鎖を必死で掴んでいた。
「抜けっ! 無理だ!!」
「言うほど無理ではありませんよ。それにこれは中々……」
ヤノーシュはフレデリックの足を抱えなおすと、もう一段深く突き上げた。接合部を見る勇気はとてもなかったが、臀部に恥毛のやわさを感じ、根元まで入ったのだと知る。
「感じがイイ」
耳元に吹き込まれる紳士的なヤノーシュの濡れるようなバリトンに、嗜虐的なものが混じる。男でも思わずぞくりとするその声を合図にするように、相手は腰を動かし始めた。
最初は、痛みと圧迫感で血の気が引いていたフレデリックだったが、前を弄ったり、中の弱いポイントを抉ったりと、その都度ヤノーシュは気を散らしてくる。挙句、だんだんと中の感覚が鋭敏になっていくのは気のせいだろうか?
「あ……あぁ……あつ……い」
うわ言のように呟くフレデリックの無精ひげを、ヤノーシュは愛おしげに舌で舐めた。
香油の奏でる水音と、女のように行為に感じている自分に羞恥が込み上げ、弱弱しく身を捩るが、はずみで中のヤノーシュを締め付けてしまい、びくりと身を震わせる。
「くふっ」
「……仕様のない方だ」
ぐるりと、うつ伏せになるように体勢を変えられた途端、突き破らんばかりに乱暴に攻め立てられ、フレデリックは悲鳴を上げた。痛みや抵抗もあるが、それ以上にぎりぎりまで張りつめていながら、ことごとく逸らされてきた快感から、今度こそ逃げ場のない犯し方をされたのだ。未到達の地点へ持ち上げられる事への本能的恐怖が、がちゃがちゃと鎖を揺らす。
「い、いやだぁ!!」
「ふ……そういいながら、引き抜くときに絡みついている事に気づいておられますか? 今までもそうやって、無自覚に人を誘ってきたのでしたら、あなたも随分罪深い方だ」
ぐぐっと奥まで突き上げられる。それがとどめだった。杯に満たした水のように、一線で踏みとどまってきた快楽があふれ出し、全身がビクビクと痙攣する。
「……!……!……!」
何かが壊れてしまったのではないかと、恐怖を覚えるほどの快楽の波の中で、腹の中に熱量を感じる。出された、と頭で理解するより先に、首筋に噛みつかれた。針を突かれたような鋭い痛みが一瞬走るが、すぐにその刺激すら快楽の上げ底になる。
ようやく波が引いていくと、全ての力を失ったフレデリックは、ぐったりとヤノーシュの腕の中にもたれた。その時、自分の下肢にぬるつく物が伝っていると気づく。見れば、触れられてもいない自身のそこから、とろとろと白濁があふれていた。
ごくりと喉を鳴らし、何かを嚥下したヤノーシュが、少し鉄臭いかすれた声で耳を犯す。
「まさか、一度で終わったなどとは申しませんね。確率を高める為にも、もう少しお付き合い頂きますよ」
それになんと返事をしたのだろう。わからぬまま、フレデリックの記憶は次に目覚める時まで、途絶えた。
目覚めたとき、岩盤の天井は相変わらずだったが、あたりに気配はなかった。吸血鬼はどうやら席をはずしているらしい。現状の絶望から見れば些細な事だったが、緊張の糸を持続しなくていいのは、精神的にはだいぶ救われた。
一方肉体的な面は最悪で、指の先まで疲労感が深く根を張り、身を起こすのですら苦痛を感じた。普段使わない筋肉が、所々で悲鳴を上げ、下半身などとても人には言えない部分があらぬ痛みを訴えている。
だが、一番憂慮すべき症状は、頭の芯まで茹るような高熱と、時折くらっとくる貧血感だった。息も動悸も回数を増し、思考もまとまらないが、この症状は記憶にあった。吸血鬼の餌食となった被害者達に見られる初期症状だ。遠からず自分は死ぬのだろうと、冷静な答えが出てきた。
「ほら見ろ、吸血鬼になんてならないじゃないか」
不思議な安堵と共に、生きることを諦めたフレデリックは、完全に体の力を抜いて、毛皮に身を預けた。瞬間、手首に痛みが走る。
見れば、度重なる無体に抵抗するうちに傷ついたのだろう、手錠で繋がれた場所が擦り剥けて流血していた。どうやらヤノーシュが体を拭き清めるとともに、簡単な手当をしたらしいが、固まった血で手錠に張り付いていた皮が、動いた事でまた剥けたようだった。
だが、フレデリックの目を引いたのは、すっかり赤黒く変色した手首ではなく、手錠から伸びる鎖を、岩壁につなぐピックだった。むろんフレデリックが暴れたくらいでは手錠もピックもびくともしていなかったが、ピックを刺した岩壁は徐々に崩れかけていて、強く引けばピックも軽く動くようになっていた。
強い死の予感を感じつつも、フレデリックの心に一筋の希望が浮かんだのは、その時である。疲労感も忘れ、ピックを掴んで揺らす。岩盤はさらに砕け、細かい砂が足元に落ちてくる。フレデリックはひねったり、回したり、引っ張ったり、押し込んだりして、何とかピックの穴を広げようと苦心した。徐々に穴は広がり、やがて周囲の岩盤ごとピックが外れた。
フレデリックは、熱からではない動悸を感じながら、素早く行動を始めた。ピックと手錠は外せないので、鎖ごと邪魔にならないよう腕に絡ませ、薄暗い洞窟の中、壁を伝いながら歩き始める。
吸血鬼はここを坑道と言っていた。山狩りのさ中に、包囲を抜けてフレデリック達に襲い掛かってくることがきでた理由はおそらくこれだ。この秘密の地下通路は山全体に張り巡らされていて、入口も一つではないのだろう。これまで煙のように姿を消してしまった理由がここにあるなら、討伐隊の人間に知らせる必要があった。たとえ異国の地で死を迎えるにしても、何かしら有意義な死にしなくては、死んだ若者たちにも、討伐隊の人間にも顔向けできない。
今にも膝から崩れ落ちそうな青年貴族を支えるのは、ひとえに強い使命感だった。
吸血鬼と出くわさない事を祈りながら、なるべく冷えた外気を感じる方へと進んでいく。殆ど視界が効かない中、躓き、裸の足の裏を石で裂きながらも、歩みを止めることはなかった。やがて、一筋の光が目を刺す。
外だ!
フレデリックはわずかな体力を振り絞って駆けだした。
しかし、突然足の裏の感覚がなくなり、体が宙に浮く。あると思っていた地面が、そこから急に陥没していると気づいた瞬間、力強い腕がフレデリックの体を支えた。
体を半分乗り出す形で静止したフレデリックが見た物は、洞窟内にできた大きな空洞だった。今まで歩いてきた坑道とは違い、凹凸が少なくのっぺりとした壁面をしていて、5メートルほど下の底には黒々とした水が、激しい水流を作っている。そこは、水と時間が長い時間をかけて掘り進めた天然の洞窟だった。水脈に当たったという吸血鬼の話を思い出す。おそらく雨の少ない時期だからこの程度の水量で済んでいるものの、大雨が降れば坑道に溢れるほど水かさが増すのだろう。あれほど臨んだ光は、その天井の一部が崩落し、そこから差し込んだものだった。フレデリックははるか上にある、小さな穴を見上げた。この無明の洞窟でも辺りを把握できたのはその光のおかげだが、希望にするには、あまりに闇が深すぎた。
「危ないところでしたね」
フレデリックが振り返れば、しっかりと自分を捕らえているヤノーシュと目が合う。偶然でこうタイミングよく捕まえられるはずもない、偽の希望にすがって逃亡を図る自分を、ずっと闇から見張っていたのだろうと思うと、強い憎しみが沸き起こる。
「はなせっ!」
「ようやく見つけた花嫁です。願いはなるべく叶えて差し上げたいが、それは聞けません」
「何が花嫁か、俺はもう死ぬ!」
「死ぬ?」
捨て鉢な気分で吐き捨てた言葉に返ってきた反応は、予想外なものだった。ヤノーシュはフレデリックを引き寄せ頬を撫でる。
「あなたは死にませんよ、フレデリック様。ここへきて、予感は確信に変わりつつある」
あなたは成功した。
そう囁かれたフレデリックは反射的に動いていた。まるで認めたくない現実を振り払うかのように、ぶら下げていたピックを掴み、鋭い切っ先でヤノーシュに刺しかかったのだ。
フレデリックを支えていた分、ヤノーシュの反応は遅れた。いや、もしかしたら満身創痍のフレデリックがこれほど力を残しているとは思わなかったのかもしれない。鉄の先端が深々とヤノーシュの腕を抉る。
「!」
さしもの吸血鬼の指も力を緩め、フレデリックは足で蹴りだしながら、拘束を抜け出した。向かう先は、通路の先にぽっかり空いた空洞だ。
「フレデリック様!!」
暗渠の闇へと落ちていく身を、するりと指が掠めたが、再び捕まえることはかなわず、フレデリックは激流の中に身を落とした。
雨の少ない時期とはいえ、天然の水路は思っていたよりも深く、そして勢いが強かった。あっという間に体が流されていく。死を覚悟し飛び込んだというのに、体は何とか息をしようと水面に顔を出す。肺に空気を取り込み、体を浮かせるも、流れに逆らい泳ぐほどの力は残っていないし、あたりは上も下もわからぬ完全な闇だ、どこへ向かうかもわからないが、じきに力尽きる事だろう。フレデリックは目をつむったが、しばらく身を任せていると流れは落ち着いていき、垂らした手足が壁面や底を掠める。底も浅くなってきたようだ。
湿った水路の臭いに、別の臭いが混じり始める。腐葉土、木のヤニ、日光……冷え切った鼻腔をくすぐる暖かい香りだ。
諦めを閉じ込めた瞼を開けたフレデリックに、二度目の光が差し込んだ。
そこは山の壁面にできた小さな湖だった。これも雨季なら、船でも浮かべられるのだろうが、今は、体を起こせばフレデリックの肩から上が完全に出る深さしかない。ようやく乾いた大地を踏んだフレデリックは、しばらく日の光をぼんやりと眺めていたが、ここを離れなくてはならないという思いで、ゆっくりと歩き出した。土地の勘もなく、そもそも自分がどこにいるかも定かではないが、川を伝えば、人の居る所に出るかもしれないと、湖から一筋流れるか細い川をたどる。
足取りは重い。時折平衡感覚を失ってはたたらを踏むし、高熱に浮かされた体は燃える石炭をいっぱいに入れた袋の気分だ。重ねた無理と、吸血鬼の毒が、フレデリックの体を蝕んでいく。とうとう一歩も足が動かなくなり、フレデリックはその場に倒れ込んだ。
この短期間でいったい何度死を予感した事だろう。いかなるおぞましい加護がついたものか、ことごとく紙一重で回避してきたが、冷たいその息吹は、今確実にフレデリックに触れていた。逃れられぬ宿命が彼の魂を連れ去ろうとしている。
死を怖いと思う感情はなかった。あれほど燃え滾っていた使命感さえ、今は見当たらない。怒り、絶望、失意、そして安らぎ、どの感情も後退し、深い眠りにつく前の一瞬のように、凪の海のように、とても静かな虚無が心を支配する。
これが死か、と悟った時、何かが口をついて出た。
「ダニエル……」
その瞬間、酷く苦い後悔の念が、凪の海を黒く染める。何か大切なことを忘れている気がする。しかし、その正体を見極める前に、フレデリックの意識は散り散りになり、暗中に没した。
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