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第3話
ダニエル・フランチェスコ・フォン・ノイマンとの出会いは、フレデリックが10歳、ダニエルは7歳の時だ。麗かな小春の東風が薫る、エステルハージ邸においてであった。
その頃、家を空けがちだった父ヴァール伯に代わって、父の親友であったエステルハージ公がフレデリックの養育を引き受けたのをきっかけに、貴族の子女達がこぞってエステルハージ邸に行儀見習いに集まっていた。ダニエルもその一人だったのである。
ダニエルを語る上で、その父を省く事はできない。ジョルト・ヨーゼフ・フォン・ノイマンはオーストリアのそこそこの名家に生まれた。ただ、五男坊という、よく言えば気楽、悪く言えば跡目の望みは薄い立場であった。人ぞれぞれ価値観があるだろうが、ジョルトは与えられる立場に満足するようなタイプではなく、次第に家の中での自分の待遇に不満を覚えていった。
反抗的な息子に父が新しい道を示したか、はたまた自分で見切りをつけたか、やがて彼は出家し、聖職者の道を歩み始める。
神に祈りを捧げる行為が性に合っていたジョルトは、オーストリア教会で出世の階段を駆け上る。しかしあまりの邁進に敵も多く、さらに彼の、頭に狂とつく信仰ぶりは、同じ神を拝する者ですら近寄りがたいものだった。
孤独は彼をますます机と神へと向かわせた。彼は聖書を紐解き、数々の神学論を読みふけり、いくつかの矛盾や相違を探しながら、神を見出そうとしたのである。だが、そういった答えの出ぬ試みにままありがちな事だが、やがて彼は膨大な文書を継ぎはぎし、自分の理想の神を作り始めていた。
そしてとうとう彼の人生を一変させてしまう事件が起こる。オーストリア教会を視察に来た教皇府(バチカン)の枢機卿に対し、公衆の面前でその神学論にケチをつけたのだった。最初は言葉の応酬だったものが、議論にあまりに熱が入るあまり、いつしか香炉が飛んでいた。それで誰かが怪我をする様なことはなかったが、枢機卿だけが身につける事が許される緋色のローブの裾が無残に焼け焦げた。
欧州で強い権力を発揮するハプスブルク家下の教会と言えど、本家本元の神の代理人に睨まれてはやっていられない、彼を擁護してくれる者もなく、しばらくしてジョルトは還俗し妻を娶ると、表向きの理由は、領主が流行り病で一家断絶した領土を引き継ぐ為、その実国を追われるようにハンガリーへやってきたのである。
しかし、新天地は彼を歓迎することはなかった。ハンガリーの諸侯たちは、共通君主制といいながら、ハンガリー王国を実質属領とするオーストリア人に不満があったし、ジョルトにしても長年心の支えであった教会という居場所を無くし、心はなおさら硬く、攻撃的になっていた。両者の関係がうまくいくわけはない。
だからこそ、次男ダニエルをエステルハージ家に預けるというジョルトの選択は、諸侯たちに驚きを与えた。あれほど嫌っていたハンガリー貴族に息子を預けるという表面的な事実もそうだが、エステルハージ家に子供を出すというのには、行儀見習いの他にもう一つ別の意味があったのだ。
エステルハージ・カーロイは長らく子供に恵まれず、年を経てようやく生まれたのも娘であった。必然娘が婿を取り、跡目を継ぐ事になるが、娘のミラが七歳になっても婚約者は決まらなかった。
そこで、ハンガリーでも屈指の貴族、エステルハージ家の跡目を狙う諸侯たちが、自らの子供を売り込むという意味も込めて、行儀見習いにやったのである。
ジョルトがまさかその意味を知らぬわけもなく、実際エステルハージ公に対しては娘を、ひいては家督を寄こせと言っているようなものであった。公からすれば、ふざけるなと鼻で笑い飛ばしたかっただろうが、厄介払いされた鼻つまみ者とはいえ、ハプスブルク家直下のオーストリア貴族という肩書は重い。眉根に深く溝を刻みながら、公はダニエルを受け入れた。
貴族としても、聖職者としても花を咲かすことが出来なかった、ジョルトの立身への願いは、地方で枯れて散るどころか、鬱屈した形で実をつけていたのである。
彼の食指が動く様を見たマジャール諸侯の緊張も一気に高まっていたのだが、そんな思惑など子供たちはつゆとも知らない。
活発で好奇心旺盛なフレデリックに、泣き虫で気後れしがちなダニエルはいつもついて回り、ミラも他の子供らに比べ、二人と年が近いこともあり、しばしば自室を抜け出しては三人で遊んだ。
国境も、口酸っぱく言い含められていた跡目の話も、枕もとで語られるおとぎ話ほどのリアリティもなく、ただ楽しく日が暮れるまで遊んでいられた。もしかしたら、あれこそが各々がもっとも幸せな時間だったかもしれない。
だが、子供の日々は輝かしくも短いのが世の常だ。二年後、国境沿いの視察中に賊と交戦したフレデリックの父が戦死した事で、フレデリックの世界は激変した。
彼はヴァール家当主の肩書きを背負い、エステルハージ公はフレデリックの後見を担うと同時に、彼と娘の婚約を決めたのである。
元より、エステルハージ公はフレデリックを娘の婿にと望んでいたが、フレデリックもまたヴァール家の一粒種であり、ヴァール伯は息子に二つの家を継がせることを望まなかった。だが、その父なき今、公はフレデリックとミラにできる子供のうち、長子にヴァール家を継がせ、次子はエステルハージ家に養子にやると決めた事で、旧友との約束を果たしつつ、自らの願いを叶えたのだった。
思惑が外れた諸侯たちは、早々と手を引いたが、そういかなかったのはやはりジョルトである。彼だけは、自分の息子がエステルハージ家を継ぐと信じて疑っていなかった為、それが叶わないと知った時は酷く激昂した。
自ら直接エステルハージ家に乗り込み、フレデリックたちの目の前で当主に食いかかったのである。
元より犬猿の仲。刃傷沙汰にならなかったのが奇跡というほどの剣幕で、まだ物の知らない子供にも、両家の不和は嫌というほど刻み付けられた。
泣きじゃくるダニエルが、父に腕を引かれて連れて行かれたあと、フレデリックは儚い希望を抱き、一度だけ、エステルハージ公にダニエルの事を聞いたことがあった。
しかし、滅多に感情を表に出さない公は、その名を聞くとさも忌々しそうに「ジョルトの息子なら、オーストリアで神学校に入った。坊主になるそうだ」と口にし、以降の質問を雰囲気で遮った。
その様子があまりにも頑なで、また、父亡き今、ますます公を頼りにする所もあった為、フレデリックはそれ以来、ダニエルの事を考えるのを我慢するようにした。オーストリアから手紙が数枚届いたが、読まずに捨てた。ダニエルの名前を口にするどころか、思い出す事すら、公に嫌われそうで恐ろしかったのだ。その内手紙も来なくなり、か細い交友すら断絶すると、フレデリックの望み通り、思い出すこともなくなった。
二人が再会したのはその十三年後、つまり今から三年前だった。
フレデリックとミラの次男のお披露目会に来た青年は、もう内気な少年の面影を殆ど失っていた。頭ひとつほど見下ろしていた身長はフレデリックと変わらない程となり、顔に散っていたそばかすはなりを潜め、絵画のような端正な素顔がはっきりとわかる。
ただ、こちらを見る、すがるような憂いに満ちた目だけが、彼の最後の思い出である泣き顔とともに、鮮烈な既視感でフレデリックを殴りつけたのである。
夫の視線の先にあるものに気づいたミラが、記憶の奥に埋めていたその名前を叫ぶ。
「ダニエル! 来てくれたのね!!」
しかし、フレデリックは動くことができないでいた。
周りの人間の視線を感じたからだ。
ダニエルがその父親に連れていかれてから、十年以上の年月が流れていたが、その十年の間に、二人の間にはまた新たな問題が増えていた。
立身出世の夢を断たれたジョルトは、ますます人を拒むようになり、自身の歪んだ信仰を領民に伝え始めたのだった。彼の領地から逃げてきた領民たちによると、教えに反する者には容赦なく罰を与え、時には無残に命まで奪うのだという。
中世の魔女裁判のようだと、周辺諸侯は非難したが、当人には馬耳東風であった。そもそも、領地の問題や裁判権は領主に任される所が大きかったし、信仰と恐怖を植え付けられた人々の口は堅く、彼を弾劾するほどの証拠や証言は得られなかったからだ。
しかし、諸侯たちも、本腰を入れる気もなかったのかもしれない。自分たちに被害が出ない以上、対岸の火事と高をくくって遠巻きに見ていたのだろう。
だが最近になって事態が悪化する。原因は、ジョルトの長男の自死だ。
ジョルトの長男は幼い頃から病弱で神経症気味だったものの、ジョルトからすれば待望の長男であり、家督を継がせると決め、目に入れても痛くない程に可愛がっていた。従順で、父親に反抗することなどなかったらしいが、それでも強引な父親との関係の上で溜まったものがあったのかもしれない、遺書も残さず屋敷の梁で首をくくった。
父の夢を押し付けられ、聖界に籍を置いていたダニエルが、わざわざ還俗し帰ってきたのもそれが原因である。
だがジョルトは、長男の死後、殆ど狂ったようになってしまった。諸侯の目も憚らず、狂信者集団と化した自身のシンパを引き連れ領内を闊歩し、自らに反抗する者や、身寄りのない者を引き出しては、異端審問にかけ、火あぶりにし始めた。これには、さしもの諸侯も見て見ぬふりはできず、エステルハージ公を筆頭に、国王へ訴えを出すことが決まった。今はその為の証拠を得ようと、ジョルトの動きを監視している最中である。そんな時に奴の後継と、エステルハージ家の婿が話すのはどうにも具合が悪い。
フレデリックは心の中で、来ないで欲しいと願ったが、憂い顔の幼馴染は、まっすぐフレデリックに向けて距離を詰めてきた。
「フレデリック、話がある」
すっかり大人びた声がフレデリックに触れ、ぞくりと背筋が泡立つ。
「父に関することだ、頼む」
緊迫感のある声は、それが本当に重要な事なのだとわかったが。フレデリックは応えることができなかった。幼馴染の懇願するような視線、妻の不安げな視線、周りの人間の訝し気な視線、その全てが幾つもの針のようにはっきりと感じる。
「フリィ?」
自分を呼ぶ妻の声に弾かれ、フレデリックは顔を上げた。
ダニエルを押しのけ、視線も合わさず、まるでそこに居ない者のように歩き過ぎる。
だが、横に並んだ瞬間、周りの人間には聞こえないような声で、素早く呟いた。
「……10時に、二本松の丘で」
ダニエルが息をのんだ音が聞こえた気がしたが。振り返ることもできず、フレデリックはエステルハージの婿養子の面をかぶり直して、人混みへと混ざっていった。
結論から言うと、フレデリックはその場で取り付けた約束を果たすことはできなかった。直後にジョルトの領内に忍ばせていた密偵から、ジョルトがまた異端審問を行い、女を火刑にしようとしていると、情報が手に入ったからだ。日時は翌日の朝。エステルハージ公とフレデリックは、現場を押さえる為、夜中の内にノイマン家領に入ることになったのだった。
だがそうと決まった時、フレデリックは人をやるか、出発前に馬をとばして、ダニエルに断りを入れるつもりだった。実際、どちらにしようか迷っていた時、エステルハージ公はフレデリックに一言尋ねた。
「ジョルトの息子が来ていたそうだな?」
フレデリックは全身が氷のように冷たくなっていくのを感じた。10年前のエステルハージ公には、頑なな拒絶があったが、今の彼にははっきりとした憎悪があった。
かつては苛烈公と敵に恐れられた気性も、老いてなりを潜めたと、諸侯らが陰口を叩いているのをフレデリックは知っている。だが、穏やかで理知的な表皮の下に、恐ろしい怪物がいるのだと、幼い頃から彼は感じていた。そして、その怪物が、今ジョルト本人のみならず、彼にかかわるもの全てに牙をむいているのだと知り、沸き上がってきた本能的な畏怖は、フレデリックの中の親友への情愛すらも忘れさせたのであった。
フレデリックは幼馴染に一言言葉を交わすこともできず、いや、許されず、その足でノイマン家領へと向かった。
だが、ダニエルを置き去りにした罪悪感すら、その後に起きた事に比べたら生ぬるいだろう。
火刑台に上っていたのは身寄りのない女性であった。まだ何処か幼さが残る顔だちを恐怖で歪め、周りに助けを求め叫んでいる。しかし、なんとか火刑の直前にジョルトの領内に入れたエステルハージ一行は、シンパや領民に気づかれないよう遠巻きに見ているだけで、いざ火刑が執行されるという段になっても動こうとはしなかった。てっきり火刑を止めに来たのだと思っていたフレデリックが疑問を口にすると、エステルハージ公は火刑は止めないと言った。
「なぜです? あの娘は火刑に値するほどの罪を犯したと?」
「おそらく違うだろうな。しかし、国王に陳情するには証人も証言もいる。途中で止めたのでは、奴の罪も軽くなる。それでは意味がない」
「しかし、それでは罪もない少女を火にくべるジョルトと変わりませぬ!」
エステルハージ公の切れるような視線が返ってくる。
「奴が野放しのままでは、あの娘と同じ目に合う人間が、何倍にも増える。上に立つのなら、なにが必要最低限の犠牲なのかを考え、払わなくてはならん。よく、見ておくがいい」
返す言葉もなく、フレデリックは項垂れた。
煙と炎にまかれる少女の悲鳴が聞こえてきても、フレデリックは動くことが出来なかった。
火も消え、嫌な臭いが漂う広場の外、片づけ始めた信者たちに背を向け、エステルハージ公たちも撤収しようとしていた時、行く先から蹄の音が聞こえてきた。
よほど長い距離を駆けてきたのだろう。馬も乗り手も汗をびっしょりとかき、荒い息をしている。ダニエルだった。ダニエルはフレデリックの姿を認めると、手綱を引き落馬せんばかりの勢いで馬を止めた。
「フレデリック!!」
罪深い街に降り注ぐ雷のような、悲痛な声だった。
「……ダニエル」
ダニエルは先の広間とフレデリックを交互に見て、すぐに事態を察したようだった。
彼はふらつきながらも馬を降りると、馬上のフレデリックの足にとりついた。
「……エリザベータは、身寄りは無いが、敬虔な信者で……幼い頃から、神だけを頼りにしていた……でも私が……帰ってきて、彼女と二人で話しているのを……父に見とがめられ……父は、私に、なるべく裕福な家の娘との結婚を望んでいるから……」
ダニエルは号泣した。
「なぜ約束の場に来なかったお前が、ここにいるんだ、フリィ!! 間に合わなかったのか? 助けようとしたのか? そうだと言え、フリィ!!」
フレデリックは動けなかった。ダニエルの用事とは、後ろで炭になっているエリザベータという女性の救命だったのだ。もはや謝罪や釈明の言葉すら浮かばず、茫然と泣き崩れるかつての親友を見下ろしていたフレデリックだったが、突如馬の手綱を引かれて我に返った。
見れば、手綱を引いているのはエステルハージ公だった。公は、ダニエルには目もくれず、フレデリックを連れて行こうとする。止まらなくてはいけない、ここで行っては取り返しのつかない事になる、とフレデリックは感じたが、その場を立ち去る以外に他にできる事などなかった。
それから、ジョルトの陳情書が出来上がり。家督は息子のダニエルへ、ジョルト自身は屋敷に軟禁と決まった。死罪とまではいかずとも当然牢屋には入るものと思っていた諸侯たちからすれば、不満の残る結果となった。なにせ、軟禁とは言え、日曜の礼拝は自由であったし、まだシンパたちとの繋がりは切れていなかったからだ。
とはいえ、ジョルトも老いていたし、息子のダニエルが周りの心配をよそに、なかなかの領主ぶりを見せていたため、一年経ち、二年経ち、徐々に禍根は清算されていった。
しかし、フレデリックとダニエルの間にできた溝は消えることはなく、むしろ深まっているように感じた。その後一度だけ、都での感謝祭ですれ違った事があったが、お互い言葉をかわすことはなく。罪悪感と後悔を滲ませるフレデリックの視線と、決して許さないという固い信念のダニエルの視線が、一瞬交じったのみである。
このままではいけない。一度でも、許されなくても、言葉に出して謝らなくてはいけないと、フレデリックはずっと考えていたが。その機会は訪れなかった。
そして、いつかいつかと思っていたそれは、ここで永遠に機会を失おうとしている。
フレデリックは無明の暗黒の中に横たわっていた。
「ダニエル……」
苦味と共に名前を呟く。冷たい暗い沼に嵌っている気分だった。
ダニエルはエリザベータを愛していたのだろう。恐ろしい父に歪んだ理想を押し付けられても、抗う術を持たなかった気弱な少年が、人生で初めて父に背こうとした程に。
対して自分は義父の寵愛を手放すのが惜しく、いつも見ないふりをしてきた。流されるまま、卑怯な選択を繰り返した結果。救える命を見捨てて、親友を深く傷つけた。
どんな罰ですら受けるべきだろう。しかし、ダニエルに……一度だけでいい、面と向かって謝らぬ限り、地獄にすら入れない。
「ダニエル、すまない……」
ふと胸が熱くなるのを感じた。先ほどよりも力が入る。手足の先に向けて熱が動いていく。
最後に一欠けら残った冷気まで肺から抜けていくと、汗が噴き出す。もはや暑すぎる程だった。
あと少しで起き上がれるかもしれない。
もしかしたら、自分を憐れんだ神が、一度だけチャンスをくれたのではないだろうか。もしくは忠実なるしもべであるダニエルに、憎い男を殴らせるチャンスを与えたかったのかもしれない。どちらでも構わなかった。すぐにダニエルの元へ行きたい。
上半身に力を入れて起き上がろうとした瞬間、胸に衝撃を感じて、また倒れ伏す。
見れば、自分の胸を踏みつけているのはダニエルだった。
「謝ったくらいで、殴らせたくらいで、許されると?」
無表情で見下ろすダニエルは、まるで石像のようにびくともしない。
息ができない。辺りが燃えている。フレデリックの体に火が燃え移る。
「お前は地獄を見る。地の底ではない、この地上でだ」
熱が全身を包む。脳髄が溶ける感覚で、フレデリックは飛び起きた。
「ダニエル!!!」
「フレデリック様」
肩に手を置かれ、フレデリックは身を震わせた。見れば、手の主はジャクシスである。
忠実な部下は、フレデリックをいたわるように、もう一度寝台に寝かせる。
まだ体を炙る火の熱や、胸を踏む足の感覚が残っているようで、動悸が収まらないが、時間をかけて夢であったのだと呑み込むと、ようやく寝台に深く体を預けきった。
「こ、ここは……」
「野営地のテントの一つです。あれから一週間ほど経ちました」
「一週間……そうだ、吸血鬼はっ……うぅ」
「まずはお水を」
水のみから何とか二口だけ口にしたが、三口目でむせ返る。水の飲み方も忘れてしまったようなぎこちなさであった。
何とか息を整えると、周りの様子が分かってきた。
枕もとのそばで蝋燭の明かりが揺れている。どうやら時刻は夜で、野営のテントの中にいるようだが、自分とジャクシスの他に人の姿はない。
他は殆どがテントの外を囲うようにしているらしい。ざっと2~30人ほどか、と推測をつけた所で、フレデリックは違和感を覚えた。
なぜ、テントの中の様子が、こんなか細い蝋燭の明かりだけで、手に取る様にわかるのだろうか。そしてなぜテントの外にいる人間の気配が、その数までわかるのだろうか。
なにより、なぜ自分は死んでいないのだろうか。
口の端から零れた水のしずくが、顎の先を伝い一滴胸元に落ちる。その生々しい感覚に、フレデリックは震えた。
「ジャクシス……わ、私は、まさか……」
フレデリックとそれほど年の変わらない若き忠臣は、コップを傍らの台に置き、自らも寝台の淵に腰を下ろした。落ち着いた声音で、まるで子供におとぎ話を聞かせるような穏やかな表情で語った。
「フレデリック様が吸血鬼に襲われた翌日。水を汲みに行った兵士が、死体を見つけたと報告に来たとき。私は身が凍る思いでした。仲間を連れ急ぎ向かってみれば、貴方は息も脈もなく、体は氷のように冷たかった。急ぎ医者の元へお運びしましたが、死体は治せないと、言われるだけでした」
フレデリックは自然と自分の喉に手をやっていた。薄い皮膚の下を確かに脈が打っており、肺と口を空気が行き来している。一度すべてが止まっていたなどとは信じられない程、彼の体は生きていた。
「公やミラ様になんとご報告すれば良いか、考えあぐねたまま、我々は貴方の体を拭き清め、布で包み棺に納めました。イシュトヴァーン伯は、死体を燃やすべきとお考えでしたが、最愛の家族に一目も合わせず、遠く離れた地で、どうして貴方を灰にできましょう? 我々は断った上で、めったな考えを起こした者が御体に触れることの無いよう、交代で番をいたしておりましたが、その内妙な事に気づいたのです。晩夏とは言え、まだ暑さの残る頃、棺から何の臭いもしないのはおかしいと。急ぎ、蓋を開けてみれば、貴方は私たちが横たえた時から嘘のようにお変わりありませんでした……殆どは」
「殆ど?」
ジャクシスはフレデリックに腕を見るように言った。長い袖をまくって見るも、そこには何の変哲もない白い手首があるだけだ。しかし、フレデリックはすぐに気づいた。
「傷が……ない」
手首の枷に抵抗して出来た擦過傷は、かなり深いものだった。一週間やそこらで治ってしまうはずもない。それが、死体ならばなおさらだ。
「貴方の体は傷むどころか、常人を上回る速度で治っていった。我々は、一筋の奇跡を信じ、貴方をこの寝台に移したのです。結果はすぐに現れました。昨日の夜に、貴方は眠ったまま息を吹き返し、そしてとうとう目を覚まされた……主の復活を見ているかのようですよ」
ジャクシスは熱い手で、力ないフレデリックの手を掴んだが、フレデリックの絶望は振り払えなかった。
「私は……私は……吸血鬼になったのだな」
吸血鬼が増える方法は限られているが、方法自体は至極簡単だ。吸血鬼の毒を与え、人を殺し続ければいいだけである。
前述の通り、殆どの人間は死に至り、天国かもしくは地獄へ行くことが出来るが、それがどちらでも受け入れられぬほど邪悪な者であった場合、同じ吸血鬼にされ現世に送り返される。門戸の広い神の国からすれば、かなりまれな事であるが、まるきりいないわけではない。だから、いつ終わるとも知れぬ孤独な生涯に伴侶を求める吸血鬼たちは、好みの人間を探しては毒を与え、探しては毒を与え、自らと同じになる人間が現れるまで殺し続けるのである。飢餓を満たす為でないこの殺人は被害が大きく、人々は皮肉を込めて『花嫁狩り』と呼んだ。
ヤノーシュもその腹だったのだろう。そしてフレデリックは、天国に入る資格が無かったという事だった。
ダニエル程熱心な信者ではないフレデリックだったが、それでも信仰は自らの根底にある道徳観を形作っていて、それから否定された事は、今まで正しいと信じてきたものから突き放されるような思いだった。
2人の間に言葉が無くなると、呪われた力を手に入れたフレデリックには、テントの外の様子がひしひしと伝わってくる。テントを囲うようにして立っている人間達の囁き声や息づかい、果てはその胸の奥にしまってある臓器の高鳴りまで……イシュトヴァーン家とヴァール家の兵士たちから伝わるもの、それは恐れだった。吸血鬼狩りに来て、吸血鬼になってしまったフレデリックをどうすればいいのか、しきりに小声で議論が交わされている。しかし、フレデリックはこの後どうなるのか、いや、どうするべきなのか、自分が一番よく分かっていた。
「ジャクシス……私の剣をくれ……」
「フ、フレデリック様」
ジャクシスがおののいて首を振った。
「滅多な事を考えてはいけません。フレデリック様の人徳は誰しもが認める所。エステルハージ公のとりなしがあれば、命はとられますまい」
フレデリックはくすりと笑った。寝台から立ち上がり、迷わぬ足取りで暗がりを歩くと、部屋の隅に立てかけてあった剣を取る。慌てる部下をしり目に、鞘から刀身を抜き出すと、その鈍い輝きを確かめるように、傾ける。
「早とちりをするな。私はやるべきことがあって、地獄から送り返されたのだ……吸血鬼は、この手で必ず倒す」
蝋燭の明かりが、刀身に反射し、フレデリックの白い顔を壮絶に映し出す。ジャクシスは、思わず息をのんだ。
「自刃はその後だ」
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