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第4話

フレデリックには確信があった。 部下たちはついていくと最後まで食い下がったが、決して来ないようにと念を押し、一人馬にも乗らず、夜の山へと歩いて行く。一週間の療養で、みるみる体力を回復させたフレデリックは、夜目が効くこともあり、どんどん山中へと踏み込んでいく。 ヤノーシュの居場所に目安がついているわけではない。 フレデリックを最後に、この辺りで被害は出ていない。彼が死んだと思ったヤノーシュが、新たな得物を求めて狩場を移動したとも考えられるが、フレデリックは、ヤノーシュは自分が生きている事を知ったのだと思った。ならば新しい獲物に口をつける必要はない。フレデリックが、一人で山中に戻れば、おのずと向こうから姿を現すだろう。 フレデリックは確信していた。 ただひたすら暗がりへと。森の奥へと進んでいく。 その時、木々が隙間を作り、そこから月の光が差し込んでいた。フレデリックは、快晴の空に浮かぶ月を予感して見上げるも、うす曇りの夜空には、月など影も形もない。新月の晩なのであった。まばらに散る星の光すら、太陽のように感じたのだ。その時ふと、何もかももう元には戻れないのだという無常を感じ、フレデリックはしばらく目をつむったまま、星の明かりを浴び続けた。 フレデリックが突然振り返った。人がおよそ視認できない夜闇の一点をじっと見据える。すると、まるで液面を撫でるかのように、闇が揺らぎ、長身の人の姿が現れた。言うまでもなくヤノーシュである。貴族特有の義務的な笑顔の中に、隠せぬ生々しい歓喜が浮かんでいるのを見て取り、フレデリックは眉をひそめた。 「ご気分はいかがです?」 「見ての通りだ」 「お叱りは受けます。いくら時間をかけようと、これから必ず償いましょう」 私の花嫁殿。ヤノーシュはまるで求婚を乞うかのようにフレデリックの前で膝をつく。 フレデリックは勢いをつけて抜刀した。剣先を突き付け、はねつける。 「時間は必要ない。今ここで、お前はその命で償うのだから」 しかし、ヤノーシュの余裕の笑みは崩れなかった。 「もし私がいなくなれば、貴方はどうされるのです? なるほど、貴方は吸血鬼殺しの英雄だ。人望も厚い。幽閉され、命までは取られないかもしれない。しかし、人の血を呑まなければ、貴方は生きられない。今は良くとも十年、二十年経てば、誰しもあなたを持て余すようになる。もう人の世で生きていくことはできませんよ」 「心配はいらん、俺もすぐに後を追う」 ヤノーシュはわかっていたとでも言うように口角を吊り上げる。 「熱烈なお言葉、光栄ですね! しかし、貴方はまだ死ぬには惜しい方だ。ここは頑張って抵抗させていただきましょう」 フレデリックは剣を振った、それは素早く身を翻したヤノーシュの残像を薙いだだけだったが、すかさず後ろに回ろうとするヤノーシュを反す刃でけん制する。 前は触れることもできなかったスピードを、追う事ができているという証だった。 しかし、吸血鬼の力に関しては相手のほうに一日の長どころか千日の長がある。フレデリックの感覚はだいぶ研ぎ澄まされていたが、鋭敏すぎる感覚に、処理が追い付かない。 剣を振るえば振るうほど、立ち回れば立ち回るほど、その差は開いていく。 フレデリックが距離を置いて、相手の出方を探っていると、ヤノーシュは戦場にいるとは思えないほどの自然体で手を差し出した。まるで相手をダンスに誘うかのように。 「後学までにお教えしますが、吸血鬼というのは長く生きていればいるほど、体のつくりが人間とは異なってきます」 ヤノーシュが差し出した手の上で、とがった爪がみるみる伸び始める。 「感覚や筋力も同じですね。マスターは私より頭三つは背が低かったのですが、私が彼女に勝てた試しはありません。もちろん鍛錬の違いもありますが……要は吸血鬼として年長者のほうが強いのですよ」 「余裕なのは結構だが、それで負けたら恥ずかしいな?」 「ふふふ、それでこそフレデリック様です」 そういって笑みを浮かべたヤノーシュは、まるで練習で組手をするような気安さで距離を詰め、攻撃してきた。 ヤノーシュの右の爪を剣先で弾き、すかさず突き出される左の爪を柄で押し返そうとするも、予期される所に爪は無く、釣り(フェイント)だったと気づいた瞬間に、鞭のようにしなる蹴りが無防備なわき腹に突き刺さる。 その勢いに抵抗せず、弾き飛ばされながらも距離を取るが、ヤノーシュの追撃は緩まない。飛んできたつま先が、フレデリックが握る剣を蹴り飛ばす。 指ごと飛んでいきそうな痛みに耐え、フレデリックは殴りかかった。拳は回避したヤノーシュを掠め、その背後に佇んでいた若木を真っ二つにへし折った。 枝を振り落としながら倒れる若木の断末魔の悲鳴を聞きながら、二人は向かい合う。 ヤノーシュの余裕には一分の乱れもない。一方フレデリックは左手の指に滴るものを感じていた。木を殴り倒した衝撃で皮と肉が裂けていたのだった。過ぎた力が、まだ体に馴染んでいないのだ。 フレデリックの耳に敗北の足音が聞こえてくる。 刺し違えてもと覚悟を固めてきたつもりだったが、そんなことも許さないような実力差が二人の間にあるようだった。 絶望をふりきるようにして、拳を繰り出す。ヤノーシュはそれをあしらいながら、口を開く。 「貴方は強い方だ。しかし、本当に死は怖くないのですか? 天にも底にも、この地上にも行く場のない我々が、死後どこへいくのか、本当に考えないと?」 「……神は全て見ている」 フレデリックが蹴りだした靴底を、ヤノーシュは踊るように避けた。自ら作り出した犠牲者を嗤う。 「ほう? 確かに無理やり私に吸血鬼にされた貴方を見れば、神もきっと同情されるでしょう。もしかしたら、閉ざした門を少しだけ開いてくれるかもしれませんが……」 ヤノーシュの言葉を、フレデリックは「違う」と遮った。 「神は、全てを見て、知っていたのだ。俺が、この姿に相応しい罪を犯したのだと。もう、俺はそれに気づかないまま生きることはできない」 ヤノーシュの表情が初めての感情に歪んだ。怒りである。 笑みが消えたヤノーシュは、フレデリックの攻撃も厭わず、乱暴に掴みかかると、その体を地面に押し倒した。枯れ木のような音を立て、フレデリックの肋骨が折れ、息が止まる。 パクパクと空気を求めて口を開閉するフレデリックに馬乗りになり、襟首を掴むと、ヤノーシュは低い声で呪いのように呟いた。 「前言撤回いたします、フレデリック。貴方とマスターを似ても似つかないと言いましたが、腹が立つほど貴方はあの人に似ている」 ようやく肺機能が復活し、ひゅーひゅーとか細い呼吸にしがみつくフレデリックだったが、満身創痍の彼でも、自信を掴む腕が震えている事に気づく。思わず、ヤノーシュの顔を見上げる。 「できなくとも貴方は生きるのです。二度と、誰かを一人にしない為に」 その時、フレデリックは憎き吸血鬼の顔に何を見たのだろうか。その心は憎悪を忘れた。結局それは最後まで戻ってくることはない。 フレデリックは右手をヤノーシュの頭に回し、顔を傾けると、濡れた頬を擦れ合うようにしながら、ゆっくりと唇を重ねた。 予期せぬ行動にヤノーシュは抵抗らしい抵抗もできず、ただ唇が触れた瞬間だけ、びくりと体を震わせた。誰かから唇を求められた事など、何年ぶりだろうか。だが、思い出したのは、生きることを諦めた師が哀れな弟子に許しを求めた最後のキスの記憶ではない。十字架を握りしめ、後悔と懺悔に震える夜に、彼女が優しくしてくれた最初のキスにそれは似ていた。 フレデリックに短刀で胸を貫かれても、幸せの余韻は残っていた。 傷はいかに生命力の強い吸血鬼であっても致命傷になりうるものだった。もとより白い顔色がますます青白んで行く。 フレデリックはそっと唇を離した。ヤノーシュの体から力が抜け、フレデリックの上に覆いかぶさる。 「これは……やられましたね……」 「……」 フレデリックは仰向けに空を見ながら、ヤノーシュの体に回した右手も、ヤノーシュを殺した左手も放すことなく抱き続けた。 「いったい我々はどこへいくのでしょうね……これが怖くて、無暗に生き過ぎてしまった……本当はもっと早くに、命を絶つべきだったのに」 フレデリックは懺悔にも似たその言葉に、返事を返すつもりはなかった。奴が奪った命の重みを思えば、かける言葉など何もない。だが、自然と口が開く。 「……たとえ、地獄にも天国にも居場所がなくとも、同じ場所で待つ奴がいるんじゃないのか?」 ヤノーシュの表情は見えないが、笑ったようだった。 「貴方は優しい方だ……きっとこれから沢山傷つくのでしょうね」 「……」 「ですが、貴方はきっと生き残る」 その言葉にはまるで神託のような、どこか神々しい響きがあった。肉体から命が解放される瞬間の、世俗の濁りを一切感じさせない言葉が、フレデリックの耳に焼き付く。 「苦しんで、もがいて、また苦しんで……そして生き残る」 まるで呪いのように。 「予感がするのです」

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