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第5話
ヴァール家当主の栄光と帰還の知らせは、本人より早く故郷へと伝わったらしい。国境を越えてからというもの、吸血鬼殺しの英雄を一目見ようと、領民たちが待ち構えていた。しかし、誰もその勇姿を見ることは叶わない。なんでも吸血鬼討伐の際に手傷を負ったとかで、本人は厚く日よけをかけた馬車の中にいたからだ。
領民たちはその様子を遠巻きに眺め、よほどの激闘であったのだろうと想像し、純朴な心を痛めたが、少し注意深く観察すれば、おかしな点に気づいただろう。
まず従者たちが必要以上に殺気立ち、主が乗る馬車の周りにぴったり寄り添いながら移動している。まるで何者かの襲撃を警戒しているようだ。
もう一つは、馬車の様子だ。馬車には両側面に窓があるが、そのどちらも分厚い遮光布で塞がれていて、なおかつ元の高貴な装飾も無視して、天井に無理やり日差し避けの板が張られている。車輪や外装も金属板で補強されており、馬車というより不格好な戦車に近い。
今、従者の一人が馬車に近づき、何やら語りかけ始めた。
「もうすぐ、シャールヘイの町に着きます。そこで、私兵団と合流し、本宅まで護送します。もう少しの辛抱ですよ」
ジャクシスは忠臣のいたわりで主を励ましたが、中から返事は帰ってこない。浅い息遣いが聞こえるだけだ。痛ましいその有様に自然眉根が寄る。
エルデーイにて厳重に口止めを行い、秘密裏に戻ってくる予定は当初から破綻した。人の口に戸は立てられぬと痛感する。しかし、不幸中の幸いで、吸血鬼退治という華やかな功績が隠れ蓑となり、フレデリックの身に起きた“災難”についてはまだ人知らぬ所にあった。もしこの呪われた事実を知れば、今は英雄の凱旋を祝う領民たちも、たちまち異端者を狩る暴徒と化すだろう。
ジャクシスたち従者は厳重な警戒でもって主を護送しながら、早馬でエステルハージ公に連絡を取り、途中ノイマン家領を避けて通るため迂回もしつつ、ようやく自治領にほど近いこの町までたどり着いたのだった。
このまま、ヴァール家の残りの私兵団と合流できれば、フレデリックの安全は保障される。しかし従者たちの心配はまだあった。
吸血鬼を打ち取ったフレデリックは、折れた肋骨や細かい傷などは一晩で治ったにも関わらず、徐々に衰弱してきている。吸血鬼の健康について詳しい者など誰もいないが、ジャクシスたちはそれが恐らく人血を摂取しない為であろうと考えていた。
恐るべき考えではあったが、背に腹は代えられぬ。部下たちの血を持ち寄り、主君に飲んでもらおうという事になった。
もちろん、直接口をつければ吸血鬼の毒にやられてしまう為、わざわざ器に移して摂取を試みたが、彼らの主は頑なに血を口にするのを拒んだ。これでは、妻子に会う前に命を落としかねない。せめて、あと一目だけでも……ジャクシスたちは焦っていた。
シャールヘイの町に着いても、私兵団はまだ到着していなかった。しかたなく宿をとり待機する。
光を強く感じすぎてしまう為、フレデリックの部屋はカーテンを二重にし、加えてベッドの天蓋をすべて下す。横たわるフレデリックは血の気が失せ、いまや死人のように白い。ジャクシスは器に注(つ)いだ自らの血を差し出した。
「フレデリック様、せめて一口でもお飲みください。『これは私の血である(オー・ケステ ィン ミオ サングイン)』……なにも恥じることはないのです」
「……ジャクシス……お前の気持ちは嬉しいが、私は……人間として死にたいのだ。一口でも飲んでしまえば、私は戻れなくなってしまう……怪物から」
「フレデリック様……」
シャクシスは、一度口を開けば息が上がる主人の背を撫でる。
そうして身を屈めていなければ、続くフレデリックの独り言のようなかすかな呼びかけには気づかなかっただろう。
「……は……いる」
「は、今なんと?」
「……ダニエルはどこにいる?」
「それは……ノイマン家の? さ、さぁ、存じかねます」
意識も朦朧としかけている主の言葉に、どこまで意味があるのか、疑わしいのはわかってはいたが、ジャクシスは予想もしなかった名前を聞き狼狽えた。今この場では1,2を争い会いたくない相手である。
「そうか……」
フレデリックの様子は変わらなかったが、置いた手を伝って、落胆をその背から感じる。
言葉の真意を掴みかねる中、フレデリックがぽつりと呟いた。
「時間が……足りない……」
それからすぐに、フレデリックは眠りに落ちた。上かけを乗せながら、ジャクシスは強い胸騒ぎを感じていた。
部下の報告を聞いたジャクシスは、声が跳ね上がるのを抑えることができなかった。
「ノイマンのシンパがうろついているだと!?」
「間違いありません。狂信者の中でも、特に熱狂的な奴です。どこで知ったのか、フレデリック様の事について、触れ回っている節もあります。このままでは、町の連中を扇動し襲い掛かってくる恐れもあります。逃げましょう、ジャクシス様。ここはもう安全ではありません」
シャールヘイの町はヴァール家領内だが、隣接するノイマン家領にも近い所にある。何より私兵団との合流を優先させたのが、裏目に出た。
ジャクシスは戦慄した。このタイミング、この手際の良さ、間違いなくノイマン達は、フレデリック達がエルデーイを出る前から事実を察し、準備をしていたのである。もしかしたら、もっと前から、フレデリックとエステルハージ公を追い込む材料を探す為、目を光らせていたのかもしれない。
ジャクシスは長年ヴァール家に仕えている。むろん二家族の確執も重々承知していたが、まさかこれほど憎まれていようとは。憎悪などという域を超え、妄執に近い。
冷静になるよう自らに言い聞かせながら、その実尻に火が付いたような焦燥の中、ジャクシスはこの状況の打開案を探した。
彼らに残された身の振り方は二つある。一つは、合流を諦め、町から逃げ出す事。しかし、逃げ出すことで町民の疑念を肯定してしまえば、事態は悪化するだろう。もう一つは、この宿に立てこもり、ノイマン達と交戦する事だ。こちらの人数は二十人ほどだが、もとより私兵団の中でも特に精鋭を集めている。農民ばかりの素人たちが相手ならば、犠牲はでるだろうが、援軍が到着するまでの時間は稼げるかもしれない。
甲乙つけがたい選択だったが、ジャクシスは後者を選んだ。何より、衰弱しているフレデリックを連れて逃げ出す事は難しいと判断した。
しかし、それをフレデリックに伝えると、必要はないと主人は断った。
「お前たちは……夜陰に乗じて、この町を脱出しろ。私は……ここに残る。ノイマン達も……私を捕まえれば……お前たちまで、追いはしない、だろう」
はじめジャクシスは何を言われたのかわからなかった。だが、その言葉が染みてくると、怒りが沸いてきた。
「私たちに、主人を見捨てて逃げろとおっしゃるのか!? 命惜しさに従者の誇りは捨てませぬぞ!!」
今や吹けば飛びそうなほど弱っているフレデリックであったが、大の大人でも怯みそうなその勢いを、目を軽く伏せただけで耐えた。そこでようやくジャクシスは主人の中に、動かせない何かがあることに気づいたのである。単身吸血鬼を倒しに行くと言った時と同じくらい、あるいはそれ以上に強い決意であった。
「……私には、やるべきことがある。家族のことは……時間さえ許せばと思っていたが、どうやらそれも難しいようだ」
やるべきこととは何なのか、ジャクシスは追及しなかった。
聞いてもきっと理解できないだろうし、理解したくもなかった。彼がフレデリックに、何を置いてもして欲しいことは一つだけだった。
「ミラ様の……フェレンツ様とイムレ様のお気持ちを、少しでもお考えください」
「……お前には、手紙を託したい、いつでも大丈夫ようにとエルデーイからずっと書いていたんだ……これを、妻と子供たちに……」
フレデリックは、ベッドサイドの引き出しから、三つの封筒を取り出した。封蝋で閉じられている封筒には、それぞれのあて名が書いてある。しかしそれらは、達筆なフレデリックからは想像もできないほど乱れ歪んでいた。
息が苦しくなる。熱いものがこみ上げてくる瞼を抑え、震える声でジャクシスは言った。
「私に、二回もこんな思いをさせるのですか」
フレデリックは忠臣を、目を細めて見やった。
「お前には何度も苦労をかけた。だからこそ、頼めるのはお前しかいないのだ……さぁ、急いで部下たちに準備をさせろ。ノイマンのシンパたちは、一つ向こうの通りに集まってきている、間もなく乗り込んでくるだろう」
宿屋の裏口から部下とともに抜け出し、少し離れたところで、来た道から騒がしい喧噪が聞こえた。シンパ達が宿屋に乗り込んだのだ。思わず踵を返しそうになる部下を、ジャクシスは止めた。
「ノイマン達も、フレデリック様を今すぐ手にかけるという事はあるまい。人をかき集め、大々的に処刑したいはずだ。我々はその間に屋敷に戻り準備を整え、奪還に向かう」
うかうかはしていられなかった。すでに、エステルハージ公自らが王都に出向き、嘆願を終えているころだ。公的な意味では、フレデリックの助命は固いだろう。だからノイマンは、それが王のサイン入りの書簡で認められる前に火をつけねばならない。一日後か、二日後か、ひょっとしたら今夜にでも。
「戦争も辞さん」
ジャクシスは諦めたわけではなかった。フレデリックには言わなかったが、連れていかれてもわかるように、部下を一人つけてある。ノイマン家と全面戦争になろうと、場合によってはフレデリックに無理やり血を飲ませても、生きて再び、家族を再会させるつもりだった。
ヴァール家先代当主であり、フレデリックの父が殉死した知らせを、エステルハージ邸まで持っていったのは、当時の私兵団長と見習いだったジャクシスだった。その時のフレデリックの顔を忘れた事はない。
彼は小さい体を一度大きく震わせ、零れそうなほど眼を見開き、口を何か言いたげにぱくぱくと動かした。ジャクシスは幼い主が次の瞬間あたりかまわず泣き出すと思った。しかし、フレデリックは泣かなかった。
すでに薄い双肩にヴァール家当主の責務は移行し、少年から大人へ変わらざるを得なかったというのもあるだろうが、彼の目の中には押し殺した悲しみの他に、確かな怒りがあった。先代は最愛の妻を亡くした後、息子を親友に預け、悲しみを紛らわせるように仕事に没頭していた。その挙句の殉死である。もちろん息子を愛していなかったわけではないだろうが、フレデリックは自分を置いて死に急いだと感じた事だろう。
そんな思いを、彼の息子たちにまで味あわせたくはなかった。
夜陰に紛れて町を出た。ヴァール邸へと馬を駆る。
しかし、私兵団の到着が遅い。道すがら会えればいいのだが……。
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