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第6話
フレデリックは、弱りきった体を冷たく湿ったレンガの壁にもたれさせ、暗闇の一点をぼんやりと眺めていた。常人には何も見えないだろうが、天井付近にある通気口から洩れるかすかな光で、フレデリックの目には蜘蛛の巣に絡めとられた蛾が一匹もがいているのが、糸一本に至るまではっきりと見えている。
先ほどこの部屋に人の出入りがあった際、松明の明かりについて入り込んでしまったのだ。
だが、蜘蛛の巣に対して、蛾は大きく、そして体力があるようで、さかんに羽ばたいては脱出を試みている。幾何学的な美しさを誇ったであろう巣は、もはや見る影もない。あと少しで脱出してしまうだろう。蛾の半分にも満たないこの巣の主も、それはわかっているらしく、傍観を決め込み、先ほどから巣の端で動かない。
どちらにとっても不幸な対峙である。哀れに思い助けてやろうとも思ったが、指の先まで覆いつくす倦怠感と、悪寒の為に、立ち上がるのすら億劫だった。自然の摂理は天に任せよう、とフレデリックは目をつむった。
外が見えない状態で連れてこられた為、詳しい場所はわからなかったが、移動に要した時間から考えて、ヴァール家とノイマン家の領地の境から、さほど離れていない集落だろう。その集落唯一の教会の地下に、今フレデリックは閉じ込められている。
リンチの一つくらい受けるだろうと考えていたが、ノイマンのシンパたちは、触るのも恐ろしいとでも言うように、拘束をして馬車の荷台に押し込めてからは、この地下室に連れてくるまで何をするというわけでもなかった。吸血鬼の体液は毒。なるほど、敵に回していた時は厄介だったが、こうなってみると便利かもしれない。フレデリックは力なく自嘲する。
元はカタコンベ(集団墓地)として使われていたらしい地下室は、鉄格子で区切られ、いくつかの部屋に分かれていた。すっかり刑務所さながらだが、何百年分と思われる古い死臭を打ち消すほどの、真新しい血と汚物と死肉の臭いを嗅ぐ限り、刑務所というより拷問部屋という方が正しいのかもしれなかった。吸血鬼の鋭い感覚が、惨たらしい死の数々を、まるで今面前で見ているかのように伝えてくる。フレデリックは体調不良とは別に吐き気を覚えた。
やはりノイマンを謹慎などと言う生ぬるい方法では止めることはできなかったのだ。表だってやらなくなっただけで、裏では派手に異端者を処刑していた。
(エリザベータの犠牲とはなんだったのだろう……)
何度も自分をごまかしてきた疑問に、はっきりと最悪の答えを突き付けられ、フレデリックは絶望に打たれた。
ダニエルに会わねばならないと決意して、ここまでやってきた。自分を憎むダニエルなら、この恐るべき怪物の末路を見届けに来るかもしれない、というわずかな公算を信じたのである。だが、ダニエルはこの事実を知っているのだろうか? 父親の狂気を止めようともがいていた青年が、こんなむごい仕打ちを知って平気で居られたとは考えづらい。何も知らないのなら、そもそもここへは来ていないだろう。不安が焦りに変わった。フレデリックには時間がないのだ。
フレデリックは体を起こして、自らを後ろ手に拘束している、銀の腕枷を見た。銀が吸血鬼の弱点だというのは、聖職者を中心に信じられているジンクスである。だが、どうやら自分にはあまり効果が無いらしく、かぶれのように赤くなってはいるが、それだけだ。シンパの連中がそれより気にしなければならなかったのは、銀が鋼より柔らかいという事である。
酷い貧血と、脱力感に悩まされているフレデリックであったが、力の強さならばまだ人間よりも強い。両手を思い切り反対に引けば、ゆっくりと銀の鎖が伸びていく。
ダニエルに会い一言謝れるまで、この命が持てばいい。命を削る感触を味わいながら、少しずつ力を増やしていく。しかし、あと少しで鎖が切れそうだというところで、地下牢の入り口に人の気配を感じた。慌てて、腕を元の位置に戻す。
足音を聞くに、来客は複数人居た。もしかすると、その内の一人がダニエルかもしれない。フレデリックの緊張が一気に増す。しかし、扉が開いて入ってきた人間の中に、ダニエルはいなかった。シンパの見知らぬ若い男たちが数名と、彼らに引きずられるようにして連れてこられた者が一名だけだ。
フレデリックは鼻を刺す強烈な臭いにむせ込んだ。腐臭や汚臭ではない、人間の焦げる臭いだ。見れば、引きずられている人間は、服も肌も焼けただれ、所々真っ赤な地肌を露出している。髪も眉もほとんどなく、火傷で腫上がった顔では性別の判断もままならないが、体格と身に着けている者だけでかろうじて男だというのはわかった。哀れな男は意識は失っているが、死んではいないようで、か細い息遣いだけが口から洩れている。
だが、連れてきた者たちは焼死体候補の男に、手当てをしてやるというつもりはないらしく。フレデリックの向かいの檻に放り込むと、そのまま鍵もかけずに出ようとする。こんな不衛生な所で放置されたら長くはもつまい、フレデリックは思わず叫んだ。
「待て、手当てをしてやれ! 死んでしまうぞ!!」
シンパたちは一瞬足を止めたが、顔を見合わせると、すぐに弾けるように笑い出した。滴るほどの嘲りを含んだ嫌な笑い声に、フレデリックは体の芯が冷えていく。胸騒ぎがする。まさか、死にかけている男は自分の知り合いなのだろうか?
笑い声が遠のくと、フレデリックはすぐに格子ぎりぎりまで身を乗り出して、向かいの男へ声をかけた。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!!」
しかし男が起きる気配はない。
フレデリックは、手枷を引きちぎった。格子の錠にとりつき、こじ開けようとする。しかし、こちらは人間用らしく、しっかりとした鋼でできていた。それでも、渾身の力を入れるうちに、徐々に曲がっていく。あと少しというところで、フレデリックが体当たりをすると、錠が外れ、フレデリックは地下牢の通路へ転がり出た。
向かいの牢に飛び込むと、意識の無い男を揺り起こす。やはり反応は無い。
男の息は先ほどよりもますます弱くなっている。一刻の猶予もない。フレデリックは男を背中に担ぎ上げた。外に医者くらいいるだろう、噛みつくぞと脅せば、治療をしてくれるかもしれない。しかし、そこでわずかな体力もとうとう尽きたが、激しい眩暈と脱力感に襲われ、フレデリックは膝から崩れ落ちた。
なんとか、男を下敷きにする事を避け、前のめりに倒れたが、眩暈は止まらない。手足が冷たくなっていく。反対に男の体の熱を感じる。その下に、いまだ流れるもっと熱い血流も……。
この男の血を吸えば、もう少しだけ生きられる。ダニエルにもきっと会える。もうこの男は死ぬのだ。それを少し前倒しにして何が悪い? 楽にしてやるだけ……楽にしてやるだけ……。
恐ろしい誘惑が、死の予感に眩んだ頭を駆け巡る。だが、葛藤の中、現れたのは天使でも悪魔でもなく、ダニエルだった。フレデリックは力の入らない拳を無理やり握りしめる。天地が逆転するような眩暈の中、出口と信じる方に体を引きずっていく。
「駄目だ……それだけは……これ以上、君に、恥ずかしい人間には、なれない……ダニエル」
その時、いかなる神の奇跡か、もしくは悪魔の奸計か、背負った男に反応があった。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどかすかな声で、名前を呼ぶ。
「フレ……デリック……様」
フレデリックはその刹那、瀕死の体にとどめを刺すような衝撃を受けた。男がやはり自分の知り合いであった事だけでなく、聞き間違えようのない声が、男の正体を明らかにしてしまったのだ。
「ジャクシス!? なぜ……なぜ、お前がこんな……」
体を反転させて、焼けただれた部下の顔へ震える手を伸ばす。街から脱出したジャクシスは、私兵団の本隊と合流し、今頃は屋敷にいるはずではないのか。捕まってしまったのか? なぜそんな怪我を? 他の仲間は? フレデリックは疑問を口にすらできずおののいた。
部下はほとんど瞼も開かない目から、滝のような涙をこぼした。両手でフレデリックの裾を掴み、瀕死の体から絞り出すような咆哮を上げる。
「申し訳ございませんっ!! 私は……守れなかった!!!」
フレデリックの目の前が暗転する。何を言っている? 守れない? 誰を……何を……。
「私兵団の本隊は、ノイマン家の兵に強襲されており……加勢しましたが、ほぼ相打ちです。館に向かうと、そちらはシンパが取り囲み、残った者と奥方様たちごと火をつけ……飛び込みましたが、フェレンツ様とイムレ様は煙に巻かれ、もう息もなく……ミラ様だけは連れだしたのですが、すぐに……あぁっ!!」
フレデリックは世界が崩壊していく音を聞いた。端から砂になり、瓦礫になり、今まで身を置いていた全てが、吸血鬼たちが去っていった虚無の奥へと消えていく。
怒りも悲しみも、吹き飛ばされた心ごとまだ遠い所にあった。いずれ感情が追い付くだろうが、今浮かぶのは、幸せだった家族の思い出ばかりだ。
半ば夢の中にいるようなものだったから、フレデリックは近づいてくる人間に気づかなかった。声をかけられて初めて、視線を持ち上げる。
「やぁ、フレデリック。久しぶりだな」
檻にもたれかかり、面白い見世物を見るような顔で見下ろしていたのは、ほんの数瞬前までフレデリックの目的だった男、ダニエル・フランチェスコ・フォン・ノイマンだった。
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