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第7話
フレデリックはジャクシスと引き離され、もといた檻に連れていかれた。
しばらくはジャクシスの『フレデリック様に触るな』『この悪魔め』という怒鳴り声が聞こえていたが、短い打撃音と共に聞こえなくなる。しかし、今のフレデリックには案じる心もどこか遠い。
檻の中でぼんやりと、ダニエルと二人きりで対峙する。ダニエルと会ったら、何をしようと思っていたのか、まるで思い出せない。これは本当に現実なのか?
その時地面を不意に動くものがあり、見下ろせば、先ほどの蛾が蜘蛛の巣を脱したらしく羽ばたいていた。しかし、絡みついた蜘蛛の巣が邪魔で、飛び立てない。あぁ、哀れだと思った次の瞬間、一歩踏み出したダニエルによって踏みつぶされる。
フレデリックに気を取られているダニエルが、小さな殺生に気づいた様子はない。そもそもこの光量ではダニエルは蛾を視認すらできないだろう。ただ、フレデリックだけが知る小さな悲劇とその罪悪感。
フレデリックが先ほど見て見ぬふりをしなければ、助けられた命だった。エリザベータと同じ……結局自分の本質が何も変わっていないことを、神は皮肉で伝えたのだろうか。
深い絶望が感情に反した狂気の笑みを口元に浮かべる。
ダニエルはそんなフレデリックを見て、柳眉を下げる。
「ふ抜けてしまったな。てっきり、怒りに任せて俺の首を引き抜きにかかると思ったが」
「殺せ……もう生きる意味もない」
「引導を渡して欲しくて、大人しく捕まったのか? 殊勝な心掛けだが、予定ではもう少し苦しむはずだ。ここに入った先人たちと同じでな。時間がかかっているのは、お前の体液に触れず、どうやって苦しませることができるか、議論の真っ最中だからだ。狂信者どもが考える拷問はすごいぞ、例えば……」
フレデリックはろくに聞きもせず、返事をした。
「……ここなら、お前に会えるかもしれないと思って来た」
ダニエルの顔から表情が抜けていく。次の瞬間、予備動作のない一撃が、フレデリックの頬を打つ。もとより力が強いほうではないダニエルでは、その威力はたかが知れているが、弱っているフレデリックは縄で後ろ手に縛られていることもあり、バランスを保てずそのまま地面に倒れ伏す。
「俺に会って、何をするつもりだった? 一言すまんと謝るつもりだったのか?」
ダニエルは真っ白な顔色で叫んだ。
「何を今更! お前にチャンスはいくらでもあった。俺は何回手紙を送った? エリザベータが焼け死ぬまでどれほど猶予があった? お前はいつだってそうだ。善人の皮をかぶり、都合の悪いことは見て見ぬふり、救える力があったのに、くだらない保身と言い訳で無辜の人間を見殺しにした! その薄汚い性根が、今の姿だと思わないか!!?」
言葉が無力な体に突き刺さる。だが同時にその熱が、放心状態だった心に新しい熱を生む。憎悪だ。
「私のことは何とでも言え……っ! だが、ミラや子供たちには何の罪もなかった!」
「そうさ、優しいミラ。俺とお前の間の“問題”を少しでも軽くするために、何度も手紙をもらったよ。『許してやって欲しい』『フィルは悔やんでいる』とな。フェレンツやイムレもそうだ。上の子は弓矢の扱いが上手かったが、狩りに連れていくと、可哀想だといつも止めを渋るほど優しい子だった。下の子は言葉の覚えが早く、最近じゃ字も書けるようになっていたそうじゃないか。素晴らしい子供たちだ。親じゃなくても誇らしいよ」
だが、とダニエルは冷たく切った。
「地獄にすら入れないような汚らわしい男と交わった女と、その血を引く呪われた子供たちだ。神を信奉するものとして野放しにはできまい?」
フレデリックは叫びながら襲い掛かろうとした。しかし、弱り切った体は思うように動かず、簡単に打ち倒される。
「殺してやるっ……!!」
口に出す事で、その考えは深く心に根を下ろした。そうだ、殺してやる。自分が死ぬまでに、こいつを道連れにしてやる。ミラや子供たちが味わった痛みの半分でも味あわせて……。
しかし、殺意に満ちた目を向けられて、初めての表情がダニエルの顔に浮かんだ。笑顔である。いや、素直に笑顔などと呼べる代物だろうか? 薄氷に幾筋も走った亀裂を笑顔というのなら、そうかもしれないが。
「そのセリフは、日に百回は聞いたよ。エリザベータが死んでから、俺がどんな思いで、あの屋敷で親父と暮らしていたか、親愛なる父親の庇護のもとにあったお前は想像もできないだろうな……」
ダニエルは一度その場を離れると、鞭を持って戻ってきた。長年用途に従順に働いてきたのだろう、握り手から先まで使い込まれた色に変わっているそれは、職人の道具のようなストイックさで、お前は苦痛を味わうのだと告げる。
顔の亀裂を一層深くしながら、ダニエルは低い声で囁いた。
「お前を、地獄に送り返してやる」
壁を向いて荒縄で括りつけられたフレデリックの背にむけて、鞭がしなる。濡らして重くなった縄は、フレデリックの白い肌を易々と剥いでいく。
叫び声をあげるまいと、途中までは壁のレンガの数を数えて、気を紛らわせていたが、どこかで失神したらしい。気づけは数など吹き飛んでいる。
フレデリックは妻子の仇を決して許すまいという強い決意だけで、正気を保っていたが。時折、これだけやられているのになぜまだ死ねないのかという絶望が決意を押しのけ、頭を一色に染める。
楽になりたかった。今すぐに。
だが、痛みの連鎖は唐突に終わった。叩き付けた勢いに、ダニエルの腕力が負け、鞭が手から離れたのだ。足元を、自分の皮膚片をこびりつかせた鞭が転がっていくのを見て、フレデリックが自由になる範囲で首を曲げ、振り返ると、ダニエルは肩で息をしながら腕を抑えていた。それでも眼だけは、フレデリックから離さない。
幾筋も返り血を浴びた――死すら恐れていないようだった――凄惨な姿に似つかわしく、ダニエルの目には憎悪が渦巻いている。だが、夜の果てのようなその黒々とした感情は、続く涙に洗い出されてしまう。
靄の晴れた目に残ったのは、不安、後悔、絶望……そして、かすかに縋るような色があった。まるで親とはぐれた子供のような表情に、フレデリックは戸惑う。
ダニエルは滝のような涙を拭いもせず、わななく口元で、やっと一言を絞り出した。
「なぜ……」
『なぜ』とは?
なぜ、手紙を返さなかったのか、か?
なぜ、エリザベータを救わなかったのか、か?
いや、そもそもその問いはフレデリックに向けられたものだったのだろうか。
ダニエルは答えを求めていないようだった。すぐに、憎しみで心を覆いなおすと、落ちた鞭を拾い上げ、叩き付ける。だがやはり満身創痍の彼の細腕には扱いきれないものだったらしい、再びはじけ飛んだ鞭は、今度は技量の足りぬ持ち主を責めるかのように跳ね返る。
見れば、手のひらほどの長さの真っ赤な筋が、ダニエルの頬へ走っていた。細い顎のラインをなぞるように、そこから垂れた血が玉を作って流れて……。
フレデリックの体に急激な変化が訪れたのはその時だった。
まるですべての神経がむき出しになったかのように、感覚が研ぎ澄まされていく。薄暗い地下牢は真昼のように明るくなり、ダニエルが流したわずかな血の匂いが鼻孔を刺す。不思議な事に、自分の流した血の方がはるかに多いというのに、鼻は他人の血を敏感にかぎ分ける。彼の鼓動の音で耳がおかしくなりそうだ。
先のジャクシスの時とは比べ物にならない血への渇望が、フレデリックの理性を焼いていく。この衝動に完全に呑まれた時、自分が何をするのか気づいたが、坂を転がる車輪のように止めようがなかった。
(これが呪いの本性か……っ!!)
身をよじり、喘ぎ、それでも化け物にはなりたくないと抵抗するフレデリックに、異変に気付いたダニエルが近づく。
「……フリィ?」
フレデリックの精神力は限界だった。“渇き”と、絶望と、憎しみが、今や全てダニエルに重なって見える。
こいつを殺してやりたいと願う心が、最後の理性を崩した。
手首を戒めていた縄が、まるで抵抗なく千切れる。ダニエルの細い肩を掴み、地面に引き倒す。そして、熱い血潮が流れる首に牙を突き立てた。
ダニエルが何かを口にしたような気がしたが、おそらく悲鳴だったのだろう。
白磁の肌を牙が突き破る感触を最後に、フレデリックの意識は途絶えた。
気づいたとき、フレデリックは地下牢の冷たい壁に寄りかかっていた。
全てが夢だったと思えればよかったが、人血で驚異的に回復した体調と、地面に倒れ伏すダニエルの姿が、それを否定する。
首筋を真っ赤に染めたダニエルに、恐る恐る触れるが、その体には命の残滓はなく、光のない瞳が神の国を見つめている。
不思議と苦しみのないその表情を見ていると、残っていた怒りが再燃する。
当然の報いだったのだ。こいつがどうかかわったにせよ、妻や子供たちにした事を思えば、こんな死にざますら生ぬるい。
フレデリックは、牢の隅から拳ほどの石を探しだした。
この怒りが晴れるまで、たたき潰してやろうと思ったのだが、結局フレデリックはそれをしなかった。
勿論憎しみは消えない。だが、あの時ダニエルが言った「なぜ」という疑問の意味が分かったのだ。
なぜ、こんな運命を課したのか。
3人で過ごしたあの穏やかな日々から、あまりにかけ離れたおぞましい結末に、ダニエルは愛していた神を呪ったのだ。
父の陰に怯え、友に裏切られ、愛した女を失った孤独な男が、唯一心の支えとしていた神を奪ってしまった事に、フレデリックは自分が化け物になったと実感した以上の衝撃を受けた。
そっと、冷め始めたダニエルの頬を撫でる。
謝罪の言葉なんてどうして言えよう? それをするにはダニエルも自分も許せない。
だからフレデリックは泣いた。ダニエルの体に顔をうずめ、もう戻らない日々に許しを請うように、先だった魂たちに別れを告げるように、人であることを捨てるように、これが人生最後の涙と思いながらフレデリックはしとしとと涙をダニエルに降らせた。
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