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第8話

新しい血はフレデリックの世界を、まったく別のものへと拓いていた。悪魔が耳元についてこの世の真実を教えてくれているようだ。五感が冴えわたり、全てがはっきりと伝わってくる。 異変に気付いた外の人間たちの慌ただしい様子も。 ダニエルが人払いをしていたようだが、踏み入ってくるのも時間の問題だろう。 フレデリックは目を閉じさせたダニエルの遺体を膝から下ろした。少し考えてから自らの首元を弄う。シャツの中から引き出したのは、ヤノーシュが持っていた金のロザリオだ。戦利品もとい、憎き敵の遺品だが、結局一度も戦場には顔を出さなかったイシュトヴァーン領主の元で、溶かされてしまうのも違う気がして持ち歩いていたのだ、 看取るのが自分だけでは哀れと、それを固まりつつあるダニエルの手のひらに握らせて、胸で組ませた。 涙の跡を拭うと、残ったのは、静かな殺意だった。 ダニエルは死んだ。だが、ここにいる連中とその仲間がした罪が雪(そそ)がれるわけではない。 あれほど恐れていた一線を越え、今フレデリックは自分を縛る鎖がどこにもない事に気づいた。化け物になってしまったのなら、精一杯化け物らしく生きるだけだ。この悲劇の一因を担う男……ジョルトを殺すまでは。 出口へと歩いていく途中、体を折って冷たくなっているジャクシスがいた。しかし足を止めることはない。することも変わらない。 全ての死者たちよ、そこで見ているがいい。今から行われる蛮行を。 フレデリックは外の人間が開けようとしている扉を、鍵ごともぎ取るようにして引き開けると、何が起こったのかわからず呆然とこちらを見る男の頭を、おもむろに素手で殴りつけた。まるで卵を潰すような感覚があり、男は動かなくなる。それに続いて手近な所にいた者を2人ほど血祭りにあげた所で、ようやく事態を把握したシンパ達は、悲鳴を上げて逃げ出した。 日はすっかり落ちている。夜は主の帰還を喜んでいるように輝いた。 フレデリックは焦らなかった。ゆったり大股に歩きながら、あたりの喧騒を聞き分ける。逃げ出す奴らが縋るところに、目的の男はいるはずだ。騒ぎに驚き、あぶりだされてくれればなお都合がいい。 逃げる者を追いすぎず、かといって殺せる者を見逃しもせず、悪魔はおぞましい狩りを続けていく。やがてここで多くの人間を火にくべたであろう――人の油の匂いが石畳や広間を囲う家々の壁に染みついていた――集落の広間にたどり着いた時、フレデリックが反射的に上げた手を、矢が貫いた。 まじまじとその手を見ていると、続く矢が飛来する。それらを避けたり払い落としたりしながら確認すれば、民家の屋根から数人の弓手(ゆんで)が弦を引き絞っていた。 フレデリックは眉根を下げる。地元の猟師だろうが、悪魔相手にいじましい勇気と努力だ。 だが、弓程度では悪魔は殺せないし。絶望的に戦える人数が足りない。ヴァール家の兵士たちはどこにいるというのか。 すぐに思い出し、フレデリックは苦笑した。彼らの兵士は、今頃ヴァール家の私兵団と折り重なって全滅している。つまり、今この集落を悪魔から守るのは、ひとえに神の加護だけだ。まぁ、それもまだ見捨てられていなければの話だが。 フレデリックは矢を引き抜くと、地面に転がっていた拳に収まる程度の小石を拾い上げ、無造作に弓手に向けて投擲する。 威力は笑えるくらい絶大だった。小石が人間の体を粉砕し、場合によっては貫通する。数回繰り返しただけで、屋根の上は殉教者だらけになった。 フレデリックは、小石を片手で放りながら、やはり散歩でもするような長閑な歩みで、目的地へと向かった。 そこはこの村の中で最も高い建物だった。それは、高価な白石を組んで作られていて、こんな辺鄙な場所には不釣り合いなほど立派な作りをしていた。帝国占領時に没収されたはずの釣り鐘も、新しいものが月光をはじいている所を見るに、ここの主の交代に伴い、大幅に改修されたのだろう。そこは教会だった。 逃げ惑う人々は、ここを目当てに集まってきていた。扉の前で、押し合いへし合い、踏みつぶし引き倒しながら――実際競争に負けた幾人かは、人々の足の下で動かなくなっていた――固く閉ざされた扉を叩き、神の名前を叫んでいる。あるいはジョルトの名前を。 フレデリックは昏い歓喜と共に、教会前の階段を一歩ずつ上がる。恐慌に捕らわれていた人々も、ようやく彼が近くに迫っている事に気づき、慌ててその場を離れようとしたが、扉と人の壁に押しつぶされて、身動きが取れない。もつれあいながら、ドミノのように倒れて、階段の端から落ちていく。恐怖と苦痛の悲鳴が各所で上がる。 実を言えば、先ほどまでフレデリックの心には、わずかな恐れ……いや期待があった。こんな身になったからには、教会になど近づけば、天から雷でも降ってくるのではないかと。しかし、この光景を見るがいい。これこそまさに地獄の門。ならば、家に帰るも同じではないか。フレデリックの顔には笑みに似た表情が浮かんでいた。 血の滴る壁を掻き分け、弾き飛ばし、フレデリックは扉にたどり着く。樫でできた両開きの扉は重厚で、縋りつく民草の圧力にもびくともしない。試しに片手で押してみるも、どうやら向こうでバリケードを築いているらしく、抵抗を感じた。無理にここから入らなくても、窓や屋根など入れるところはいくらでもありそうだが、怪物がこそこそ裏から回り込むのでは興覚めだ。 思い知らせてやらねばならなかった。この夜に命運が尽きた者達に。本当の悪魔とはこうあるべきなのだと。お前たちの真似事など、及びもつかないのだと。 フレデリックは指を扉の境目にねじ込み、左右に両手を開いた。厚みが二十センチほどもある高級な木材は、べきべきと音を立てながらあっという間に木くずと木片に変わっていく。 くわえて山と積み上げられていた――椅子や燭台といった教会の備品などだ――バリケードを1つずつ引きはがして、ようやく教会の中が見えるようになった。教会奥の突き当り、十字架を仰ぐ祭壇で、わだかまる人々の姿も視界に収めることができる。 すすり泣きは悲鳴に、祈りも悲鳴に、悲鳴はなお強い悲鳴に。それまで扉越しに感じていた、中に閉じこもっていた者たちの恐れが、空気を震わせ直接フレデリックに感じられる。 だが、その中にあっても一人だけフレデリックを顧みない者がいた。彼に背を向け、祭壇で一心に神に祈りを捧げるその男こそ。 「ジョルト」 「主は我を守りたもう、見そなわしたもう……」 「祈りは無駄だ、この世でもあの世でも、もう貴様を守るものは無いぞ」 フレデリックはずかずかと教会に踏み入ると、モーセの奇跡のように割れて逃げていく人々の間から、ジョルトに掴みかかった。無理やり振り向かせる。 最後の記憶と比べると、驚くほどジョルトは老け込み、小柄になっていた。今にも燃え尽きる薪を思わせる。 しかし肉の削がれた顔の中で、目だけはやたらと澄み渡り、初めて物を見る赤子のようにフレデリックを見返していた。今起きている事が全く理解できないのだろう。神の加護がある自分に、なぜ悪魔が触れることができるのか……。 その瞬間、フレデリックは全てを理解した。狂信などという範囲をとっくに超えて、ジョルトは壊れていたのだ。少しでも判断力が残っていれば、あのエステルハージ公の娘と孫に手を出すわけがない。フレデリックの災難にかこつけ、世論を味方につける公算があったのかと思っていたが、彼は自身が積み上げたガラクタでできた神のお告げを本当に聞いたのだろう。 どんな感情でも、それを突き詰め、一色に染まれば人は聖者になれるのだった。ジョルトの場合はそれが憎しみだっただけだ。 その事実に半ば圧倒され、息を呑んだフレデリックだったが、これから起きる殺人を思い直す理由にはならなかった。案山子のように軽い老体を引きずり、教会の外へ連れ出す。 石造りの階段の上に放り出すと、心を病んだ老人にも自らの危機的状況が認識できたらしい。必死で辺りを見渡し、自分を救う神の奇跡を探し回るが、どこにもそんな予兆は見られない。フレデリックはその前に立ち、彼の運命を知らしめる。片手に拳大の石を握ったまま。 ジョルトは呆然とフレデリックを見上げた。 「……悪魔は、滅ぼされる……主は決して見逃さない」 フレデリックは頷いた。 「……あぁ、同感だ」 フレデリックは石を振り下ろした。 階段に幾筋もの血が流れ、下へ下へと溜まっていく。フレデリックが我に返ると、かろうじて人と判断できる何かが、足元にわだかまっているだけだ。 その時、風を切る音がしたかと思うと、フレデリックの肩に衝撃が走った。見れば、背中に矢が突き立っている。 まだ抵抗する奴がいたかと肉ごと引き抜き、振り返ると、十の齢を数えるか数えないかと思われる少年がいた。小ぶりの弓を構えている。泣きはらした跡の残る目に憎しみをたたえ、次の矢をつがえる。 身なりからしても、猟師の子供だろう。そしてフレデリックは先ほど石を投げつけ殺した猟師たちの姿を思い出す。この少年は仇を討ちに来たのだ。 二人の距離は近接し、少年が次の矢を外すことはないだろう。しかし、フレデリックにとって弓矢を避けることは簡単だった。何なら矢が放たれる前に、その細い首をへし折るのだって造作もない。 だがフレデリックは、そのいずれも試すことなく、両手を上げた。 「よく狙って撃て。心臓を狙うんだ」 ふと、フェレンツに同じように弓の手ほどきをした事を思い出す。家族に会えることはもう一生ないが、思い出だけは胸に残っているのだ。たとえ行き先が地獄であろうと、もう怖くはない。 少年が強く弓を弾き絞った。フレデリックは目をつむる。 そして、すぐに目を開けた。 風を切る不気味な音とともに飛来した矢が、フレデリックの目前で少年の頭部に突き立った。少年は膝から崩れ落ち、彼自身が引いた矢はこと切れた持ち主の手から、明後日の方向へ飛んでいく。 フレデリックは、驚きに目を開いたまま死を迎えた少年から、彼を殺した矢の飛んできた方向へ視線を移す。そこでは数人の弓手を引き連れたエステルハージ公が、馬上で冷徹にこちらを見据えていた。 包囲と殲滅は実に迅速に行われた。逃げた者隠れた者、老若男女、この集落にいる者全てが、全滅するまでものの数刻とかかるまい。これぞ苛烈公と恐れられる男の本領であった。 今、村一つを滅ぼした当人を前にして、フレデリックはもう条件反射のような畏怖に体を震わせた。 「エステルハージ公……」 二の句も次げぬフレデリックに、義父は静かに尋ねた。 「“それ”は、ジョルトか?」 肉塊になった仇敵を顎で尋ね、それに肯定が返ってくると、エステルハージ公は無感動に頷いた。 「よくやってくれた」 「……よくありません」 フレデリックは従者の緊張が高まるのもかまわず、公に近づくと、首を垂れた。 「なんのつもりだ?」 「この首をお刎ねください。それで本当に終いです。妻子を殺したのはジョルトのシンパ達です。殺すように命じたのはジョルトでしょう。ダニエルはそれを止めなかった。ですが、その全てに私の責任があるのです。どうぞお刎ねください。あなたには私を殺す責務がある」 エステルハージ公はにこりともせず、鼻で笑った。 「この私に責務を説くか……いいだろう」 エステルハージ公は馬上から降りフレデリックに近づくと、おもむろに俯くフレデリックを蹴り上げた。予期せぬ暴力に、フレデリックが仰向けに転がると、その喉に剣の切っ先を向ける。 「いいか、フレデリック。お前が死んで天国に行くならば、私は今すぐお前を殺している。ミラやフェレンツやイムレも、お前が不在では寂しかろう。だがお前は地獄に堕ちる。もはや永遠に交わることはない」 フレデリックは力なく笑った。わかりきっていることだ。冗談めかして返す。 「ならば、地獄でジョルトを永遠に石で打ち続けましょう」 その時、岩にノミを当てたような、無感情な殺戮者の顔にも笑みが浮かぶ。 「それは私の仕事だ」 エステルハージ公は剣を鞘に戻すと、馬に戻り、鞍に括り付けてあった荷物を放った。一人分の旅荷物と、重そうな小袋……音からして金が詰まっているのだろう。 どういう事なのか一瞬測りかねたが、すぐに気づいて顔を上げる。このままフレデリックが人の手に落ちれば、すぐでなくともヤノーシュが言う通り、いずれ持てあまされ命を奪われるだろう。フレデリックとてそこまで生き延びるつもりもなかった。だが、エステルハージ公は逃げて生き延びろというのだ。この、呪われた怪物を世に解き放とうとしている。 非難とも懇願ともつかぬ視線を送るフレデリックに、エステルハージ公は感情の読めない顔で告げた。 「フレデリック、お前は夜を生きるのだ……長い夜に、ミラの夢を見ろ。いずれ、お前だけが娘が生きた証となる」 フレデリックは荒く息を繰り返しながら、足元の旅荷物を見た。 やはりあなたは生き残る。ヤノーシュの高笑いさえ聞こえてきそうだ。 だが、立ちすくむ時間はわずかだった。荷を担ぎ、踵を返す。 半ば逃げるようにして村を出て、丘を越えて、川を越えて、山を登って……ふと誰かに呼ばれた気がして振り返れば、濃紺の空の際が青白く染まりかけていた。僅かな光に強いまぶしさを感じて、目を細める。 まもなく朝が東から駆けてくるのだった。 夜は逃げなくてはならなかった。

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