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 黒い影が雨に(けぶ)る垣根の向こう側を過ぎ去った。  桃色の花弁を重ねた紫陽花(あじさい)から視線を逸し、櫻庭 真澄(ますみ)は縁側から腰を上げた。  玄関から「ごめんください」と言う若い男の声。どこか緊張を孕んだ声に誘われるように、真澄は玄関へと向かう。  何食わぬ顔で玄関の戸を開き、濡烏(ねれがらす)の如く黒に染まった学生服の男に「はい」と問う。 「雨が酷く、少しばかし休ませていただけませんか」  青年は人目を憚るように俯き、親指と人差指が学帽のツバに触れている。 「濡れていては風邪を引いてしまう。中へ」  真澄は労るように肩に触れ、青年を中へと促した。触れた肩先は酷く冷たい。律儀にも学校から傘をも差さずに、ここまで来たのだろう。そう思い至った真澄は口元を緩めた。 「君は馬鹿だな。途中まで傘を差してくればいいだろう」  玄関を閉めつつ含み笑いで言った真澄に、青年――倉林 夜彦(よるひこ)は、決まり悪げに顔を顰めた。精悍な顔立ちに少しばかし男の険が滲む。 「用心に越したことはありませんので」  むっとしたように夜彦は言った。 「君は相変わらず固いな。まるで庭に植わっている石のようだよ」 「……先生」  穏やかな笑みを浮かべる真澄に対し、夜彦の表情は落ち着かない。寄せた眉間の皺をそのままに、目線だけが熱を帯びている。 「先生だなんて呼ばないでくれ。僕はそんな大それた人間じゃあない」  玄関の上がり框を前に「ここで脱いで、畳が濡れる」と言い、真澄は甲斐甲斐しい妻のように、夜彦の学生服を脱がしていく。ずっしりとした学生服が移すように、真澄の着流しの袖を濡らした。 「湯は溜めてある」 「待っていてくださったのですね」  真澄はそれには答えずに、口元を緩めて夜彦を見つめた。  夜彦の冷たい手が真澄の頬に触れる。真澄は濡れるのも構わず夜彦の首筋に腕を回した。  瞼を閉ざし、触れ合う唇は酷く冷たい。 「冷たいなぁ」  離した唇の隙間から真澄は囁く。続けて、ごめんと謝辞を口の形だけで作る。夜彦が飲み込むように熱い唇で覆った。何度か接吻を繰り返すと「ほら、湯が冷める」と言って、真澄は濡れた体を撫でた。  名残惜しげに離れたシャツの背を押し、真澄は夜彦を浴室へと促した。  脱衣場に手ぬぐいと大きめの着流しを用意すると、真澄はそのまま居間へと戻った。火鉢の近くに制服を吊るし、押し入れから布団を取り出すと離れた位置に敷く。庭に通じる障子を閉ざすと、濁った光と共に雨音が遠のいた。

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