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第3話:束の間の幸せ……?

 懐かしい木の香りがするウッドハウスに、バターの甘さが漂う。 「ホワイトソースは目を離すとすぐダマになるから、手を止めないようにね」 「分かりました。……しかし驚きですね。まさかホワイトソースが小麦粉とバターとミルクで作れるなんて」  セイの指示通り延々と木のヘラを動かし続けているエドアルドが、初めて知ったと感心しながら呟く。 「エドはあまり料理しないの?」 「簡単な酒のつまみ程度なら作れますが、本格的なものは……。でも料理は嫌いじゃありませんよ」 「じゃあそのソース作りが終わったら、エドも何か一つ作ってくれる? 食卓がラザーニャとパンだけじゃ、寂しいから」  セイもそれほど料理ができる方ではない。と言うよりも、ラザーニャだけしか作れないと言った方が早いかもしれない。この料理はヴィートの父に仕えていた忙しい母が、セイの誕生日だけはと必ず休みを取って作って見せてくれたから覚えている。  基本はイタリア伝統の作り方だが、ほんの少しだけ母の故郷である日本の味が隠された特別な料理。両親をヴィートの父とともに失ったのは五年前のことだが、その前に作り方を教わっておいてよかったと思っている。 「勿論、いいですよ。ではここにある材料を見て、いくつか作りましょう」  笑顔で快諾したエドアルドが、再びソース作りに集中する。それから少しして、隣から陽気な鼻歌が聞こえてきた。  どうやら、かなりご機嫌らしい。会話がなくても感情がこちらにまでダダ漏れになってくる辺り、生粋のイタリア男を体現している。 「エドのお父さんも、エドみたいに明るい人?」  エドアルドを見ているうちに、ふと気になって聞いてみる。 「おや、私のこと興味を持ってくれるなんて嬉しいですね。ええ、父は陽気で楽しいことが大好きで、母を心の底から愛する温かな男でした」 「へぇ……愛妻家かぁ」 「それもありますが……実は、私の両親も運命の番だったんですよ」 「えっ! 本当にっ?」  さらりと告げた驚きの事実に、セイは思わずラザーニャに入れるポテトを切っていた手を止め、驚きの声を上げてしまった。だがそれも仕方ない話だ。今の時代、オメガの数が減少していることもあって、アルファとオメガが結ばれることすら珍しいと言われているのに、さらに運命の番なんていったら一生一度存在を確認できるか否かの奇跡である。  自分たちの事例も十分希有だというのに、こんなに近くにもう一組居たなんて。 「二人は私たちの時のように、一目見てすぐに自覚したそうです。そして恋に落ち、一年後には私が生まれていた」  当時、エドアルドの母はまだスクールに通っていたそうだが、卒業も待てなかったぐらいの勢いだったそうだ。 「父はずっと母のことをミューズだと称えて、愛し続けました。酷い話、時々息子の私にすら嫉妬するぐらいで、母はいつも呆れた顔をしていましたが、とても幸せそうだった。…………最期、父が事故で他界し、追うようにして母が衰弱死するその瞬間まで」  エドアルドは悲しそうに笑いながら、出来上がったホワイトソースの火を止める。  セイは何と言っていいか分からず、言葉を飲み込んでしまった。  オメガの衰弱死は、自分のバース性が判明した時に聞かされた。オメガは番のアルファを失ったり、理由なく引き離されたりすると過度の精神的ストレスにより体調を崩してしまったり、命を落とすことがあると。おそらくエドアルドの母親は、夫を失ったショックに耐えられなかったのだろう。 「……エドのお母さんは、お父さんのことを本当に愛していたんだね。亡くなってしまったのは悲しいことだけど、僕には二人の繋がりが素晴らしいものに思えるよ」 「ええ……息子の私が言うのも何ですが自慢の両親で、私も将来は二人のような家庭を持つのだと心に誓ったぐらいです」  両親のような家庭。その言葉に、セイはわずかに肩を揺らした。  きっとエドアルドが脳裏で描く未来予想図には、セイが映っていることだろう。運命の相手と番い、愛を囁き合いながら暮らす。想像してみただけで心が温かくなって笑みが零れそうになったが。  ――――そんな未来は絶対に訪れない。  すぐに現実に引き戻され、瞳を伏せる。 「セイのご両親は、どんな方です?」 「え? 僕の? 僕の両親は、父さんが若い頃からヴィートのお父さん……先代と友人だったそうで、ずっとファミリーとして支えていたんだって。母さんは日本人で……」 「ジャッポネーゼっ?」 「へ?」  話の途中、エドアルドが急に声を上げたものだから、セイは目を丸めて声の方を見つめた。 「どうしたの?」 「あ、いえ、私はジャッポーネが昔から大好きなんです。あの国は四季の移ろいが美しく、豊かな情緒があるでしょう? こんな立場ですから難しいかもしれませんが、いつかは行ってみたいと願う国なんです……」  自分の好きな国とセイの母の国が同じことが、嬉しいのだそうだ。  そう言われて、セイの胸にもエドアルドの笑顔と同じ温かさが生まれた。  母の国には数えるほどしか行ったことがないが、雪化粧の富士山や、一面を薄桃色に染める満開の桜などの心洗われる景色を初めて見た時は、感動のあまりに涙を零してしまった。両親が亡くなってからはエドアルド同様、マフィアの幹部という立場もあって足を伸ばす機会を作れずにいるが、母の国のことは心から愛しているし、日本人の血が混ざっていることも誇りに思っている。  だからだろうか、エドアルドが好きだと言ってくれていたことに、顔の緩みが止まらなかった。まるで二人だけの特別な共通点を見つけたみたいだ。 「あまりに好きすぎて、学生時代はずっとカラテのサークルに所属していたぐらいです」 「エドはスクールに通っていたのっ?」  何気なく告げられた話にセイは喫驚し、思わず大きな声を出してしまった。  イタリアンマフィアの全てが該当するというわけではないが、スコッツォーリやマイゼッティーのように世襲制をとっているファミリーの嫡子は、誘拐されたり襲われたりする危険があるため、学校には通わず家庭教師の下で学ぶことが多い。ヴィートも生まれてすぐに専属の教師が傍に置かれたぐらいで、一度も学び舎に足を踏み入れることはなかった。  しかしエドアルドの話によると、彼は大学を卒業するまで一般人に混ざって勉学に励んでいたらしい。 「私の家は穏健派で通っていましたし、父も権力や縄張りを主張しない性格だったので、狙われることがあまりなかったんです。ですから、ごく普通の学生として通っていましたよ」 「そうだったんだ……珍しいけど、スクールは通えるなら通ったほうがいいもんね」 「ええ、ありがたいことです。……おっと、話が横道に逸れてしまいましたね。中断させて申し訳ありません。どうぞ、続きを」  促され、ああそうだったと思い出したセイが、話を再開させる。 「えっと、母さんの話からだよね。……確か母さんは、大好きなイタリアで働きたくて、日本から飛び出して来たって言ってたっけ。二人の出会いは…………父さん曰く、『道で出会った途端に一目惚れした』って言ってたけど、多分、ナンパじゃないかな? 母さん、『声をかけられた直後に、プロポーズされてビックリした』って言ってたから」  情熱的なイタリア人は、少しでも気になった人間を目にすると、あたかも運命と出会ったかのように愛を体現して見せる。おそらく当時の父は、道で見かけた母に目を奪われ恋に落ち、必死に口説き落としたのだろう。母から昔聞いた話を思い出し、セイは小さく微笑んだ。 「ふふっ、イタリア男らしい行動ですね」 「だよね。で、そのまま結婚して母さんもスコッツォーリに入った」 「そのまま? 日本から働きに来てマフィアに入るとは、セイのマンマは強い女性ですね」 「それだけど、実はね、母さん最初はマフィアだって知らなかったみたいだよ。父さんから紹介されて入ったのがスコッツォーリの経営する会社で、気づいたらファミリーになってたって。それを知らされた時はさすがに怒ったらしいけど、何とか仲直りして……僕が生まれた」 「それでも許してしまうところが素敵だ」 「まぁ、父さんより肝が据わってた人だからね。だからベータ同士からオメガの僕が生まれても、母さんは嫌がらず普通の子どもと同じように愛してくれたよ」  そう、セイの両親は二人ともベータ性だった。故に、生まれてきたセイもベータだと思っていたが、調べてみればオメガで。 きっと初めて三種性の性別が分かった時、さぞ落胆したことだろう。  けれど二人は一度も、セイを攻めなかった。バース性なんて関係ないと笑い飛ばしたぐらいだ。 「優しい両親で、僕は幸せだった」 「セイ、それは違います」 「え?」 「オメガだから嫌がられるなんてことは、絶対にない。それに貴方はオメガである前に一人の人間ですから、愛される資格は十分にある。それをセイの両親が当たり前に知っていただけですよ」 「エド……」 「世の中にまだ、『オメガは劣等種』だなんて、一昔前の悪しき思考が残ってることは確かです。でも私はそういった考えが嫌いだ。オメガは希有な存在であって奇跡と呼ぶべきだと思っています。だから……貴方もどうか自分を卑下しないで下さい」  真剣な面持ちでエドアルドは語る。  これまでオメガが希有だなんて言われたことがなかったセイに、自分が特別だという感覚はなかったが、時間が経つうちにじわりじわりとエドアルドの言葉が胸に染みてきて、身体中が嬉しさで染まった。  スコッツォーリには、まだセイを見下す者が大勢いる。普段はヴィートが守ってくれているが、裏では何度もアルファの慰み者だと言われてきた。そんな環境にいるせいか、いつの間にか自分自身に劣等種という呪いをかけていたようだ。 「ありがとう、エドは優しいね。こうやってエドやヴィーみたいにオメガのことを考えてくれる人がいてくれるだけでも、何だか前向きになれそうだよ」 「ヴィー……ですか」 「ん?」 「あ、いえ……ご両親の話にもありましたが、先代からの付き合いということはセイとヴィートは生まれた時から?」 「うん、一緒だよ。生まれた年も同じだから、ずっと二人で育ってきた」  問われたことに答えながら、セイは二人の二十三年を振り返る。  イタリアンファミリーの中でも特に強い権力を持つ家に生まれたヴィートは、厳しすぎると思うほどの教育環境で育てられた。物心がついた時から様々な言語の習得を義務づけられ、五歳からは大人顔負けの武術・武器訓練を課せられて。毎日、幼子の柔肌を真っ赤に腫上がらせて帰ってくる痛々しい姿は、幼なじみとして顔を合わせていたセイの胸も切なく締め上げた。  代わってセイは両親がマフィアに属しているとはいえ、形は一般家庭と同じなので最初はスクールに通っていたが、それも九歳までの話だった。 「今は随分大人になったけど、昔のヴィーはすごい泣き虫だったんだよ。家庭教師の先生が怖いってずっと泣いてたし、僕が登校しようとする度に大泣きして駄々を捏ねたし。そのせいってわけじゃないけど、いつの間にか僕もスクールを辞めてヴィーと机を並べるようになったんだ」  スクールを辞めるきっかけとなったのはヴィートの涙だったが、実は元々、オメガで人よりも体力が劣っていたセイは集団生活に馴染むことができなかった。それに思春期を迎えればヒートによって否が応でも休みがちになってしまうため、ヴィートの隣にいることはセイにとってもプラスだったのだ。 「ヴィーと一緒に学んだ勉強は厳しかったけれど、凄く身になった。そのおかげで今の僕がいるんだから、ヴィーや先代には感謝してもしきれないよ」 「そう……ですか……」  相槌を返す声に元気がない。どうしたのだろう、さっきまであんなに陽気だったのに。 「どうしたの、エド。体調悪い……?」 「いえ……貴方があまりにもヴィートとのことを楽しそうに話すので……」 「…………へ?」 「……私だって一人の男です。自分の全てを捧げたいと願っている相手が別の男の話をして微笑んでいたら……」  嫉妬してしまいます、とどんな女性も虜にするであろう美麗な男が、子どもみたいに口を尖らせる。  その顔を見たセイが、一番に思ったことは可愛い、だった。 「ふっ……ふふっ……」 「何かおかしいことがありましたか?」 「ううん、エドって可愛いんだなぁって思っただけだよ」 「なっ……可愛いって、私にそんなことを言ったのはセイが初めてです。それに愛らしいのはどう見ても貴方だ」 「つい数秒前まで膨れてた人間が言っても、説得力ないよ。ほら、手が止まってる。早く作らないと、日が暮れちゃうよ?」  見上げて柔らかく笑うと、目前の美丈夫の顔がたちまち真っ赤に染まった。  そのまま口をパクパクとさせているエドアルドを見て、やはり可愛いのは彼の方だと確信する。  笑いながら食事の用意を続け、一時間ほどで食卓には二人で作った和風ラザーニャと、エドアルドが作ったカルパッチョ、カプレーゼ、そして焼きたてのパンに白ワインが並んだ。予想以上に豪華となった食事を前にすると二人とも自然と腹が鳴ってしまい、揃って吹き出しながら食卓へとつく。勿論、味も見た目同様に完璧だった。  今日はともに過ごす相手が予想外の人物になってしまったけれど、やはり食事は一人よりも二人の方がいい。そう思いながらセイは他愛もない、けれど決して二人の関係を大きく変えるような領域には触れない会話で時を過ごした。  会話の中、エドアルドのファミリーについて少しだけ聞かせて貰ったが、彼らは古い時代から続くイタリアンマフィアとは思えないほど仲がいいらしく、家族のような関係なのだという。聞いていて羨ましく感じていると、それが顔に出ていたのかエドアルドに今度皆を紹介したいと言われた。――――無論、彼のファミリーと顔を合わすこともないだろうからと、曖昧な返事で躱したけれども。 「――――今日は一緒に過ごしてくれてありがとう。父さんたちもきっと喜んでると思う」 「いいえ、お礼を言うのは私の方です。今日は私の我儘を聞いてくれて、ありがとう」  笑顔と充足に満たされた食事を終え、使った食器を片づけたところで二人は向き合う。名残惜しい、と言ってしまってはいけないかもしれないが、そう思ってしまうくらい今日の時間は楽しくて、別れの言葉を告げるのを躊躇いそうになった。  でも、そんなことは許されないと自分を律する。  エドアルドのためにも、けじめをつけなければ。 「エド、本当にありがとう、すごく楽しい時間を過ごせた。けど…………僕らの時間は、これでおしまいだよ」 「セ、イ……?」 「僕らはこの部屋から出た瞬間、仕事のパートナーへと戻る。そして、それぞれのファミリーに帰るんだ」  セイはヴィートの右腕として、エドアルドはファミリーの長として。 「僕は今から厳しいことを言うかもしれないけど、許して欲しい。――――ドン・マイゼッティー、僕の未来と貴方の未来が交差する日は絶対に来ない。貴方は僕の運命のアルファかもしれないけど、僕は貴方を受け入れるつもりはないよ」 「や……やめて下さい、そんな残酷なことを言うのは……」  一気に青ざめたエドアルドが、小さく首を振る。あからさまにショックを受けている様子に、セイの胸もナイフで抉られたかのように痛んだ。 「申し訳ないけれど、理解して欲しい。でないと貴方と貴方のファミリーが……」  理由を言い掛けたところで、セイはハッと目を見開き、外へと続く扉に視線を向けた。  今、何か音が聞こえた。 「セイ?」 「……ごめん、誰か来たみたいだ。悪いけど少しの間、隣の部屋に隠れてて貰えないかな」  微かだが、遠くから聞こえたのはエンジン音だった。おそらく、この家に続く小道の入口に車が停車したのだろう。 「ヴィートですか?」 「いや、ヴィーは今日外せない会合で遠方に出ているから、彼じゃない。多分、ファミリーの人間だと思う」  この辺一帯はスコッツォーリが管理する敷地のため、ヴィートの屋敷同様、一般人や他の組織の人間が気軽に入って来られる場所ではないうえ、周辺にある住居もこの別荘のみ。つまり、他の家と間違えて入ってきたという理由も考えられない。  加えて、もし来訪者がヴィートだったならば来る前に連絡は入れてくるだろうし、セイを驚かせようという悪戯目的なら、音や気配を一切悟られないまま部屋の中まで入ってくるはず。だから絶対に違う。となると考えられるのはスコッツォーリの人間しかないのだが、組織内の人間にエドアルドがここにいることを知られてしまったら、非常にまずい事態になる。 「もし都合が悪いのであれば、私が勝手にしたことだと話しますが」 「ううん、あまり事を大きくしたくないんだ。来た人間はすぐに帰すから、それまで隣の部屋で待っていて欲しい」 「分かりました」  小さく頷いたエドアルドが、隣の部屋に入っていく。それを見届けてから、さも来訪者に気づいていないふりをして待っていると、程なくして部屋の玄関口が勢いよく開かれた。 「やっと見つけたぜ。低俗なオメガ野郎が、ちょろちょろと逃げ回りやがって」  ノックもなしに中に入ってきたのは先日、セイの腕を掴んだことでヴィートの怒りを買った扉番の男だった。 「連絡もなしに突然来るなんて、少し失礼じゃないのかい? それに僕は誰かから逃げたつもりはないし、君、確か配属が北部に移ったって聞いたけどどうしてシチリアにいるの?」  この男はあの一件の後すぐに屋敷警備から外され、一度赴いたら二度とシチリアには戻ってこられないであろう、落ち零れの構成員が集まる僻地への異動が命じられていたため、今、ここにいるのはおかしい。 「うるせぇっ! 全部お前のせいだろうがっ! お前が気持ち悪いオメガのフェロモンでヴィート様を誘惑して、俺を飛ばすよう計ったことは知ってるぞ!」  以前のようなきっちりとしたスーツではなく、薄汚れたシャツを身に纏った男が唾を吐きながら怒鳴り散らす。 「悪いけど僕はヴィーを誘惑した覚えも、君の異動を願った覚えもないよ。全てはヴィーが決めたことだ」  と、言ったところで、きっと信じないだろうが。  以前もそうだったが、この男は人の話を聞く耳がない。そんな人間に真実を説こうとしても無駄であろう。男の血走った双眸を見て、セイは別の解決手段を巡らせた。 「それで、ここまで来て君は僕をどうしたいの?」 「ハッ、決まってるだろう! お前のせいで俺の人生が狂ったんだから、俺と同じようにお前の人生もメチャクチャにしてやるんだよっ」  目的は脅しか、もしくは命か。言葉から推測しながら、ゆっくりとセイは食卓へと近づいた。机の下には護身用の銃が括りつけてある。男がどんな行動に出るかはまだ分からない今、最後の手段として視野に入れておかなければ。人を殺すことは好きではないが、こればかりは仕方がない。だが――――。 「おっとそれ以上動くなよ。変に頭が回るお前のことだ、どうせ隙を見て銃でもぶっ放そうって考えてるんだろうが、そうはさせない」 「っ……」  隠していた銃に手が届く直前で、男が懐から同じ鉄の塊を取り出す。 「けどな、安心しろ。俺はお前をこの場で殺すつもりはない。お前にはもっとお似合いないたぶり方があるからな」  銃口をこちらに向けながら、男が一歩一歩セイに近づく。 「確かオメガは項を噛まれると、そのアルファと一生の番になるんだよなぁ?」  それは子どもでも知っていること。だが、この男から改めた形で聞かされると、気味の悪さが際立つ。 「……何が言いたいの?」 「で、番持ちになるとオメガは一生発情に悩まされることはなくなるが、番相手には絶対服従となる。まぁ、それだけでも十分滑稽な姿だが、面白いのはその後だ」  男がニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべる。 「番の解消」 「なっ……!」 「一度慰み者になったオメガは、相手のアルファに番関係を解除されると二度と番を作れなくなるうえ、一生強い発情期に苦しみながら最期を迎えることになる、だったか?」  そう、オメガは一度でも項を噛まれると、身体が番相手だけのもの作り替えられてしまうため、ヒートはなくなるが二度と他のアルファと番うことができなくなる。ゆえに番となったアルファとオメガは一生をともに過ごすことが多いのだが、中には残酷な選択を取るアルファもいる。それが番の解消だ。 「この世界は面白いよなぁ? オメガは一人としか番えないっていうのに、アルファ側からは簡単に番関係を解消できるんだからよ」 「っ、ま、さか……」 「ハッ、さすが無駄な知識ばっかり詰め込んでるだけあって、すぐに察しはついたようだな。そうだ、俺は今からお前を犯して項を噛む。そしてすぐさま番を解消してやるんだよ。そうすれば、お前は一生もがき苦しんで死を迎える……どうだ、アルファを狂わす穢れたオメガにぴったりな末路だろ?」  何て卑怯なことを考えるのだろう。あまりのおぞましさに聞いただけで気持ちが悪くなり、立ちくらみがした。 「やめろ……そんなことをして、ヴィーに知られたら、君は確実に命を落とすことになるんだよ」 「何だ、今さら怖じ気づいて命乞いか? だが残念だったな。これまで築き上げてきた地位やプライド、それにヴィート様からの信頼まで失った俺には、もう怖いものなんてないんだよ。お前にさえ復讐できれば、命なんてどうでもいい」  じりじりとこちらに寄ってくる男は、覚悟を決めた本気の目をしている。無論、最初から男のことを甘くみていたわけではないが、命をかけた人間の気迫はそれだけ震え上がるほどセイの恐怖を刺激してきた。  男の手には拳銃。逃げれば即座に撃たれておしまいだ。しかし、だからといって何もせずに立っていれば、近づいてくる男のアルファフェロモンで自由を奪われてしまうだけ。  ここはもう足の一本でも犠牲にして食卓の下へと飛び込み、銃を取って応戦するしかないか。成功率は半々だが、この男に項を噛まれて番になるよりはましだ。頭をフル回転させ、思い浮かんだ策を決行しようと、セイが爪先を静かに動かす。 「だから勝手に動くなと言っただろうがっ!」  しかし飛び出す前に行動を見破られてしまい、怒号とともに銃のハンマーを起こした男が、セイの胸に銃口を向ける。  ――――ダメだ、間に合わない。  これまでの経験から危機を免れることが不可能であることを悟ったセイは、被弾の恐怖に目を閉じる。 「くっ」  事態が一転したのは、その時だった。 「うっ、ぐっ……」  男の眉間に突如深い皺が寄り、続けて双眸が大きく見開かれる。一瞬、何か驚くものでも見たのかと思ったが、その予想は男の身体が前触れもなく木の床に転がったことで大きく外れた。 「え……? ちょっ……と、君……どうしたの?」  唇をハクハクと開閉しながら喉を指で掻きむしり、必死に息を吸おうとしている男の姿はまるで毒薬でも飲まされたかのようにしか見えない。一体、男に何が起こったのだ。警戒と困惑をない交ぜにしながら、男の様子を窺おうと手を伸ばす。  そこでセイはもう一つ、驚かされた。 「ど……うして……」  男に伸ばそうとした手が、震えている。寒さを感じているわけでもないのに、カタカタと小刻みに。  びっくりして震える指を握ってみると、思うように力が入らなくなっていた。  まさか変調を起こしていたのは男だけではなく、自分もだったのか。気づいたセイの心に、心臓の血管が絞まるような得体の知れない恐ろしさがじわりじわりと湧き上がってくる。  そこへ不意にコツン、コツンと床を靴が叩く音が聞こえてきた。  男以外の誰かが部屋に入ってきたのだと即座に勘づいたセイが、弾かれるように顔を上げる。するとそこには――――。 「エ……ド……?」  人を射抜き殺してしまいそうなほどの鋭い眼光を浮かべたエドアルドが立っていた。 「どう……し……」  何故こちらの部屋に出てきてしまったのだ。隠れていないと危ないと言ったのに。姿を目にすると同時に問い質そうとしたが、その言葉は後に続くことなく喉の奥へと消えていった。  真一文字に引き結ばれた唇に、温かみが一切消えた表情。彼の周りに漂う空気が別次元と言ってもいいぐらいに変わってしまっていて、一瞬エドアルドだと思えなかった。  今、目の前にいるのは誰だ。あの優しい笑顔の男はどこに行ってしまったのだ。困惑する頭で考えたところでセイはハッと目を見開き、自分が大きな失念をしていたことに気づく。  ――――ああ、そうだった。彼も一つのファミリーを束ねる人間だった。  巷でどれほど穏健派だと言われようが、彼もマフィアのドン。その血の中にヴィートと同じ冷酷な猛獣が宿っていてもおかしくない。  何故、今までそれを忘れていたのだろう。 「おや、私の威嚇を受けてまだ意識を失わないとは。意外に気骨のある男だったんですね」  床に転がる男を冷たい目で見下していたエドアルドが、美しく磨かれた靴で男の頭を踏みつける。 「ぐぅぅぅ……っ」 「貴方程度のアルファの意識なら、一瞬で落とせると思ったんですが……どうやらフェロモンの調節を間違えたようですね」  威嚇、そしてフェロモン。彼が語ってみせたその言葉で、セイは漸く自分やこの男に突然起こった変調の原因を悟る。 男が急に倒れたのはエドアルドが放出させたアルファ特有の威嚇フェロモンに、中枢神経を攻撃されたからだ。  アルファは強い圧力を持つフェロモンで、同種の行動を制することができる。それは動物の縄張り意識と似たもので、同じアルファ同士でも生まれ持った能力の差で優劣がつくと言われている。エドアルドはその力で、男を屈服させた。  アルファフェロモンが効かないオメガであるはずのセイに影響が出てしまったのは、おそらくエドアルドの力が強すぎたからだろう。 「な……貴……様……」 「もうそれ以上喋らない方がいいですよ。怒りを抑えられなくなって頭を潰してしまうかもしれない」  グリッ、と男の頭にエドアルドの靴が減り込む。男は声にもならない悲鳴を喉の奥で発したが、それは耳に届く音にならなかった。 「私の大切なセイを襲うだなんて、口にするだけでも万死に値するというのに、番にして解消する? よくそこまで愚かなことが考えられたものです。……ああ、そういえば貴方、さっき死ぬことは怖くないって言っていましたね。それなら望みどおり、ここで死んでおきますか?」 「っ! エド、ダメ……」  エドアルドの冷たい言葉に、セイは唇を震わせながら首を振る。 「殺しちゃ……だめ……」  本来、セイの立場ではマフィアのドンの行動を止めることは許されない。その決まりは分かっていたが、セイにはどうしてもエドアルドを止めなければならない理由があった。 「願……エド……、彼はまだうちの人間だ。貴方が……手を下してしまったら」  例えセイを助けるためだとしても、マフィア間抗争の先制攻撃と見なされてしまう。そうなればエドアルドやマイゼッティーファミリーが危ない。 ヴィートは話を聞かない人間ではないが、殺しの理由の中にセイが含まれているだけで、どんな行動を起こすか分からない。だから怖いのだ。 「しかし、この男をこのままにしては……」 「危険なのは分かってる。でも……お願い。貴方のファミリーに……迷惑をかけたくない……んだ」 「セイ……――――分かりました、この男は見逃しましょう」  強い眼差しの訴えを前に、エドアルドは静かに頷いて男の頭から足を下ろす。 「セイのおかげで命拾いしましたね。しかし今後、再び彼に近づいたり……アルファとオメガの番関係を服従だなんて愚劣なことを口にしたりした時には、その瞬間に心臓が止まると思いなさい」  未だエドアルドのフェロモンで身動きが取れない男に、冷たく突きつける。そして二度と視界にすら入れたくないといった様子で、男から目を背けた。 「彼はおそらく数時間は動けないでしょうから、そのうちに外に出ましょう」  既に元の優しい顔に戻っていたエドアルドが、手を差し伸べてくれる。 「う……ん、そう、だね……」  ここはエドアルドの言うとおり、外に出た方がいいだろう。そう考えて足を前に踏み出そうとするが、力が入らない。 「セイ? どうしました?」  セイの様子がおかしいことに気づいたエドアルドが不安な表情を浮かべ、こちらを覗いてくる。 「大丈夫……少し、気分が……悪いだけだから……」 「っ! まさか、私のフェロモンが貴方にも影響をっ?」  漸く状況を理解したらしく、エドアルドの表情が一気に焦ったものに変わった。 「とにかく一度外の空気をっ」 「う……ん…………」 「セイっ!」  耳元でエドアルドが叫ぶ。だけど不思議とうるさく聞こえなくて、それよりも大きく揺れる視界の方が気持ち悪くて。  酷い乗り物酔いにあったかのように頭がふらつき、立っていられなくなった。 「しっかりして下さいっ、セイっ!」  平気だから、慌てないで。そう告げようとしたが、いつの間にか唇まで動かなくなっていた。  ああ、もしかしたらこれは駄目かもしれない。  とうとう酷い倦怠感に耐えられず、エドアルドの腕の中へと倒れ込む。  セイの記憶は、そこで完全に途切れた。

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