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第4話:目覚めた先にあったのは優しい海の香りだった。

 波の音が遠くで聞こえる。薄らと浮上した意識の中、普段あまり聞かない音をとらえたセイは、手を引かれるようにゆっくり瞼を開いた。 「ん……」  最初に目に入ったのは、窓から差し込む優しい自然の光だった。深い睡眠を取れたからか、明るさが気持ちよく感じられる。 しかし、気分のいい目覚めに身体を起こすと、そこはまったく見たことのない部屋が広がっていて、セイは驚きに双眸を丸くした。  ベージュ色のカウチソファーに、ガラスのローテーブル。壁面には大きな液晶テレビが掛けられている、モダンでシンプルな造りの部屋は一階部分にあたる部屋らしく、天井まである高い窓の外は広い庭に続いていた。おそらく、いや、確実にここがスコッツォーリの屋敷ではないことだけは分かるが、では一体誰の部屋だろう。  ベッドから起き上がってサイドテーブルに目を遣ると、天板にはミネラルウォーターのボトルと、『目を覚ましたら、呼んで下さい』とエドアルドのサインが書かれたメモが置かれているのが見えた。 「ここは、エドの? ……ああ、そっか僕…………」  メモを読むと同時に、セイは倒れる前のことを思い出す。そうだ、自分はエドアルドの威嚇のフェロモンに耐えられず、意識を手放してしまったのだ。まだ少しだけ気怠さの残る中、ベッドから足を下ろしたセイは彼が用意したものなら大丈夫だとペットボトルを開封し喉を潤した。そして窓の方へと足を向けると。 「……すご……い」  窓の外には思わず感動が零れてしまうほどに美しいエメラルドの海が広がっていて、セイはたちまち心を奪われてしまった。  まるで写真集でも見ているようだ。  セイは無意識の内に窓を開け、海へと続く庭に足を踏み出す。春の日差しを浴びて温かくなっていた砂浜は、裸足で歩いても痛くないほどサラサラしていた。その中をゆったりとした足取りで進み、エメラルドへと近づく。 波打ち際に立つと、心地よい潮風が頬や額に当たって、優しく髪を揺らした。 「気持ちいい……」 スコッツォーリファミリーは屋敷も管理する別荘も森の中に建てられているため、木々の香りや視界に映る植物で季節を感じていたが、こうして柔らかな風で感じるのも一興だ。  少しの間、このまま波の音に包まれていたい。そんな気分になり、セイはそのまま海を眺め続ける。  ――――この海を、エドアルドも毎日見ているのだろうか。  さざ波の緩やかさは、どこか彼に似ている。こんな心安らかになれる場所にいれば、エドアルドのような人間になるのも分かる気がした。  自分の対が見ている場所を、自分も見ている。そう考えると何だか温かな気持ちになってくる。そう思って微笑んだ時。 「セイっ!」  突然、背後から慌てたように駆ける足音が聞こえてきた。  届いた声とほぼ同時に、振り向く。と、数メートル先に酷く息を切らしたエドアルドの姿があった。どうやら部屋からここまで走ってきたらしい。 「あ、エド……」  そういえば自分は勝手に部屋から出てきてしまったのだった。思い出して謝ろうと、口を開く。だが最後まで言葉にする前に、セイの身体は逞しくて温かなエドアルドの腕の中へと包み込まれてしまった。 「わっ……」  エドアルドのコロンと、微かに甘い彼自身の香りがふわりと鼻を擽る。 「部屋に戻ったら貴方がいなくて……心配しました」 「ごめんね、波の音が聞こえて。あまりにも綺麗だったからつい……」 「いいえ、謝る必要なんてありませんよ。私はセイがいるならそれだけで十分ですから」  怒っていないと、抱擁を解いたエドアルドが穏やかに笑ってくれる。  溢れんばかりの慈しみが、こちらに流れ込んできて、それだけで胸の辺りがトクンと高鳴ってしまった。  やはり、彼の笑顔を見ると、幸せな気分になる。 「ありがとう。あの、それで……いきなりだけど、ここがどこかと今の僕の状況を聞いてもいいかな?」 「ええ、勿論です。まずこの場所ですが、今セイが出てきたあの屋敷と少し先に見える灯台、それからこの海岸は肉眼で見える限りが私のファミリーの所有地です」  説明されてぐるりと周囲を見渡すと、近くの高台に白い灯台がたっているのが見えた。エドアルド曰く、そこは昔灯台として使っていた場所だが、今は使っていないから、そのまま買い取って監視棟にした、のだそうだ。 「そして貴方の状況ですが……――――セイは私が攫いました」 「えっ……」  翌日の天気を伝えるのと同じぐらいの調子で驚愕の事実を告げられ、一瞬で背筋が固まる。 「攫った……?」 「はい。昨晩、あの別荘で貴方が意識を失ったことをチャンスだと思い、スコッツォーリ……いえ、ヴィートから貴方を奪って、私の屋敷に連れてきたんです」 「う、嘘だ、そんな……」  優しくて争いを好まないエドアルドが、そんなことをするなんて信じられない。が――――そう思う反面でセイの脳裏に昨夜のエドアルドの冷徹な顔が浮かび、完全に否定できなくなる。 「だ……ダメだよ、そんな……そんなことをしたら、エドが……」 「殺されますか?」 「そうだよ! ヴィーは僕を絶対に手放さない。例えエドが僕の運命だとしても、傍を離れるなんて絶対に許してくれないし、最悪エドのファミリーまで……」  セイがエドアルドに攫われたと知ったヴィートが、どんな行動に出るか。想像するだけでも指の震えが止まらなくなる。  すぐにでもヴィートに連絡をして、これは間違いだと訂正しなければ。顕著な動揺を晒しながら、セイは自分のスマートフォンを取りに戻ろうとする。と、その腕を掴んで止めたエドが悲しそうに笑った。 「ごめんなさい。今のは嘘です」 「……え?」 「貴方を攫ったというのは私の願望であって、真実ではありません。ですから安心してください。覚えているかと思いますが、貴方は昨日私の威嚇のフェロモンに耐えられず倒れてしまった。本当はすぐにヴィートの屋敷に連れて行こうと思ったのですが、私のフェロモンのせいで貴方のオメガフェロモンが開いてしまったので、急遽変更して私の家に連れてきました」 「僕のが……」  オメガフェロモンとは発情フェロモンのこと。通常はヒートの期間のみ開くそれは、即座に抑制剤を服用すれば収まるのだが、昨夜のセイは服用する前に倒れてしまった。故に、開きっぱなしになってしまったのだ。  エドアルドは意識を手放したセイをオメガの専門医に診せ、適切な処置をしてくれたのだという。 「でも、エドは大丈夫だったの? エドは僕の……運命でしょ?」  発情したオメガのフェロモンは、アルファの自我を容易に奪う。これがさらに運命の番となればその影響はさらに強くなるはずなのだが、そんな状況から彼はどう逃れたというのか。  近寄るだけでも危ないというのに、エドアルドがセイを連れここまで来たなんて、どうしても信じることができない。 「それなら心配はご無用です。いざという時のために様々な種類の抑制剤を携帯していますので、昨夜も一番強い薬を飲んで何とか凌ぎました」 「一番強いって、そんな薬飲んで身体の方に影響はないの?」  抑制剤は全てが全て無害ではない。アルファの物も、オメガの物も、効力が強くなればなるほど内臓や神経に負担をかけたり、副作用が出たりすると言われている。それが心配になって様子を窺えば、今日のエドアルドは少々顔色が悪いように見えた。 「少し怠いぐらいですから、心配は無用ですよ。それより話を続けましょう。今、貴方が私と一緒にいることは、昨夜の状況とともに既にヴィートに連絡してありますし、彼が戻る明後日の朝まで一緒にいることも了承を得ています」 「ヴィーが? 本当にっ?」 「セイなら予想できると思いますが、確かに最初は難色を示しました。ですが多くのアルファがいる彼の屋敷にフェロモンが開いた貴方を一人で帰すより、私の傍にいる方が安心ではないかと話したら、条件付きで一緒にいることを許してくれました」 「条件?」 「私の抑制剤常時服用と、間違っても貴方を襲わないという誓約を交わすことです」  『約束』ではなく『誓約』という言葉に、ヴィートが渋々頷く姿がすぐに浮かんだ。  ヴィートはああ見えてマフィアの規律を重んじる人間だ。そんな彼に同格のエドアルドが反故にすれば死に直結する誓約を持ち出せば、無下にすることなんてできない。  二人の立場と性格だからこそ成り立つのだと読み切って提示するとは、さすが頭の切れる男だと感心してしまった。 「ですので、セイも安心してこの家で過ごしてください」 「そっか……ヴィーが了承してるなら、僕はここにいた方がいいね」  一番の懸念であるヴィートが許しているのであれば、フェロモンが安定していない今、屋敷にいるよりはこちらにいるほうが安全だ。 「そういえば、あの……男は?」 「さぁ、一応最後に確認した時には息はありましたが、意識はありませんでしたのでそのまま放っておきました。ですので、その後のことは」  エドアルドは男が倒れている隙に用意を済ませ、別荘を出てきたという。 「そう……」  あのプライドの高そうな男が、エドアルドの言葉どおり二度と姿を現さなければいいけれど。ヴィートに昨晩のことが知られた時の恐ろしさを想像し、憎い相手ではあるが安否が心配になってしまう。 「セイ? どうしました、難しい顔をして」 「……ううん、別に何も。えっと、それじゃヴィーが迎えにくるまで、お言葉に甘えさせて貰ってもいいかな?」 「勿論です! 私のファミリーも貴方を歓迎していますから、どうぞ自分の家だと思って寛いでください」 「エドのファミリーが? それは嬉しいな」  自分がヴィート以外の人間に歓迎されるなんて、両親が死んでから一度もなかったため少々むず痒い気持ちになったが、エドアルドに手を引かれて戻った屋敷で紹介された彼の仲間たちは皆、言葉通り優しく、顔を合わせる度にセイに温かな声をかけてくれた。  そんな彼らを見ると、いかにエドアルドがファミリーを慈しみ、そして逆に慕われているかがよく分かって何故か自分のことのように嬉しくなる。  こんな暖かな場所で時を過ごせるなんて夢みたいだ。もしかしたらこの滞在は、魂の番に出会いながらも添い遂げることができない二人に、神様が与えてくれたささやかなプレゼントなのかもしれない。ならば存分に楽しんでしまおうと、セイはいつもの枷を外し、素直な笑顔を浮かべるのだった。

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