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第1話 明生の話(1)
何かの歌詞ではないけれど、13歳の僕には誰にも言えない秘密がある。
その人に出会ったのは、去年、小学校6年生の時だ。夏休み中の10日間だけの、短期水泳教室でのこと。僕は6年生になってもまだ泳げなかった。僕の学校は水泳の授業がなかったから、それでも別に困らなかったのだけれど、翌年通うはずの中学には水泳授業があり、臨海学校なんかもあると聞いた親が慌てて放り込んだのが、その水泳教室だった。
けのび5メートルがせいぜいの僕だったが、10日間の日程を終える頃には25メートル泳げるようになっていた。それを指導してくれたのが、都倉 先生。大学生だと言っていた。都倉先生はとにかくイケメンで、背が高くてカッコよくて、気さくで話しやすくて、男子にも女子にも一番人気だった。
「私、このままスイミングスクール、通おうかな。」水泳教室の5日目ぐらいだっただろうか、休憩の時、女子たちがおしゃべりしているのが聞こえてきた。その中の一人は僕と同じ学校、同じクラスの菜月 で、その発言をしたのも、菜月だった。「都倉先生、超カッコいいんだもん。通えば毎週会えるよね?」
僕はその時、心の中で「その手があったか」と思った。僕も都倉先生ともっと仲良くなりたかった。その感情が、憧れなのかなんなのか、その時はよくわからなかったけれど。
ところが、水泳教室の最終日のことだ。例の菜月が、果敢にも直接、都倉先生の担当するクラスに入るにはどうしたらいいのかを聞いた。僕は全神経を集中させ、その返事に聞き耳を立てた。
「うーん、俺ねぇ、この短期教室だけのバイトなんだよね。普段は大学あるからさ。菜月ちゃんだったら、そうだなぁ、ビギナークラスがちょうどいいと思うよ。水・金の夕方のクラスはまだ空きがあったと思うし。」
菜月は「えー、これ終わったらカズキっちいないのぉ? カズキっちのクラスがいいのにぃ!」と甘えた声で怒ってみせた。学校ではホウキをふりまわして男子を追いかけるような菜月だが、イケメンの前ではこうも態度が違うのか。女って怖え。それにしても「カズキっち」とは馴れ馴れしい。でも、おかげで僕は都倉先生の下の名前がカズキであることが知れた。知れたところで、もう、最終日だった。都倉先生と会えるのも今日が最後かと、僕はひとり心の中で落胆していた。
そのまま夏は過ぎ、秋が来て、僕の周囲は少し雰囲気が変わってきた。僕の小学校は、毎年私立中学を受験する子がだいたい3割ぐらいはいて、僕の時もそんな感じだった。僕は普通に地元の公立中学に進む予定だったが、夏に僕を水泳教室に放り込んだお母さんは、今度は中学受験組との学力の差が開くのを恐れて、僕を塾に入れようとした。ところが、そんな小6の秋などという差し迫った時期では、大手の進学塾には入塾を断られ、結局落ち着いたのは地元に昔からある小さな個人塾で、受験勉強というより普段の学校の授業の補習が目的の、のんびりとしたところだった。授業がない日でも教室は自習室として開放されていたので、共働きの家の子なんかは、放課後の安全な居場所代わりとして使っていたようだ。
入塾して2回目の塾の日、僕は自分の目を疑った。教壇に立っていたのが都倉先生だったからだ。
「あれ、アキオ?」と都倉先生が言った。僕は彼が僕の名前を覚えてくれていただけで、もう飛び上るほど嬉しくなった。僕の名前は明るく生きると書いて明生。塩谷明生 というのが僕のフルネームだ。
その時はびっくりしたのと緊張と他にも塾生がいたのとで、僕は「こんにちは。」しか言えなかった。
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