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【1】恋煩う……①
「せ、せ、征一郎さん……セイチローさん……せいさん……せいいちろ……ううむ」
惣太は病院にある個室のトイレで一人悩んでいた。
ついこの間、伊武からそろそろ名前で呼んでほしいと真面目な顔で懇願された。正直、お互いの呼び方などなんでもいいだろうと付き合う前は思っていたが、実際に付き合ってみると非常に大きな問題だと分かった。
伊武の屋敷には「伊武さん」がたくさんいて、両親や兄弟だけでなく親戚筋にも伊武さんがいる。性別も年齢も皆バラバラだ。そして相手は全員ヤクザ……気軽に呼べるわけでもなかった。
――だからって、伊武って呼び捨てるのも変だしな。
自分の恋人である伊武を確実に呼び止めるためにはファーストネームで呼ぶしかなかった。
「征一郎さん……か」
なんとなく敷居が高い。緊張するというか、要するに恋人的な距離感にドキドキしてしまうのだ。伊武の反応も想像できるだけに気が重かった。
名前を呼んだら、きっと目をキラキラさせながら「先生!」と叫んで抱きついてくるのだろう。そんな時の伊武はちょっとだけ受け止めづらい。愛の過積載にたじろいでしまう。
その伊武は先生呼びのままで大事な所だけ「惣太」と呼んでくる。主に……そんなシーンでだ。呼び名が安定していないのは伊武も同じで、そこは腑に落ちなかったが、惣太の方が呼び方を征一郎さんに変える必要は確かにあった。これまでの喋り方も、だ。
――先生と俺は医者と患者という関係を超えた。だからもっと恋人らしい話し方をしてほしい。甘えたり、時々は可愛い感じも出してほしい。
伊武にそう言われて、また一つ悩みが増えた。
確かに今は、ですます調で話すことが多い。口調が他人行儀に聞こえると言われてしまえばそうかもしれなかった。
惣太は元々口が悪い。もちろん、上級医や患者に対しては常識的な話し方をしているが、それ以外の人に対してはフランクな言葉遣いだ。あまり汚い言葉遣いをすると伊武に嫌われるかもしれない。
一体、どうすればいいのか。
恋人ができたというだけで、日々、悩みが増えていく。
惣太はルールやマニュアルがないことをこなすのがあまり得意ではなかった。
「あー、ホントにどうしたらいいんだー。誰か教えてくれ……」
ぼんやりと溜息をつく。便器に座ったまま、祈りのポーズで自分の両膝に肘を着いた。もちろんズボンとパンツは足首で絡まった状態だ。
「神様~」
個室のトイレで神に祈ったのは一昨年、ノロウイルスにやられて以来だった。
「あー、やっぱり神様なんていないよな。自分でなんとかするしかないか……」
自分の吐いた溜息がピンク色をしていることも、取り巻く空気がキラキラと輝いていることも、惣太自身は全く気づいていなかった。
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