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第1話

死にたいなんて思わないけれど、 死んだら楽になるんじゃないかなって思い始めたら、心がおかしくなり始めている兆候なのかもしれない。 宇原尚宏の実家は地元では有名な病院を経営していて、両親ともに医者、兄は研修医、弟は医学部生と生粋の医者の家系だ。 しかし彼はといえば医学部を三浪し、ついには尚宏よりも先に弟が医学部に入学する始末。 その状況でも、家族全員が尚宏の気持ちを慮り、受験戦争を勝ち抜いて無事合格を手にした彼の弟でさえ、受験に失敗した尚彦のことを案じ彼の合格をお祝いする会は開かれなかった。 (弟の合格祝いを邪魔するなんて、俺、最悪すぎる……) こんな自分が最低すぎて。そしてこんな自分が惨めすぎて。 どうしようもなく自分という存在が嫌になる。 そんな悲壮感に当てられながら、電車を乗り継いで全然知らない街に来て、 全然知らないビルの上から地面を覗いているけれど、本当は死にたいというわけじゃない。 大体、高い柵を乗り越えて飛び降りるのは困難そうだし。 そこまでして死にたいわけでもない。 俺はただ自分という枷から逃げて、別の誰かになりたいだけなんだ。 別の誰か。 医者にならなくても、周囲の目を気にしなくていい別の誰か。 活躍を期待されない平凡な人間。 普通の家のβとかに生まれていれば俺は幸せに毎日を生きていて、 今頃大学生で彼女を作ったりなんかして、童貞だって卒業できて……… 「へー、童貞なんだ?」 「えっ?? えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええっ?」 背後から突然話しかけられて于原尚宏は飛び上がった。 焦げ茶の色の髪に軽薄そうな雰囲気のその青年は、人懐っこそうな愛嬌を振りまきながら続ける。 「なんかずっと下見てるじゃん? それですごいボソボソ喋ってるし、もしかして自殺するんじゃないかなって思って心配してたんだけど、いきなりの童貞宣言だし」 「さ、さっきの、き、き、きいてたのかっ!?」 「聞いてたっていうか、聞こえてくるから仕方ないよね。 でも良いところの坊ちゃんも大変だなあ。俺なんかひどい家庭カンキョーだから、周囲の期待に応える必要なんてねーし。それにΩだしさー。 まあ、そういう意味では期待に応えてるかも?だけどさ」 「Ωに期待されてることってなんだよ? Ωなんて役に立たないだろ」 吐き捨てるように尚宏は毒を吐いた。 自分の心境をまったく聞かれてしまっていたことへの鬱憤、つまりは八つ当たりだった。 「えー、頭いいのに分かんないのー? まあ、αの童貞だししょうがないか。 Ωはセックスの相手にちょうどいいんだよ? ねえ、試してみる?」 青年は淫らに笑った。厭らしい笑顔。 「試してみる……って」 「もちろん、セックスでしょ?   ラブホはここから歩いて10分くらいのところにあるよ」 「お前と……俺と?」 「興味ないんなら他あたるからいいや。  でもお兄さん、野暮ったい感じだし髪とか切れよって思うけど、 よく見ると目鼻立ちは整っているし、セックスの相手としては面白そうだな。どう?」 青天の霹靂。まさか自分にこんなチャンスが舞い込んでくるなんて。相手は男だけど。尚宏は頭が混乱しつつも、出来るだけ平静を装いつつ考え込んだ。 正直に言えば、これほど決断するのに時間がかかるのは生まれて始めてかもしれない。 興味がある。だけどこの話に乗るには勇気があった。 だけど、その勇気は柵から飛び越えるほどには必要ない。 「…………………いいよ」 尚宏は低い声で応えた。

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