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耳を澄まして、
時は幕末――
永きに渡ってこの地を治めてきた徳川の世が、衰退の一歩を辿り始めた昨今。
今後の世に不安を抱えた町の人々が、そんな憂いを紛らわすように訪れる場所――花街。
「こんな場所に来たところで……、目の前の状況が変わるわけではないでしょうに。寧ろ、悪化しませんか……」
そう毒づきながら辺りを見回しているのは、ここ……京の町で菓子屋を営む東雲家の次男――東雲雨月。
東雲家が作る菓子は近所でも評判で、最近では幕府のお偉方が贔屓にしていると専らの噂だ。そんな菓子屋の息子が、何故昼間から花街に繰り出しているのかと言えば……。
「そう言うなって、雨月。俺の初主演が成功したら美味しい菓子と、何でも一つ言う事聞いてくれるってお兄さんと約束したろ?」
そう言うのは、昔から歌舞伎座の土産物として東雲家を贔屓にしている京家の息子、京弥彦。弥彦は歌舞伎座の跡取り息子であり、雨月とは所謂腐れ縁だった。
「それは、あなたがあまりにもしつこかったからです。大体、なんで花街なんですか……」
「いくら歌舞伎が娯楽だっていったって、今のご時世……不安な事の方が多い。明日には死んでるかもしれない。それを何もかも一時でも忘れるには、酒が一番でしょ」
「酒ではなく、ここは〝女性〟を買う場所じゃないですか。まったく……あなたという人は……」
呆れて物が言えない、と頭を抱えるが、約束してしまったものは仕方がない。自分は武士ではないけれど、不本意とはいえ一度交わした約束を違えることはしたくなかった。
「知ってるか~、雨月? ここで買えるのは、女だけじゃないぞ」
弥彦の言葉を無視して、雨月は少し先を行く。
そんなわけで不本意ながらも、雨月は仕方なく弥彦とともに花街へ繰り出すことになってしまったのだ。
賑やかな街道を歩きながら、目ぼしい見世を物色している弥彦の隣を雨月は無言で着いて行く。自分たちの年齢ならば、女性に目を惹かれることもないわけではないが、なかなか納得のいく女性と出会うことが出来ずにいた。縁談の話が上がらないわけではないが、その度に言葉を濁して丁重にお断りしている。その時に愛情はなくとも、追々育まれていく形もあるだろう。寧ろ、そうして所帯を持つことが普通なのだとも思う。けれど雨月はそういう所帯の持ち方には、どうしても首を縦に振ることが出来なかった。
(……そんなの、相手に失礼じゃないですか)
愛情が育まれなかったらどうするのか。そう考えてしまうからか、『そんな無責任なことは出来ません』と思ってしまう。
「……?」
弥彦の隣を歩いていると、不意に不思議な香りがどこからともなく漂ってくる。香りの正体を確かめようと、弥彦に尋ねてみるがそんな香りはしないという。
「先に行っていてください。私は、この香りの正体を確かめてきます」
そう言うが否や、弥彦の返事を聞くことなく香りを頼りに小道へと入っていく。
「おい……っ、雨月! そっちは……」
◇◆◇
いくつかの角を曲がり、香りだけを頼りにようやく一軒の見世の前で足を止める。
「……ここ、は……」
聞いたことだけはあった。けれど、実際にその目で見るのは今日が初めてだった。
―花街には女だけではなく、男が男の客を取る、陰間茶屋なるものが存在する、と。
どうやら、自分は陰間茶屋街に迷い込んでしまったらしい。辺りを見回すと、同じような見世が何軒も並んでいる。その中でも、特に目を引いたのが今自分が立っているこの見世だ。周りの男娼たちが男の着物を着て張見世の中で座って客を誘っている中、その見世だけは男娼たちに女性の着物を着せ、客を取らせていたからかもしれない。
その中で一人の男娼と目が合う。赤みがかった短髪に、一目で分かるさらりとした髪質。どこか憂いを含んだ、悲しげで大きな瞳。髪の色と同じく、赤い女用の着物。わずかに覗く、肌は白く透き通り、まるで穢れを知らないようだった。ごくり、と唾を呑む。
「……!」
大通りで感じた香り。無意識に香りに引寄せられ、その香りが一層濃くなった時、まさに夢から覚めたような心地だった。これは夢ではなく、現実なのだと、雨月の鼻をくすぐる香りが物語っている。一瞬目の合ったあの赤髪の男娼は、すぐに他の男娼の後ろに隠れてしまったのか、姿が見えなくなってしまっていた。
「お客様、お決まりですかな?」
見世の奥から、楼主が顔を出す。別に自分は、男娼を取るためにここへ来たわけではない。慌てて断ろうと口を開いて、出てきた言葉に自分でも驚いてしまう。
「……そこの彼を。そこの赤髪の彼を……お願い出来ますか?」
「…………」
雨月の言葉に一瞬、楼主は何とも言えぬ複雑そうな表情を浮かべるが、すぐにそれは影を潜め、商売用の貼り付けたような笑顔を浮かべながら雨月を中へと案内したのだった。
◇◆◇
『いやだ…っ、離して! オレは……客なんて……っ』
『いい加減にしろ……ッ、身寄りのない貴様を引き取ってやった恩を忘れたか!』
部屋に通され、こんなことになってしまった自分の愚かさを嘆いていると、何やら廊下が騒がしい。気になって襖に手をかけた―その時。
「「……っ!」」
部屋に入ってきた……というより、無理矢理押し込まれたらしい男娼と派手にぶつかり、そのまま体制を崩し、結果として雨月は彼に押し倒されるような格好になってしまう。
「……っ、あなたは……」
一瞬、驚いて姿を確認することが出来なかったが、彼は自分が指名した男娼だと気付く。
「そ、それでは……お客様、ごゆっくりどうぞ」
逃げるように楼主は部屋を出ていく。
「…………」
「…………」
「……あんなに嫌がっていたのに……、私の上はそんなに心地がいいですか?」
楼主が去った後も、顔を上げず雨月の上に覆いかぶさったままの男娼に雨月は優しく声をかける。
「あなたが私に〝なにもしてほしくない〟と言うのなら、私は何もしません。だから……いい加減そこからどいていただけませんか?」
『身動きが取れなければ、何もされない』とでも思っているのだろうか。頑なに退こうとしない男娼。やがて男娼はゆっくりと顔を上げると、涙を溜めた瞳で雨月を見つめながら、ようやく言葉を発する。
「……ほんとう?」
(……ッ!)
鈍器で頭を殴られたような衝撃。今まで生きてきて、一度も感じたことのない感情。
元より隠してはいるが、雨月は小動物や愛らしい小物には目がなかった。人目を忍んで目ぼしい小物を買いに行っては、部屋の奥底にしまってある。彼との出会いは、新しく愛らしい小物や小動物を見つけた時のそれによく似ているのに、それとは比べものにならない程の感覚。
これを雨月が恋だと知るのは……、もう少し先のお話――
それから少し経ってようやく男娼は雨月の上から退くと、今度はあからさまに雨月から距離を取る。今は彼が来る前、部屋に運ばれてきていたお膳を隔てて、向かい合うようにお互い座っていた。
(この人は……こんなお膳一つで、防衛戦をしているつもりなんでしょうか……)
お膳を隔てて、明らかにこちらを警戒している彼を見ていると、そんなことを思ってしまう。
「なにもしない、と言ったでしょう。私は、東雲雨月と言います。そういえば、あなた……名前はなんと?」
「……そうやってオレを油断させようったって……、騙されないんだからな」
「……馬鹿ですか、あなたは。あなたも同じ男なら分かるでしょう。今の私が、あなたに色事を求めていないことくらい」
彼に言った事は事実だが、彼の香りにあてられる度、自分の中から何かがせりあがってくるような感覚があった。それでもそんな事を億尾にも出さず、平素を装う。
「……なっ、ば……ばかっ、てことはないだろ!?」
反発しながらも、彼が少しだけ警戒を解いたことが分かる。もう一度名前を聞くと、ようやく小さな声で彼は教えてくれた。
「……蛍。水野、蛍」
「いい名前ですね」
そう言って、二人を隔てていたお膳を横に退け蛍と目線を合わせると、自分でも無意識のうちに蛍の頭をそっと撫でていた。蛍は驚いたように、大きな瞳を見開いた後、嬉しそうに目を細める。また、あの匂いがふわりと香った気がした。
「……私は、約束通りあなたに手は出しませんから……水野さん、あなたは適当に時間を潰していてください。時間分のお金は、ここに置いておきますので」
たまたま匂いに誘われ、成り行きでこんな見世に入ってしまいはしたが、もともと雨月に男色の気はない。いまだに何故、こんなにも彼の匂いに引き寄せられてしまうのかはわからないが『これ以上、ここにいてはいけない』と胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。だからなのか。少し急いたように、雨月は部屋を出ようとする。
「……待って! ……もう少しだけ……、ここにいて?」
部屋を出ようと襖に手をかけた雨月の着物の裾を、蛍はそっと掴んで引き留める。
「……何故ですか」
蛍は部屋に来る前、客を取ることを嫌がっていたはずだ。それなのに何故今、自分を引き留めるのか。
「……え?」
「あなたは……、客を取りたくなかったのでしょう? 私が時間より前に帰ってしまったことで、あなたの評判が落ちるようなことにはなりませんから、安心してください」
蛍が近くにいるからだろうか。先刻からの香りが、だんだんと色濃くなってきたような気がする。
「……いいよ」
「……はい?」
香りが強くなって、くらくらと視界が霞んでき始めた時だった。蛍の予想だにしていなかった言葉に、頭を抱えながら振り返り蛍を見つめる。
「……雨月にだったら……、いいよ……オレ……」
そう言いながら蛍はその場で膝をつくと雨月の着てる着物の帯を緩め始める。着物の合わせからのぞく、香りの所為なのか……熱を持ち始めた雨月の自身にそっと布越しから口付ける。
「……っ! な、なに……して……」
「……昔からそうなんだ……。気付かないうちに……男の人でも女の人でも……誘っちゃうんだ。最近じゃ……、三か月に一度くらいは自分でも制御出来ないくらい……シたくなるし……」
今や雨月の自身を覆っていた布は畳の上にはらりと落ち、蝋燭の火が揺らめく薄暗い室内には、独白とわずかな水音。そして、雨月の苦し気な吐息だけが響いていた。
◇◆◇
「……匂いが……する。って言われた。お前は、いい匂いがするって。その匂いで、誘ってるんだろうって。全然知らない人からも……そうやって言われて。ここに売られてからも、そうやって言ってくる人はいっぱいいて……」
「……水野さん……」
両手でゆっくりと雨月のモノを扱いたり、時折口をつけたり……たどたどしくする様は、今までそれだけの目にあいながら、必死に抗って、自分の道を歩もうとしてきた結果なのだろうと思う。
「……私……、以外で……、こういうことをした経験はないんですか……?」
「……ない」
少しの沈黙のあと、蛍はそう答えながら首を振る。
「……ここに来て、指名されても……逃げたり……、暴れたりしてたから……」
先刻、外で雨月が蛍を指名した時、楼主が何とも言えないような顔をしていたのはそのせいだろう。
「じゃあ、何故!?」
初対面の自分に、何故今まで守ってきたそれを崩したのか。慣れない快感に顔を歪めながら、それでも雨月は叫ぶように問うた。
「……うづきは……雨月は、俺を見ても……襲わなかっただろ……。でも……辛そうにしてるのは分かったから……」
「……つまり……、水野さんは……私に同情して、こういうことをシた。ということですか?」
腹が立った。『雨月だったら、いいよ』あの言葉の真意が、信頼ではなく『雨月が辛そうだったから』という同情だったことに。
「分かりました……。あなたが私に同情して、こういうことをシたというのなら、最後まで付き合ってもらいますよ」
「……っ、ちがう!」
強引に蛍の腕をつかむと、そのまま部屋の隅に敷いてあった布団へ蛍を引き倒す。
「……痛っ」
何故初対面である蛍に同情されて、こんなにも腹が立つのか雨月自身にも分からなかった。大体、誰かにこんな風に腹を立てること自体、雨月にとっては珍しい事だった。
「……何が違うというんですか。私は、確かにあなたのその〝香り〟に引き寄せられましたが、それでもあなたに何かをしようとは考えていませんでしたよ。それ「……げほっ……こほっ……」」
蛍を布団に組み敷きながら怒りを露わにしていると、不意の咳で蛍の様子がおかしい事に気付く。
「……みずの、さん……?」
「……だい……げほっ……じょ、ぶ……けほっ、こほっ……だか、ら」
喉がひゅーひゅーと音を立てているのが、わずかながら聞こえる。医学の知識は皆無に等しかったが、それでもこの咳が『大丈夫』でないことはすぐに分かった。
「……っすぐに医者を……!」
「ひゅ……っ……げほ…呼ばなくて、いい……」
「ですが……!」
「……その……、かわり……っ、少し……手伝って……」
返事をする間もなく強引に引き寄せられ、蛍に唇を塞がれる。
「……っ!?」
唇の隙間から、ぬるりと舌が入ってきて口を開かされ、ようやく雨月は蛍の意図を理解した。
「……ふっ」
蛍が呼吸しやすいように、蛍の口を覆うようにして空気を送り込む。それからしばらくすると、蛍の呼吸は正常なものへと戻ったようだった。
「……もう大丈夫なんですか」
「うん……、ありがとう雨月」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。その後、長い沈黙を破ったのは蛍だった。
「……オレ、雨月みたいな人に会ったの……初めてなんだ。だから……なんていうか、嬉しかった、んだと思う……。オレは、人を誘うことしか出来なかったから……。いくらオレが拒んでも……誰も、一緒には拒んでくれなかったから……。オレの意思を尊重してくれたのは、雨月が初めてなんだ……」
「……だから、私だったら……いい。と、そういう事ですか?」
雨月の問いかけに蛍は大きく頷く。誤解をして先走ってしまったことに後悔する。そんな雨月の後悔を、蛍は明るく笑い飛ばす。そして、先程応急処置とはいえ……口付けを交わしたからだろうか。ほんのりと顔を赤らめ、躊躇いがちに蛍はこちらへ問うてくる。
「……だから、雨月……俺と、シてくれる? オレ……雨月に触って欲しい……」
視線を畳に落としながら、絞り出すように蛍は言葉を紡ぐ。『触って欲しい』そう言いながらゆっくりと顔を上げた蛍の瞳は僅かに潤んでいて、頬は赤らみ恥ずかしそうに肩を震わせていた。
「……っ、仕方のない人ですね……あなたは……」
そんな風に誘われたら、断れるはずがない。蛍を纏う香りが一層濃さを増し、雨月はその香りに身を委ね、そっと手を重ねる。今度は、優しく。互いのぬくもりを確かめ合うように……。
◆◇◆
「……そういえば、水野さん。あなたは先程、『三か月に一度はシたくなる』と言っていましたね」
「あ……うん。今年に入ってから、かな。急に……。それでオレ……怖くて怖くて、ずっと部屋に籠ってた……」
「……今までよく無事でしたね、あなた」
その後、諸事を終え布団に寝転び、互いの指を絡めながら雨月は呆れたように言う。『あはは……』と苦笑する蛍を窘めて、もう一つ蛍に問う。
「次はいつですか?」
「……え?」
「三か月周期なのでしょう? 次が来るまで、あとどのくらいか。と、聞いているんです」
「……ああ……えっと……、あとひと月くらい……だと思う」
少し考えてから、蛍はそう答える。
諸事を終えた後……、正確には……蛍の本音を知った後、雨月は一つの決意をした。早急すぎる決断だ、と自分でも思う。それでも、決意を揺るがすには至らなかった。
それからしばらくして、別れの刻。
あからさまに名残惜しむ蛍に、口付けを落として見世を後にする。
「また、会いに来てあげますから……そんな顔しないでください」
「……っ、ほんとうに……また来てくれる……?」
「ええ、約束しますよ。必ず……」
蛍の頭をくしゃりと撫でて、雨月は去っていく。その後姿をいつまでも蛍は見送っていたのだった。
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