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心を澄まして、

 雨月が初めて見世に来たあの日からひと月が経った。あの日以来、雨月は今日まで一度も見世に現れなかった。その頃になると蛍もようやく〝自分の立場〟というものに慣れ、大人しく張見世に参加するようになっていた。それでも客を取ることは躊躇われて、他の男娼の後ろに隠れたりしながら、極力客に捕まるまいとしていた。  毎夜客をやり過ごしながら考えるのは、やはり雨月の事ばかり。 (……雨月のばか……また来るって……言ったのに……)  そう心の中で毒づく。この体質のせいで親からも裏切られ、それでもなんとか頑張ってきて、ようやく心を許せる相手に出会えたと思ったのに……また裏切られるのだろうか……。雨月が初めてだったのだ。自分を拒んでくれたのも、自分を本当の意味で受け入れてくれたのも……。 (だから……オレは……) 「……おい、お前。見世にはしばらく出なくていいぞ」  その日もいつもと変わらず張見世の準備をしていた蛍のところへ、楼主が現れて唐突にそう告げる。 「……ど、どういうことですか……? オレ……捨てられるんですか……」  不機嫌さを隠そうともしない楼主に、蛍は焦りを覚える。今まで、客を取ることを拒んできたせいだろうか。心臓がどくどくと脈打つ。 「……貴様なんぞ、そこらに捨て置きたいところだがな……。お前さんのひと月分の代金を払ってくれたお人がいてな……」 「……ッ!」  楼主の言葉に息を呑む。見世に出なくてよくなったことは喜ばしい限りだが、一体誰が……。立場を受け入れ見世に出るようになってから、何人か客を取った。その中の誰かが、自分を買ったというのだろうか。 (いや、だ……嫌だ……)  見世に出られなければ、雨月に会えなくなってしまう。自分は……雨月の『また、会いに来ます』という、あの言葉だけを信じて今まで頑張ってきたのだ。それなのに……。 「……それは……、一体……誰です、か?」  震える唇で楼主に問う。それに、もうすぐ〝あの期間〟がやってきてしまう。自分の意思とは無関係に起きるアレの間は、誰にも会いたくなかった。自分がどうなってしまうのか……想像出来ないし、したいとも思わなかった。  張見世ならば、見世に出なければ指名されることはない。けれど、〝買い付けられた〟となれば、客は蛍の部屋まで上がってくる。そうなれば逃げ場はなかった。 「……お前は知らなくていいことだ。部屋で大人しくしてることだな。お前のような躾のなっていない、溝鼠を買い付けて下さったお客人に感謝することだ。それと、間違っても逃げようなんぞ思うなよ。そんなことをしてみろ。ただじゃおかんぞ」 「……わかり、ました……」  やっとのことでそれだけ言う。全身に沸き上がる嫌悪感。込み上げてくる吐き気を、なんとか堪える。 (……雨月っ!)  心の中で雨月の名前を呼びながら、ふらつく足取りでどうにか部屋まで辿り着く。 「……っ、は……ぁ……」  息をするのが苦しい。布団に倒れこんで、必死に呼吸を整える。枕元に置いてある発作を抑える薬をなんとか手に取って、飲み下す。これでしばらくすれば楽になるはずだった。 ドクンッ―――― 「……っ、う、あ……」  そんな時だ。突然心臓が高鳴って、一瞬息が出来なくなる。けれど、すぐに『これは持病の発作ではない』と直感する。そう……これは……。 「……ッ、げほ……っ、は……っ……はぁ……はぁ……」  次に息が出来るようになった頃には、身体の熱がじわじわと上がってきて、わずかに着物が擦れただけでも蛍の身体は〝ビクンッ〟と跳ねる。これもある意味で持病なのかもしれないが、医者にかかっても原因が分からない以上、〝体質〟としか言いようがなかった。納まるところを知らないこの欲求は、約一週間続く。 「……っ、あ……んん……っ、ふぅ……ん……んんっ!」  無意識に自身へと手が伸びる。軽く触れただけで、身体が仰け反るような快感。近くに置いてあった手拭いを口に詰めて、声が外へ漏れないようにしながら熱をおさめようと必死になる。自身だけの刺激だけでは物足らず、気付けば胸や後ろにも手を伸ばしていた。 「はぅ……ん……っ……んん……、ぅ……」 (……足り……ない……)  もっと奥に刺激が欲しいのに―足りない。段々と思考が麻痺してきたのか、そんなことを思う。前はここまで酷くなかったはずだ。 (オレ……どうなっちゃうの……?)  次から次へと際限なく溢れて来る欲求と、自分がおかしくなっていく恐怖。その両方がせめぎ合って、涙が零れる。 「……ふ……っ、う……づき……たす……けて……っ」  思わずいない名前を呼ぶ。『雨月は来ない』そう分かっているのに……―― 「……お待たせしてしまって……申し訳ありません、水野さん」 「えっ!?」  そう声がしたかと思うと、確かめる間もなく引き寄せられ、唇を塞がれる。 「……っふ……ん……」  前に一度交わしたソレよりももっと熱くて、優しくも荒々しい口付け。雨月が来てくれたことが何よりも嬉しくて、雨月の首元に腕を回しぎゅっと力を籠める。 「……う、……づき……うづき……お…れ……ふ、オ……レ……」  雨月にしがみつくように抱き着きながら、蛍は言葉にならない声を上げる。  達するには物足りない刺激。雨月のぬくもり、匂い。それだけで頭がくらくらして、熱に浮かされる。譫言のように雨月の名を呼んで、荒い呼吸を何度も繰り返す。 「……ふぅ……は……っ……うづき……うづき……」 「……大丈夫ですよ……水野さん。私はここにいますから……」  以前聞いた時よりも、ずっと余裕のない声音。その声音で蛍は悟る。今まで蛍に引寄せられた人々は、例外なく匂いに魅かれ欲求を押さえることはできなかった。それは雨月も例外ではないのだ。それでも自分を気遣ってか、必死に耐えているのだと。 「……う、づき……っ……、我慢……しないで……っ」  そう雨月に微笑みかけながら蛍は、雨月の自身に手を伸ばす。布越しでも分かる、痛々しいくらいにそそり勃った雨月の自身。蛍はそのまま指を滑らせながら体制を崩し、雨月の自身を口に含む。 「……ッ」  雨月が息を呑むのが分かった。雨月の手が蛍の髪の毛に触れる。快感に耐えているのか、わずかに指が震えていた。雨月が懸命に蛍を離そうとするけれど、蛍も離れまいと雨月の自身を咥えなおす。 「んっ……っ」 「ちょっ……、みず、の……さん……そんな無理……しなくて……っも……」  突然の蛍の行動に雨月は驚きを隠せない。蛍を離そうと彼の髪に触れれば、『気持ちいい』と言わんばかりに嬉しそうに目を細めるばかり。蛍に纏う香りはまるで媚薬のように雨月の身体に沁みわたっていく。 「……くぅ……っ……は……ぁ」  淫猥な水音と共に、先端から付け根まで丁寧に舐め扱かれ……時折当たる歯は、余計に雨月の快感を煽る。  それともう一つ、奇妙な衝動。  自分のモノを、たどたどしく舐め扱く蛍の時々見える首筋。華奢な身体に似合いな、男にしては細めなその首筋から目を離せない。手を触れると、蛍はくぐもった声を漏らす。 (……私は何をしようと? 蛍さんの首筋が綺麗だから? 綺麗だからなんだと言うのでしょう? ……ああ、噛みついてみたいのか……。けれど、何故そんな事を……っ)  快感に耐えながら、湧き上がる衝動の意味を考えるが、答えが出るよりも先に限界が来る。 「……みずの、さん……ッ、……はなして……くだ……っ、も……出そう、なので……」 「……ふっ、ん……んっ……」 「……聞いて、ますっ……!?」  雨月の制止を聞かず、蛍は雨月のモノを口に咥え続ける。強弱をつけながら……先端に吸い付き、裏を舌の先でそっとつつくように。 「……っ」  雨月の肩がぶるっと震える。その瞬間、勢いよく雨月の自身から吐き出された白く濁った液が蛍の喉へと流れ込む。溢れ出たモノは口の端から零れ落ち、咄嗟に離れた蛍の顔にも飛散する。 「……んんっ」 「……みずの、さん……っ」  達した余韻のせいで僅かに霞む視界の中、蛍の姿を捉える。口元から零れる、透明なもの。口元だけでなく、顔や着物……様々なところに飛び散っているそれらは今しがた、自ら吐き出したものに違いなかった。そんなにも自分にこの手の欲求が溜まっていた事に羞恥しながら、自分のもので汚れている蛍の姿が一層美しく見えて雨月は二の句を継げなくなってしまう。 「……うづき……おれ……むりなんかしていないよ……」  雨月以上に苦しそうに肩で息をしながら、蛍は雨月を見据える。 「だから……もっと触ってよ、うづき……」 「……っ、あなたって人は……!」 ここまで衝動的になったのは初めてだ。湧き上がる思いのまま、蛍を乱暴に布団へ押し倒す。 「………痛く……ありませんでしたか……?」 「……痛く、ないよ」  明らかに嘘だとわかる表情。あれだけの衝撃で布団の上と言えど、背中を強打したのだ。『すみません、水野さん』と、謝罪を述べて押さえきれない熱情を吐露していく。 「……自分でも不思議なくらい……冷静でいられないんです……。あなたを傷付けたくはないのに……」  蛍の首元に顔を埋めながら肩を震わせる。 「……こうしている今だって……っ」 「……大丈夫だって言ってるだろ。オレ、身体弱いけど……これでも男だから……そんな簡単に壊れないよ。オレだって雨月に触ってほしい……。『会いに来る』って言ったくせに……オレがこんな風になるまで来ないとか……っ…ずっと……待ってたんだからな……」  せっかくどうにか繋ぎとめていた僅かな理性すら、蛍は簡単に崩していく。頭の中で〝プツン〟と何かが切れるような音を聞いた気がしたその瞬間だった。頭の中が真っ白になり、気付けば蛍の首元に噛みついていた―。 「……っい、痛ぁ……、う……づき……あっ」 「……っ、」  蛍が痛さを堪えるかのように、雨月の背中に立てた爪を立てる。  普段の雨月ならば、ここで手を止めていただろう。けれど、この日ばかりはそんな平静さを取り繕う余裕もなくて、噛み痕から微かに滲む血さえ舌で絡めとる。 「……っ、あとで……わたしを……なぐってくれてかまいませんから……っ」  蛍の呻きにも似た声で、ハッと我に返った。『殴ってくれていい』と蛍に言いながらも、雨月は手を止める事なく、蛍の返事を待たず雨月は蛍のモノへと手を伸ばす。 「……あ…、そこはっ――」  いくら自分の欲求が限界に近いといえど、これ以上痛い思いはしてほしくないと、段階を踏まねば、と辛うじて言い聞かせながら蛍のソレを扱こうと手を伸ばしたのだが……。 「……水野さん……あなた……」  すでにそこは扱く必要もない程、とろとろに溢れていた。それでもまだ足りないと〝ドクンドクン〟と、薄い皮膚の下で血管が脈打っているようだった。 「わ、私のを……その……咥えながら……イったんです……か?」 (……あなたには、敵いませんね……まったく……) 「き……気持ち悪いって思う……?」  まるで捨てられた小動物のような、少し怯えたような瞳でこちらを見つめてくる。 「そんなわけないでしょう……っ」  蛍の仕草でこちらがどれだけ煽られているのかなど、彼には知る由もないのだろう。勿論、そんなことを本人に教えるつもりもさらさら無いけれど。  溢れた蜜を絡め取り、後ろへと手を伸ばす。まだ熱に浮かされている感覚はあるけれど、一度達したからだろうか。先程よりも少しだけ余裕が生まれる。それでも普段の雨月と比べれば、余裕がない事には変わりないけれど。  だからだろう。雨月は〝ある事〟に気付く。 「蛍さん……、あなた……私が来る前、後ろに何か仕込みました?」 「……っ! 何もして、ない……けど、オレ……男なのに、そっちも濡れるんだ……。『女みたいだ』って。オレ……普通じゃないんでしょ? ……う、づき……ごめ「いいじゃないですか?」」 「私は女性の身体の事は分かりませんが、濡れるなら、あなたの中を傷付けずにすみますからね」  呆れられた、とでも思ったのだろう。泣きそうな声音で謝罪を口にしようとする蛍の言葉を優しく遮る。それから『大丈夫だ』と口付ける。  濡れるからと言って、傷付かない保証はない。ぐずぐずに濡れたそこに一本ずつ指を潜り込ませる。 「ひゃっ――!?」  一本入れただけで、蛍は身体を大きく仰け反らせる。中を傷付けないように、ゆっくりと壁を弄る様に徐々に指を増やし、入り口を広げていく。 「あっ、あっ……ふっ……あぁっ……んっ」  生理的な涙を流しながら、蛍は快感に声を震わせる。 「はぁ……あっ、ふぁっ……う、づきぃ……雨月……お、れっ……雨月の……ほし、い……おれの……ナカに……」  無意識なのか、わざとなのか。いや、多分無意識だろう。自分の下腹部に触れながら、熱に浮かされた表情でこちらを見上げてくる蛍。煽られないわけがない。一度収まった熱が再び最高潮に達するには十分だった。 「――……んあぁっ」  蛍の華奢な身体を一気に貫く。 「ひぅあぁっ……ああっ……んっ……あっ、く……ぅ」  艶やかな水音と、色目かしい蛍の嬌声。  ◆◇◆ 「……はぁ……ふ、っ……あぅ……ん……――ッひぅ……あ、やっ……あっ」  少しずつ角度や体位を変えながら、蛍に負担がかからないよう強弱をつけながら律動を繰り返す。 「……水野、さん……つらくは……ないですか……?」  蛍の額にかかった髪を除けてやりながらそう問いかける。蛍の中は想像していたよりもずっと熱くて、蛍が声を上げる度にキュッと締まる。 「……だいじょうぶ、うづきが優しくしてくれるから……」 「……そうですか?」 (本当は……もっと優しくしてあげたいんですけどね……)  自分の中に渦巻く欲求がそれを許さない。  腰の動きを弱めて口付けを交わす。舌を絡め取り、啄むように。 「ふぁ……ふ…っ……ああっ……ねぇ……雨月、なまえ……呼んで? ……オレの、名前……」 「……水野さん」 「ちが、う……っ……ん……あ、っ……したのなま――ひぅっ~~ッ」  雨月の首に腕を回し、熱に浮かされ甘ったるい声音で『名前を呼んでくれ』と懇願する蛍の声が、彼自身の喘ぎ声によって途切れる。彼の大きな瞳が更に大きく見開かれ、雨月の首に回されていた腕は力が抜けてしまったのか、雨月の肩にかろうじて引っかかる程度の力で僅かに震えていた。 (……もしかして?)  雨月は蛍と会わない間に勉強した知識を懸命に引っ張り出す。蛍とはそう年齢も違わないはずだが、自分が主導しなくてはいけない立場なのだから、全くの無知というのは雨月の矜持が許さなかった。 「……ここ、ですか……?」  挿入したまま蛍をそっと抱き上げ、自分の上に座らせる。 「……んっんん……っ、あ……っ……これっ……おく……あた、るっ……っ。おれ……気持ちくてっ……ああっ……壊れちゃっ……ふぅ……あ、ぁっ……」  〝いいところ〟を擦ってやると、今まで以上に中の締まりが強くなる。 「……あっ、……や……やだっ、うづ……き……そこばっか……こす……ひゃ、ぁっ……んんっ……ね、ぇ……うづ……きぃ……なまえ……よんで……うづき……ふ、んん……っ」 (名前なんて、これからいくらでも呼んでさしあげるのに) 「……けい、さん……っ……」  名前を呼ばれた事がよっぽど嬉しかったのか、雨月が蛍の名前を呼ぶ度雨月のモノをより一層締め付ける。 「……けい……さん……っ、そんなに締め付けないで、ください……っ……そんな風にされたら……っ」  一人だけ無様に達することだけはしたくない。蛍に、『堪え性のない奴だ』などとは絶対に思われたくなかった。けれど、そろそろ我慢の限界が近い事もまた事実だった。 「……だって……うづき、が……っ、……同じとこばっか……こするか、ら……!」 「……なっ、……けいさんだって……――っ!」  一際大きな寒気にも似た快感が雨月の背筋を駆け抜ける。どうにか射精を耐えて、蛍の唇に貪るように口付けた。 「……ああっ……っ、オレっ……なんらきちゃうっ……うづ……き……オレ、うづきといっしょに……いっしょに……イきたいろにっ……ああっ」  口付けの合間、快楽に顔を歪ませ、呂律の回らなくなった舌で『こわい』と雨月の背中に回している腕に力を籠める。 「……だいじょうぶ、ですよ……っ」  震える蛍の背中をさすってやりながら、雨月は何とか答える。少しでも気を抜けば、蛍に持っていかれそうだった。  何のためにここまで耐えてきたと思っているのだ。蛍の腰をしっかり据えて、再び律動を速める。 「……けい……さん……、すみません……っ、もう……――ッ」 「……あ……あっ、……ふかっ……は…ぁ、……うづき、うづき……っ、ふ……んぅ……っ~~!―」  行為を終えて、余韻も引いた頃。 「……痛くないですか」  そっと労わるように、雨月は自分で付けた蛍の首元の歯形に触れる。こうして冷静になってから改めて考えてみても、あの時何故『噛みたい』と思ったのか分からなかった。 「うん、もう大丈夫だよ。それにね、オレ少し安心したっていうか……上手く言えないんだけど、雨月に噛まれた時『これでオレは雨月の物になったんだ』って、思ったんだ。だからね、安心したし嬉しかったよ?」 「――っ、あなたって人は……」 (全く、貴方には敵いませんね……)  布団の上で二人寝転びながら、茶屋の者が迎えに来る〝後朝〟の時刻までの残り時間―。 「……えっ! オレを買い付けたの、雨月だったの!?」  蛍は雨月から事の真相を聞いていた。  雨月がこのひと月、蛍の元に通って来なかったのは蛍を買い付けるためであった、と。 「……そうでなければ、私はあなたの部屋にこうして入ることは許されませんよ」  『馬鹿ですか、あなたは』なんて最後に付け足されたけれど、そんなことより雨月が〝自分を買い付けてくれた〟という事実の方がよっぽど嬉しかった。 「……ありがと、雨月……。オレ、見世の仕組ってよく分かってない部分も多いんだけど、【買い付け】とか【身請け】とかって、他の人から『すごく高い』ってことは聞いたことあるんだ……。オレみたいな下の位のやつは分からないけど、それこそ家買えるくら「あなたが気にすることではありませんよ」」  蛍の言葉を遮って雨月はなんでもない風に言う。それが蛍を気遣ってのことなのか、本当に『なんでもない』ことなのか、蛍には分からなかった。 「けれど……、またあなたには寂しい思いをさせてしまうかもしれませんね」 「え……?」 「……実家の家業が忙しくなってしまいそうで……。ここにはまた暫く来られなくなりそうなんです」  露骨に寂しがる蛍を余所に、雨月は淡々と話を進めていく。 「ここには来られなくなりますが、次来られるようになるまでの代金は、見世の者に渡しておきますので安心していただいていいですよ」 「……次は……次は、いつ会えるの?」  『実家の家業が……』と言われてしまえば、蛍にそれ以上追及する術はなかった。 「あなたの〝発作〟がまた出る頃には来られるかと」 『……お客様、そろそろお時間でございます』  雨月が蛍にそう告げたちょうどその時、襖の外から見世の者が雨月を迎えに来た声が聞こえる。 「……っ……雨月、オレは大丈夫だから……仕事……頑張って来て……!」 「蛍さん……」  明らかに無理をしていると分かる、笑顔を浮かべる蛍に雨月は苦笑しながら口付けを一つ落としてやる。 「……いい子にしていてくださいよ?」 「……っな!?」  雨月にからかわれた事に反論しようとする蛍の言葉を聞くことなく、雨月は部屋を出て行く。 ◇◆◇  それからふた月が経ったある日――  雨月が継続して蛍を買い付けたという噂は、瞬く間に見世中に広がっていった。そんな驚きの声が広がる中、それまで客から逃げ惑っていたはずの蛍が、『自分たちよりも早くに買い付けられた』という事実を良く思わない者達の存在も最近は増えつつある。 「蛍、お前……最近全然食べないけど、何か変な物貰ってきたりしてないだろうな?」 「お前のように碌に客も取らない奴を買い付けるなど、よっぽど物好きなお客人なのだろうなあ」 「……っ、そんなこと――っ!」  言葉を最後まで言い終わらず、蛍は厠へ駆け込む。  最近食べても吐いてしまう事が多くなった。食べる前から臭いだけで耐えられない日も多い。それだけではなく、寝ても寝ても毎日異様な程の眠気に襲われたり熱っぽい日が続いたりと、このひと月くらいずっと体調の悪い日が続いている。医者にかかろうにも一人で外出することは叶わず、見世の者に頼んではみたものの『忙しい』の一点張りで誰も取り合ってはくれなかった。  そんなこともあって、今までよりも一層見世に居辛くなってしまい、部屋に籠ることが多くなった。雨月に時折手紙を出して見るけれど、返事が来たことは一度もなかった。  蛍と最後に会ってから気付けば早、ふた月が経過していた。 「……雨月ー、次こっちもいいか? 多分、もう少しで真澄様がいつもの買いに来る頃だと思うから、作っておかねーと」 「それなら先程少し手が空いたので、仕込みは済ませてありますよ」 「流石! ありがとな、助かるぜ雨月」 「……兄さんには店を任せっきりですから、このくらいは手伝わせてください」  蛍の事を伏せて、働きたいと言った雨月に雨月の兄、時雨は何も言わず家業を手伝わせてくれた。 今までは雨月が次男という事もあってか、繁忙期以外は店の手伝いをしなくていいと言われていた。それでも時々、兄だけに任せきりにしているのが申し訳なくて、手伝いを買って出たりしていたが、今の様に長い時間は働かせてもらえなかったのだ。 雨月の兄は童顔と雨月よりも背の低い見た目のせいで誤解されがちだが、雨月よりもずっと頭がいいし、雨月とは真逆の明るい性格。何より周りをよく見ていて、他の人が気付かない事にもいち早く気付く。そんな兄の事だ。『働きたい』と言った雨月が、何か今までとは違う理由でそう言っている事に気付いたのかもしれない。 昼間は家業を手伝い、それが終わると弥彦のところで歌舞伎座の手伝い。雨月は昼夜を問わず働き詰めていた。  全ては蛍のため――。  時折、蛍から手紙が届くことがあった。返事を書こうと思うのに、いざ机に向かうと何を書いていいのか分からなくなってしまう。それに、一度でも返事を書いてしまえばきっと、会いたくてたまらなくなってしまう気がするのだ。蛍の事を考えるだけで、あの匂いがふわりと今でも香る。 「……へい、雨月の旦那にお届け物ですぜ。ここのとこ頻繁ですなあ……。恋文なんて……、私も貰ってみたいものですぜ。それじゃ、確かに届けましたよ、雨月の旦那」 「……ご苦労様です」  渋い顔で手紙を届けに来た飛脚を見送り、一人で自分を待っている蛍に想いを馳せる。 「……なあ、菓子屋の東雲屋ってここ?」 「……え、ええ。何か御入用ですか?」  不意に声をかけられ、現実へと引き戻される。  今の時代には珍しい長身。身なりはきちんとしているのに、彼の纏う空気はそこらの浪人よりも質が悪かった。少し警戒しながら雨月は目の前の男にそう問う。 「まーちゃんが、お菓子買ってきてくれって。『いつものください』って言えば分かるって、まーちゃん言ってた」 「まーちゃん………?」  所謂、愛称なのだろうがそんな当人同士でしか分からない呼び名で『いつものください』と言われても、全く要領を得ないと雨月は頭を抱える。 「……周防真澄だから、まーちゃん。まーちゃん来てる店、ここじゃねえの?」  ようやく理解が追い付く。更に話を聞くと彼は〝湯川伊吹〟と言って、最近周防家に雇われた使用人だと言う。伊吹の言葉を鵜呑みにするのは些か危うい気もするが、売らないわけにもいかず渋々、といった様子で雨月は伊吹に菓子を渡す。 「つっきー、ありがとうな。また来る」 「つ、つっきー……!?」  話の最中に名前を聞かれたので名乗ったが、まさか早速妙な愛称を付けられるとは思っていなった。 「……どうした、雨月? すっげえ形容し辛い顔してるぞ」 「……い、いえ。それより……今しがた、周防家の使用人だと名乗る方がいらっしゃいましたが、兄さん知ってますか?」 「あー、今日からだったのか。なんか、事情があって直接買いに来られなくなるかもって、前言ってたな」 「……そうでしたか」 「……それ、また同じやつからか? 最近よく来るよな~、恋文か?」  雨月の懐にしまわれていた手紙に気付いた時雨が問うてくる。 「こっ、恋文って……に、兄さん!?」 「弥彦さんに聞いたぜー。『雨月が惚れ込んでるのは多分、女じゃねえよ』ってな」 「……なっ!?」  兄の言葉に絶句する。別に隠していたわけではない。蛍を身請けする準備が出来たら、きちんと話をするつもりだったのだ。だが―― (……あの人という人は!) 「ははっ! また変な顔してっぞ、雨月」 「……そ、それは……っ、」 「……いいんじゃないか?」 「……え?」 「お前が誰を好きになろうと、オレはお前の味方だから心配すんなって! それに最近よく来る外国人が言ってたぜ。異国じゃよく分かんねーけど、研究も進んでるらしいじゃんか!」  『一体何の研究なんですか』とは聞けなかった。聞いたところで兄さんは知らないだろうし、自分たちは佐幕派でも薩長派でもないけれど、迂闊に異国の話題を出せる程この辺りの治安は良くはないのだ。 「……ありがとうございます……兄さん。京さんが言ったことは事実ですが、決して隠していたとかそういうことでは……」 「分かってるって! 準備が出来たら、ちゃんとオレにも紹介しろよな!」  慌てふためく雨月を余所に、時雨は明るく笑い飛ばす。どうやら全てお見通しのようだった。

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