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やっと聞こえてくる、

「よっ、雨月。久しぶりだな、元気だったか?」  ある日、演目を終えたらしい弥彦が手伝いに来ていた雨月に声をかけて来る。 「……京さん、お久しぶりですね。お疲れ様でした」  雨月は弥彦の姿を捉えると、露骨に眉をしかめて見せる。 「……そう嫌そうな顔されると、お兄さん傷付くなー……」 「私にこういう顔をさせているのは、あなたが原因じゃないですか」 「…………」  原因に思い当たったのか、今度は弥彦が眉をしかめる番だった。 「……あー……、その……悪かったよ。お前はもう、時雨に話してるもんだとばっかり」 「……兄さんにはいずれ話すつもりでしたし、バレてしまったものは仕方ありません」  遠回しに『もう怒ってはいません』という主旨を伝えながら、雨月は弥彦に向き直る。 「それで……私に何か用件があったのでは?」  今や弥彦はこの歌舞伎界になくてはならない存在。そんな弥彦が腐れ縁とはいえ、演目終わりに観客の目を憚らず、土産物屋で店番をしている自分に話しかけて来るなど本来ならあり得ないことだ。現に二人の周りにはすでに、多くの観客が弥彦の姿を一目見ようと集まってきていた。 『……人気者はつらいね。俺には重たすぎるよ……ほんと』 「……何か言いました?」 「いや、なんでも。それより、雨月。話がある、こっちだ」  弥彦に連れられてやってきたのは、とある居室。 「人払いは済ませてある。ここでの話が、外に漏れる心配はないから安心していい」 「……穏やかな話ではなさそうですね」  今部屋にいるのは雨月と弥彦の他に、もう一人だけ。その顔には見覚えがあった。弥彦と同じく、今やこの歌舞伎界になくてはならない存在で、生粋の女形――伊坂千景。 「東雲雨月くん、君の事を少し調べさせてもらいました」 「…………」 「……千景さんは、ここ最近お前さんが通ってる陰間茶屋の出だよ」  少し張り詰めた空気の中、いつの間に用意したのか酒を片手に弥彦が教えてくれる。 「歌舞伎界では女形の演者を、茶屋に送り込んで修行させたりする。逆にただの男娼を引き抜いたり、な。千景さんは、その後者ってわけだ。先代が、身請けしてきた」 「以後お見知りおきを。……それで話を戻しますが、その陰間茶屋で少し気になることがありまして……」  そう言って千景はあることを話し始めた――  なんでも蛍がいるあの見世は、前々からその界隈ではよくない噂が多かったらしい。そして噂のほとんどは、事実だった。素質のある子供を攫って男娼に仕立て上げたり、客から相場以上の金額を巻き上げたり、人手不足などを理由に外出は疎か、身体の調子が悪くても医者にすらかからせてもらえない。それでも、千景が京家に身請けされた際、京家が圧力をかけたことによって一旦噂は影を潜めたという。 「けれど……、最近になってまた噂を耳にするようになったんです」 「つまり、雨月。お前がどれだけ金を稼いでも、身請けさせてもらえないかもしれないってことだ。それどころか、お前より羽振りがいい奴がいれば、そっちに売られる可能性だってある」 「……っ」  そういう可能性を今まで考えて来なかったわけではない。それでも実際言葉にされてしまうと、途端に不安になってくる。 「見世にいる者から先日手紙が届きました。最近毎夜、水野蛍くんを買い付けようと通い詰めている者がいるそうです」 「……っな!?」 「まだ買い付けられてはいないそうですが、次の期日には間違いなくその方に蛍くんは売られてしまうでしょう。貴方が買い付けを申し出れば、おそらく今の倍は金銭を要求されるはずです」 「……間違いなくお役所案件だが、上はたかだか陰間茶屋なんざに構ってる暇はないだろうな」 「……それは私に水野さんを『諦めろ』ということですか?」  それだけは出来ない相談だ。蛍ほど恋い焦がれる相手に今後出会えるとは、とても思えなかった。同性だとか、世継ぎが出来ないとか、世間の目だとか、そういった物全てを凌駕する程度には蛍を想っているのだ、と最近になってようやく自覚したのだ。 「……その逆だ、雨月。あの茶屋には何人か人を預けてある。そいつらの為にも、ちょっとばかしお灸を据えとかないといけないわけよ」 「……私に一体何をしろ、というのです?」   ◆◇◆  期日の迫った、ある日の夜。 「……水野さんに会わせていただけない、というのは一体どういうことですか?」  弥彦の言っていた通り、期日が切れる数日前に見世を訪れると楼主は悪びれた様子もなく、蛍を他の客に売り渡したと雨月に説明した。 「こちらも商売でしてねえ……。頭金だけでお客様の倍以上の金額をお支払いいただきまして……」 「……それは、契約違反ではありませんか?まだ期日は残っているはずです、水野さんに会わせていただきますよ」  楼主を押し切って、見世に上がり込む。 「お、お客様…お待ちくだせえ!」 バタタタタタッ!! 「う、うづき……っ、助けて……!」 「……け、蛍さん!?」  楼主の妨害を交わし、蛍の部屋へ続く階段を上がろうとしていたまさにその時―肌蹴た着物を手で押さえ、目に涙を浮かべた蛍が階段の上から姿を現す。その後ろからは、見知らぬ男。間違いなく、その男が破格の値段で蛍を買い付けた人物だろう。  足を縺れさせながらなんとか蛍が階段を駆け下りて来る。転びそうになった蛍をしっかりとその腕で支えて抱きとめてやる。 「……オレ……っ、雨月以外嫌だよ……雨月じゃなきゃ……」 「……っ、私だって――って…、今はそれどころじゃありませんよ! 蛍さん、怪我はありませんか?」  雨月の言葉に蛍は大きく頷いて見せる。それを確認すると雨月は蛍を庇いながら再び楼主へと向き直った。 「あなたは大金を積まれれば、誰の客であっても他の客に売り渡すのですか?」 「……どういう意味ですかな?」 「それの意味は、お前さんが一番よく分かってるんじゃねーの?」  見世の暖簾をくぐって優雅に姿を現したのはもちろん弥彦だ。 「あ、あなた様は……っ!」 「……ケイー、見世の裏口は分かるか?」 「えっ…は、はい!」  事の成り行きについていけず、完全に呆けている蛍に弥彦は笑みを口元にたたえたまま告げる。 「じゃあ、雨月と一緒に、裏口まで走れ!!」 「……はいっ!? ……ちょ、ちょっと段取りと……!」  何が起こったのかとか、あの人は誰だったのだろうかとか、分からないことだらけだったが、突如見世に現れた男の言葉で蛍は弾かれたように雨月の手を握ってその場を走り出す。身体の調子は相変わらず悪かったけれど、それよりも今は雨月を助けたかった。雨月と一緒にいたかった。自分はいつも雨月に助けられてばかりだ。自分一人では、自分を守ることも……見世から出ることさえも出来ない。だけど―― (……見世の、裏口!)  騒ぎを聞きつけた他の男娼たちや客が部屋から顔を覗かせている中、脇目も振らず長い廊下を抜け裏口へと向かう。 バンッ! 「えっ……!?」  裏口の戸を勢いよく開け放つと、そこには見世で見たこともない綺麗な男娼の姿。夜風になびく彼の長い髪が、彼の美しさを一層引き立てているようだった。 「なるほど。君が〝水野蛍くん〟ですか」 「あ、あなたは…?」 「私は、昔この見世にいた者ですよ。久しぶりに古巣へ戻ってきましたが、相変わらずここの空気は悪いようですね」 「……千景さん、少々予定は狂いましたが、今は中で京さんが」 「こちらも、外の見張りの方々には少し眠っていただいていますので、今のうちにそこの戸口から……!」 「……すみませんが、京さんをよろしくお願いします……!」 「はい、分かっていますよ。お二人もお気をつけて……」  そう言って千景は踵を返して、今しがた二人が出てきた扉から中へ消えて行く。

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