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小さな、小さな、命の声。
あの晩雨月と蛍の二人は、当初の手筈通り京家の屋敷へと逃げ延びた。あの後、弥彦たちの活躍によって見世の悪事が公にされることとなった。なんでも、今まで重い腰を上げなかったお役所すら、腰を上げざる負えない程の大事件に発展したらしい。結局、雨月からも楼主は通常より高い金額を支払わせていたようで、蛍の身請け金はその差額分を支払うだけで事済んだ。後々弥彦に大笑いされる羽目になったが、結果的にはこれで良かったのだろう。
事件から数日経った、京家のとある居室――
「……え……妊娠、ですか?」
このところ蛍の体調が優れないということで、医師を呼んで診てもらったのだが、その結果は誰しもが予想していないものだった。
「……先生、それは間違いないのですか?」
「…ああ。にわかには信じがたいことではあるが、彼は間違いなく妊娠しているようだ。一定の周期で極度の興奮状態に陥っていたのにも関わらず、雨月くん……君と関係を持った日を境にぴったりと治まったそうだ。原因は不明だが、おそらく動物の発情期と同じような現象なのかもしれん。何せ、前例がない。それ以上のことは私にも分からんよ」
「…………」
誰もが口を閉ざし、何を言うべきか悩んでいるようだった。当然だ。人が動物と同じように自らの意思に関係なく〝発情期〟を迎え、他人を誘い男女関係なく子を孕み、番を見つければぴたりと治まるなど、到底信じられることではない。けれど現に、蛍は雨月との子を授かっているという。蛍に見られる体調などの変化は確かに、聞いた話ではあるが女性が子を身籠った時の症状によく似ていた。
「……どうするんだ、雨月?」
長い沈黙を破ったのは弥彦だった。
「……本当に身籠っているのだとすれば、堕ろすわけにはいかないでしょう」
「……まさか……育てるっていうのか? ケイは〝男〟なんだぞ。こんなことが世間に知られてみろ、お前一人の問題じゃなくなる」
「……それは」
弥彦の言うとおりだ。噂の種にされ、ありもしない話が次々と出来上がり、店の客足が遠のき、経営難に陥って……お家断絶、なんてこともありえるのだ。
「……オレが一人で育てます」
今まで黙っていた蛍が決意を宿した瞳で、そう明言する。
「雨月に迷惑かからないように……どこか遠くにでも行って、オレがお腹の子を育てます! だから、うづ「その申し出は却下です」」
「でも……っ!」
「勝手に変な決意を固めて、勝手に解決しようとないでいただけますか」
尚も言い募る蛍をぴしゃりと遮って、雨月は言葉を続ける。
「……世間体を気にするなら、とっくにあなたから離れていますよ。子供も万々歳じゃないですか。これで東雲家は安泰です」
「……雨月、お前が思ってるほど〝世間〟の目は甘くないぞ」
今まで様々な目にあてられてきたのだろう、弥彦の言葉が重く、雨月にのしかかるようだ。
「私が、そんな噂を凌駕するだけの人間になればいいだけの話です」
(……その自信はどこから来るのかねえ……。俺も、雨月みたいに死に物狂いで手に入れようとすれば、少しくらいは手が届くんだろうか……)
「……時雨にはどう説明するつもりだ?」
一瞬感傷に浸りながら千景を盗み見てみるけれど、すぐに気持ちを切り替えるように頭を振って、もう一つの問題を提示する。
「兄さんには、わた「話は聞かせてもらったぜ!」」
「に、兄さん!?」
「時雨くんじゃないですかー。いつも美味しいお菓子、ありがとうね」
「お前、どうやって入って来たの!?」
討ち入りの真似事のように突如現れたのは、雨月の兄である〝東雲時雨〟。
「普通に入れてもらったぜ? いつもの土産用の商品届けに来たついでに、みんながここにいるって聞いたからさー」
表の番頭には人払いをするように言ってあったはずだ。一体どんな手を使ったというのか。
しかしながら、時雨の登場によって皆どこかホッとした様子だった。時雨が来てから、部屋の中に漂っていたピリピリとした空気はいつの間にか消えていた。
「とにかく……前にも言ったけど、オレは雨月が決めたことなら全力で応援するぜ! お袋とか親父とか……店に来る人とか、近所の人たちにはオレがうまい事言っておくからさ! 人生一度きり。やっぱ、最期は『我が人生、悔い無し!』とか言って死にたいじゃんか」
『それに……』と時雨は言葉を続けた。
最近店に〝ルイス〟と名乗る外国人が頻繁に訪れるという。彼の母国では、蛍の様に男性にも関わらず妊娠する人が増えて来ているが、詳しいことが一切分からず研究が続けられていて、他国で例がないか調べながら各地を周っているそうだ。だから、大丈夫だと。後ろ暗くなどないのだから、前を向いて生きていけ。と、時雨は二人に笑って見せる。
「兄さん……」
死に際の言葉はともかく、時雨に背中を押され雨月の決意はより強固なものへとなった。
(何があっても……)
そして、残る問題は――。
「堕ろすことはしないんだな?」
弥彦が不意に、雨月と蛍に真剣な眼差しで問う。
「「はい」」
「もう一度言うが、世間の目はお前らが思ってるより何倍も厳しいぞ」
「覚悟の上です」
「雨月と一緒だから、大丈夫です」
「…………」
二人の決意を確かめるように、弥彦は二人を交互に見つめる。そして――。
「はあ~……。東雲家には日頃から世話になってるしなあ。……よしっ、ここは京家が責任をもってお前ら二人を匿う。それでどうだ?」
「……い、いいんですか!?」
いくら京家とはいえ、弥彦本人が釘を刺したように、今後世間から厳しい目を向けられることになるであろう自分たちを〝匿う〟など……。
「お前さんたちは何も心配しなくていいさ。お兄さんは、腐れ縁の雨月とその家族を路頭に迷わせたくはないんだよ」
「……っ、ろ……路頭に迷うと決めつけないでいただけませんか!? ですが……その……ありがとうございます、京さん」
目頭に熱いものが込み上げてくる。蛍と二人で暮らすには、どこか遠くへ行かなければならないと思っていた。
蛍を守る為、東雲家を守る為――。
自分はどうなってもいいが、それによって誰かが傷付くのだけは嫌だった。自分のせいで、店が潰れてしまっては長年の兄の夢を壊してしまうことになる。それに、『自分がいなければ、雨月は幸せだったのに』などと蛍に思って欲しくはない。蛍と兄にだけは負担をかけないように、と毎日必死に考えていたのだ。けれど、良案は何一つ浮かんでは来なかった。だから、今回の弥彦の申し出は非常にありがたかった。完全に不安が拭えたわけではないけれど、ひとまず路頭に迷う心配はなさそうだ、と胸を撫で下ろす。
隣に寄り添う蛍の肩をそっと抱き寄せ、『蛍さん、愛していますよ』と、蛍にしか聞こえないような小さな声で愛を紡ぐ。
「……っ~~い、今言わなくたって……!」
「いいじゃないですか。…わ、私たちは〝家族〟になったんですから」
本当はもういっぱいいっぱいだったけれど、蛍にいい格好がしたくて、どうしても背伸びをしてしまう。
「蛍さんからは言っていただけないんですか。年下の私にだけ言わせて……」
「……っな!? お、オレだって……オレだって……」
「〝オレだって〟なんですか」
肩の荷が下りた際の、ほんの冗談のつもりだったのだ――。熟れた鬼灯のように顔を真っ赤にして、蛍は勢いよく立ち上がると叫ぶ。蛍をからかいすぎた、と雨月は一瞬にして後悔するが時既に遅し。
「…オレだって……オレだって……雨月の事、愛してるに決まってるだろ!?」
「おーい、そこのお二人さんさあ……そういうことは頼むから、余所でやってくれないかなあ」
「も、申し訳ございません、京さん……」
「や、弥彦さん…っごめんなさい……!」
口々に謝罪を述べる二人に、弥彦は溜息を一つ吐いて笑って見せるのだった。その笑みは心から二人を祝福している半面、真っすぐな二人をどこか羨むようなそんな笑みにも見えた。
それから数か月――
二人で屋敷内の庭園をゆっくりと散歩しながら、空を見上げる。
やはり女性とは身体の造りが違うせいか、月日が経ってもお腹が目立ってくることは今のところなかった。そして、先日の定期健診の結果も良好だ。
「身体は辛くないですか?」
「うん、大丈夫! 少しくらい身体鍛えておかないと、あとで大変だって言ってたし、このくらい平気だよ」
「くれぐれも無理はしないでくださいね、もう蛍さんだけの身体じゃないんですから」
互いに繋いでいた手を解いて、蛍は雨月の前で大きく腕を広げて見せる。日の光に照らされながら、満面の笑みで自分を見つめる蛍。そのまま日の光に消えてしまうのではないか、そう錯覚させる程儚く、それでいて強く美しかった。
「雨月!」
「なんですか、蛍さん」
「あのね」
「……はい」
「大好き!」
「……私も、大好き…ですよ」
(あの日、オレを見つけてくれてありがとう。今までオレの傍にいてくれてありがとう。これからも、ずっと一緒にいてください! 雨月、愛してます)
(蛍さん、あの日から私を待っていてくれてありがとうございます。他でもない、私を選んでくれてありがとうございます。これからの長い人生、私と共に歩んでください。蛍さん、あなたを愛しています)
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