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不確かに捧ぐ。

それから一刻程経っただろうか。徐々に発情期も収まり、二人は予め用意しておいた手拭いで身体を拭いて、着物に袖を通す。 「…………」  千景が着替えをしている間、弥彦は何も喋らず部屋の隅の椅子に座り、床に視線を落としていた。 「……千景さん」 「何ですか」  薄暗い部屋の中で、千景の冷たい声がよく通る。彼はそんなに大きな声で『何ですか』と、弥彦に問うたわけではない。けれど、弥彦の表情が強張るには十分だった。 「……悪かった」 「弥彦くん。それは何に対する謝罪ですか? 貴方が俺の上になった事? それとも、貴方が私を噛んだ事ですか?」  言葉の端々から千景の苛立ちと、これは憶測だけれど、俺を自分の事情に関わらせてしまった後悔みたいなものが滲み出ているようだった。 「……っ、」  弥彦に背を向けて、着物を着終えた千景は部屋を出て行こうとする。  今回の事態。相手が弥彦である事は想定外だったけれど、屋敷の人間と〝番〟になってしまった場合の事は考えてあった。孕ませられる事も考えていたけれど、ルイスの話では腹の中に射精さえされなければ、発情期中であっても身籠る確率は低いらしい。今回、一度も中に出されてはいない。 (けれど……もう、ここにはいられない……)  弥彦の匂いがいつもと違っていた理由も、諸事中に弥彦が言っていた『αになった』という理由も分からないが、全ての責任は自分にある。この体質のせいで、弥彦の―ひいては京家の未来を潰してはいけない。  戸に手をかける。京家に囲われてから色々な事があった。陰間茶屋の出である自分にはもったいないくらい、恵まれた人生だったと心から思う。そして、ずっとひた隠しにしていた、想いも報われた。そう、ずっと一緒にはいられない。けれど、もう会う事は叶わなくても、愛する人と繋がれた、この一生消えぬ(きず)があれば、その思い出だけで生きて行ける。 「千景さん」  戸を開けて、一歩踏み出そうとした時だった。後ろから弥彦の暖かな腕に抱きしめられる。 「弥彦くん……離して」 「だめだ。アンタ、今この手を離したら、京家(ここ)からいなくなる気だろ」 「…………」 「俺は……アンタを助けたかった」 「……助けたかった?」 「千景さん、アンタが何と言おうが、俺は千景さんに惚れてる。アンタの発情期……年々酷くなる一方だったろ。俺がαになって、アンタと番になれば、少しはマシになるんじゃないかと思ったんだ」 「……俺は、弥彦くんに幸せになってほしいんだ。その相手は……、俺じゃない」  正直に言えば、『惚れてる』その一言が嬉しかった。自分が女なら良かったのに。そうしたら、すぐにこの首を縦に振るのに。 「…………」  千景の答えは予想していた。こちらがどんなに真剣に思いを告げたとしても、千景は俺にとってはくだらない〝世間体〟だとか〝普通の幸せ〟ってのを主張してくる。それが、千景のいいとこでもあるけれど、難儀なとこでもある。 「それは千景さん、アンタが決める事じゃない。前に言ったろ?」 「だけど……っ」 「アンタがいなくなったら、俺はきっと何日も寝込んで、稽古なんかそれこそ出来なくなって、舞台にも支障が出るだろうな。一公演ならまだしも、それが続けば京家の評判は地に落ちるだろうな」 「……脅し、ですか」  千景の肩の力が抜ける。どうやら、とりあえずは引き止める事に成功したようだ。弥彦は千景から離れると、夜風を求めゆっくりと窓際へ向かう。 「脅しに聞こえたんなら上々。それだけ俺にとって、千景さんは大事な人ってことだ」 「弥彦くん。何度も言うけど、君は京家の跡取りで……」 「俺さ、自分に嘘吐くのやめたんだ。そんな事、俺だって散々考えたさ。考えたけど、それ以上にアンタと一緒の未来しか俺は歩きたくなかった。雨月の言葉で気付かされたよ。だから、アンタが俺を嫌いじゃないなら、これからも俺の傍にいてほしい」  振り返って弥彦を見つめる。どこか吹っ切れたように、弥彦の表情は晴れやかだった。  願わくば、弥彦に駆け寄って自分も同じ気持ちだと伝えたい。番なんてものがなくたって、弥彦の隣で生涯を共に生きたい。だけど、今はまだ――。 「……分かったよ、降参だ。京家がなくなるのは困るからね」 「……千景さんの気持ちは?」 「……さぁ、どうでしょう? ただ……まあ、お客様でもないのに、何度も同じ相手に身体を委ねる程、俺は堕ちた人間ではないですよ」 「ははっ。今はそれで十分だ」

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