9 / 9
雨の中で
あの夜、目の前には佐原の顔があった。息を上げる僕を見下ろし、優しく微笑む。大きな手は僕の頬を包み優しく撫でた――
突然響く、椅子を引く音に我に帰った。
隣のテーブルに目を向けると若い男が座っている。まだ大学生とかそこらへんだろう。耳にイヤホンを挿し携帯を弄っている。音楽を聞いてるのか、リズムに乗った様子で、画面になにか文字を打ち込んでる。その姿はやけに軽やかそうに見えた。
懐かしい感覚。自分も大学生の時、彼のように身軽だった。あの頃は毎日が楽しくて、僕の前にはただ平原がどこまでも広がっていた。何もなくどこにでも行き放題。
どこにでも……。
佐原は子犬の飼い主が現れるのを待っていたようだったが、諦めたのか子犬に何かを話しかけながら傘を開いた。ホテルの入り口から歩道へ降りると、懐に入れた子犬を片手で抱いたまま歩いていく。
視界がグンと上がり、同時に後ろで椅子が鳴った。僕は伝票を握りレジに向かっていた。千円札と伝票をレジカウンターへ置いて外へ出る。ビルの外へ大きく踏み出し、地面を蹴った。バシャッと跳ねる水しぶき。
雨が冷たい。雨はどんどん僕に降り注ぎ、染み込んでいく。
黒いスーツ。まだ手は届かない。届かない。行ってしまう。僕は背中に向かって叫んだ。
「佐原っ!」
佐原の足が止まり、振り向いた。目を丸くして僕を見てる。
「充?」
あの時、何度も呼ばれた名前。まだ僕をそうやって呼んでくれるのか。
やっと追いつく。
久しぶりの全力疾走にバクバクと暴れる心臓が苦しいし、荒々しく吐き出す息で喉が熱い。上体を保つのが辛くて膝に手を突き、それでも僕は湧き上がった欲望のまま佐原へぶつけた。
「行きたいんだ。一緒に」
傘もささず肩で息をする僕の言葉に佐原はキョトンとして傘を傾けた。
「そんなに犬好きとは知らなかった」
「えっ……」
佐原はニヤリと笑い、言葉を続けた。
「こいつ、ミツルにするつもりだったけど、他の名前にしなきゃ」
僕は佐原の懐から子犬を取り上げ、抱え込んだ。そのまま一歩踏み出し、トンとその肩へ額を落とす。立ち止まる僕たちに、道行く人々の好奇な視線が投げつけられる。佐原の傘がゆっくりと下りて、それを遮ってくれた。
もう目の前にレールなんてどこにもない。見えるのは佐原だけだ。
顎を持ち上げる。傘の中、僕たちは唇を触れ合わせた。
キスは雨の味がした。
完
ともだちにシェアしよう!