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子犬
今週の土曜日。おそらく、僕は腹を括らないといけない。
結衣をちゃんと安心させてあげないと。
分かってる。去年から、あの降り続いた雨が上がり、梅雨明け宣言のあったその日にちゃんと用意したんだ。用意したまま、未だずっと鞄の中に入っている。
「…………」
本降りになった街の中、歩く人たちをガラス越しに眺めた。
傘をさし俯き加減で足早に歩いていく人。交差点で立ち止まる人。みなそれぞれ目的がある。自分がこれからどこへ行くのかみんなが分かっている。僕自身も……。
信号が赤になり、車が停まる。歩行者の信号が青に変わる。ゾロゾロとスクランブル交差点を思い思いの方向へ歩いていく人々。
その足元を縫うように動く茶色の物体に気づいた。
柴犬の子供みたいな犬だ。迷い犬なのか首輪は見えない。トコトコと道路を渡る犬を振り返りながら、通り過ぎる人たち。交差点を渡ろうとした黒っぽいスーツの人影が立ち止まった。さしていた傘を閉じ、横断歩道の手前で屈む。
……佐原?
声は聞こえない。けど、手を叩き子犬へ呼びかける姿に「おいで」と優しい声が聞こえてくるようだった。子犬は尻尾を振って佐原へ近づいた。佐原は子犬を抱き上げ立ち上がり、辺りをキョロキョロと見回しながらこちらへ近づいてきた。一瞬、呼吸が止まった。でも、雨の中の佐原が喫茶店の中に居る僕に気づくわけがない。
佐原はビジネスホテルの入口に駆け込み、雨をしのいだ。
びしょ濡れなのを気にする様子もなく、スーツのポケットからハンカチを取り出すと、子犬の身体をゴシゴシと拭 ってやる。
子犬は尻尾をブンブン振ってハンカチを噛もうとしていた。遊んでくれると思っているらしい。「こらこら」とあやす佐原の声がやっぱり聞こえてきそうだった。優しい眼差しで子犬の身体を拭いてやると、佐原はスーツの内側に子犬を入れた。
微笑ましい光景。
テーブルに肘を突き、その光景を静かに眺める。いつのまにか、僕の口角はひとりでに上がっていた。
今までこんな風に、佐原を眺めることもなかった。
佐原はしばらく子犬を胸に抱えたまま周りの風景を眺めていた。子犬は懐で佐原の体温に安心したのか、時折佐原を見上げ顔を舐めようとしている。
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