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第3話

葉一(よういち)、お帰り。あら、どうしたのそのビニール傘?」 少年を迎えた母親が、吾輩を見てそう問うた。 少年の家は、漱介のマンションから徒歩で10分ほどの所にあった。未だ降り止まない雨の中、傘をささずに歩いたら大変な惨事であっただろう。 葉一と呼ばれた少年は開いたままの吾輩を三和土(たたき)に置くと、母親に差し出されたタオルで身体を拭いた。 「傘、学校に忘れたんだ。学校出たときは降ってなかったから。でも、駅出てからすぐどしゃ降りになっちゃって」 「買ったの?」 「駅前以外にコンビニないし。雨宿りしてて、貸してもらった」 「誰に?」 「高校の先輩。雨宿りしてたマンションに住んでるのかも。話したこと、ないけど…… 」 葉一は自分の身体を拭いたタオルで、吾輩の傘布を拭いてくれた。 「ちょっと、傘は雑巾で拭きなさいよ」 「だって…… 貸してもらった傘だから。それにほら、ほとんど新品だよ?」 葉一は母親の苦言を聞き入れず、吾輩にまとわりつく水滴をきれいに拭うと、「お腹すいたー」と言いながら母親とともに家の奥へと歩き去った。 なかなかどうして、心根の優しい少年ではないか。 葉一に拭いてもらった傘布が心地よい。 漱介の家にいるときには、濡れたまま傘立てに挿し込まれる格子丸の体が、毎日のように吾輩に密着した。それがひどく落ち着かず、離れたくて身をよじったものだ。 「んだよ、俺だって好きでてめえにひっついてんじゃねぇんだよ!」 悪態つく格子丸の声が思い出された。 もう会うこともないのかもしれぬ。 そう思うと、少し寂しい気もする雨の夕刻であった。 翌日から、葉一は天候にかかわらず、吾輩を常に持ち歩くようになった。 現実の少年は都合よく独り言を呟いたりしないものであるから推測の域を出ないが、漱介に偶然出くわしたら返そうと思ってのことらしい。 同じような傘がたくさんある為か、葉一は吾輩を学校の傘立てに放置せず、毎日教室のロッカーにしまった。ロッカーには他の傘はおらず、吾輩は独りである。静かに過ごす時間は嫌いではなかった筈なのに、浮かない気分になるのは何故であろうか。 「なぁにしょぼくれてンだよ、あぁ?」 そう言って笑う下品なあの男の声が聞こえた気がして、吾輩を一層孤独な心持ちにさせた。 吾輩は葉一に連れられ、何度も家と学校を往復することになった。学校も駅も同じだというのに、彼と漱介はなかなか会う機会がないのである。 葉一は漱介のマンションの前を通り過ぎるとき、いつもドキドキと胸を高鳴らせる。どことも知らぬはずの上階にちらちらと視線をやりながら、吾輩を小脇にギュッと抱える。彼の鼓動と微妙な発熱を、吾輩は体で感じた。 漱介や葉一と違い、吾輩に臓腑はない。だから胸を焦がすことも、高鳴らせることもできない。それなのに、古巣のマンションを見ると葉一の鼓動に同調するように、中芯(シャフト)が震えるように感じるのは思い過ごしだろうか。 葉一が漱介と再会すれば、吾輩も()の家に戻れるだろう。あの家には、「お父さん」や「お母さん」、そして、格子丸がいる。そう考えるだけで、まるで吾輩にも心の臓があるかのような拍動を感じるのであった。

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