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第1話

雨は血の匂いを運んでくる。  梅雨の季節は、彼が呟いていた言葉をよく思い出す。  雨で濡れた草木や土の混じった風、アスファルトの湿った匂いは、どうしようもなく僕の体をざわつかせるんだ。  そのしっとりした甘い声は、静かに降り続ける雨に溶け込み、深い白霧の中へと消えていく。  不思議だね。命の宿る自然と無機物が合わさると、僕が欲しくて堪らない物と似た匂いを発するなんて。そう思わない、時雨……?  掠れた声で苦笑しながら、内から溢れ出ようとする衝動を抑え込もうと、震える両手を必死に強く握り締める彼。全身から汗が雨のように流れ落ちる。  熱い息を吐き出そうと大きく呼吸を繰り返す後ろ姿は、依存症に悩まされる中毒患者のようで。それでも俺を少しでも安心させようと、彼は美しい顔を微笑みで歪ませた。  そんな同い年である主人の言葉を聞きながらも、何も出来ない自分を酷く歯痒(はがゆ)く思ったものだった。  いや、今もそれは変わらない。だからこそ彼が楽になれる為なら、何でもしてやりたいと思っている。それなのに……。   「なんで俺を頼ってくれないんだ。零音(れいん)」  お前が、俺を『餌役』に選んだんだろう?  今日は朝からどんよりとした灰色の曇り空だ。空気も湿気を含み、肌にまとわりついて不快度が増す。  俺、東雲(しののめ)時雨(しぐれ)は、仕えている主人の寝室の前に立っていた。  朝の六時。今頃はまだ主人も夢の中だろう。晴れた日だったなら。運んで来たカートには、主人の朝食が整然と並べられている。俺は顔を引き締め、目の前のドアを叩いた。 「零音様、おはようございます。失礼します」  ドアを開けると、風が中から吹き込んできた。 「おはよう。時雨」  部屋の大窓が開けられ、白いレースのカーテンがふわりと翻る。  朝の仄かな光の中で、既に着替えを済ませた主人が佇んでいた。  零音(れいん)・アレクシス・ドゥ・ヴァランタン。十八才の大学生だ。  髪は柔らかいミルクティー色で、瞳は宝石のような深い青色。鼻筋は高く、肌は白くて滑らかだ。上品な顔立ちが優美な眼差しでこちらを見ていた。 「お早い目覚めですね。余り眠れられなかったですか?」 「うん。昨夜も寝苦しくてね。毎年の事とはいえ、梅雨時は参っちゃうよ」  秀麗な眉を下げ苦笑する彼に、俺は何とも言えない気持ちになりながらも、それを感じさせないように軽く頷いた。 「日本の梅雨は零音様にはきついでしょうが、我慢するしかないですね。お嫌なら海外に逃れる手もありますが」 「夏休みの代わりに大学を休められたら、是非そうしたいね」  気だるげにそう(こぼ)す彼をテーブルに案内し、彼の肩に薄手のカーディガンをそっと掛けた。 「零音様はこの日本を支配するお方ですから、理由もなく出国するのは難しいでしょうが」 「全くだね。よりによって雨の多い日本に住めだなんて、父の命令は理不尽だと言いたいところだよ」  彼は、チラリと意味深な目付きで微笑んだ。 「でも時雨に出会えたから、それは我慢するしかないね」  この世界は歴史的なある事件で、著しく変貌を遂げた。  数百年前、ある生物化学者によって開発されたヴァンパイアウイルスに、人体実験で感染した者達がいた。  その中でウイルスに上手く適合出来た彼らは、類い稀な美貌と長寿の体を手に入れ、頭脳も飛躍的に発達し始めた。更に超人的な能力を開花させた者もいるという。  その後彼らは潤沢な資金力と人心の掌握術を使い、世界を統一へと導いて行った。  現在ヴァンパイアの一族は、各国々の重要な職に任命され、統治している。  零音の父親は全世界統一国連合軍の議長をしている。各国のトップの地位に就いているヴァンパイア達をまとめる役職だ。人間の俺からすれば、偉すぎて雲の上の存在だ。  零音は高校卒業と同時に将来の日本の統治者候補として選ばれ、大学に通いながら国家の仕事をこなしている。  自分は彼の側仕えの立場から、彼の近くでずっと見てきた。彼らは人外の美貌と魅力を持ち、身体はとても強靭で聡明だ。そして一族の絆は信じられない位に強固だった。  今も(なお)一族の中で作られたルールは、恐ろしく厳格に守られている。特に国家間の争いなど(もっ)ての他だ。  この点が、戦いに明け暮れ、平気でお互い騙し合いを繰り返していた過去の支配者達との大きな違いかもしれない。 「今日は講義を受けた後、午後からインペリアルホテルのレストランにて、羽鳥沢様との会合がございますので」 「あぁ、外務大臣と話し合わなければいけない件があったんだったね」 「はい。必ず出席して欲しいとメールが来ております」 「ふぅん……。分かったよ」  彼は視線をずらし、何かを考えてから頷いた。 「じゃあ、時雨の分もスーツを忘れずに用意しておくんだよ」 「はい。それは用意しております」 「この前大学入学の記念にプレゼントしたのだよ。ネクタイも忘れずにね」 「承知しました」 「ふふ。楽しみだね」  仕事でホテルに食事しに行くのが、そんなに嬉しいのだろうか。俺の主人は、時々不思議な考えをする。  ヴァンパイアは、自分達とは違う感性を持っているのかもしれない。そう思いながら、主人の為の食事の用意に取りかかり始めた。

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