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第2話

大学の講義が終わった後、朝から曇りがちだった空から、遂に大粒の雨が降り始めた。  教室から昇降口に着くと、雨で湿った外気が流れ込んできた。草木と土の混じった生命力を孕んだ匂いと、雨で濡れたアスファルトの独特の匂い。  普通の人間である俺には、それだけの変わり映えのしない匂い。しかしヴァンパイアである零音には、全く別の匂いに感じているらしい。 「血の匂いだ……。ぐっ……」  手を口に当て、喘ぐような呼吸を繰り返し始める。不味い、発作だ。 「零音様。俺に掴まって下さいっ」 「時雨……」 「大丈夫です。苦しいでしょうが、余り空気を吸い込まないで下さい。車寄せまですぐですから」 「うん……」  彼を庇うように身体を支え、待機していた車に急いで乗り込んだ。零音を後ろの座席に押し込み、自分も隣に座り雨の空気を入れないように素早くドアを閉めた。  驚いている護衛と心配気に振り返る運転手に目で大丈夫だと合図してから、零音に顔を近づけ、呼び掛けた。 「零音様、具合はどうですか?」 「血が、欲しい……」  閉じていた瞼をうっすらと開け、濡れた青い瞳が切なく訴える。その誘い込むような妖艶な眼差しと魅力的な口唇が薄く開き、誘惑されているのかと勘違いしそうになる。  ごくりと喉が鳴りそうになるのを堪え、落ち着こうと、彼の汗で乱れた前髪をそっと整えた。 「んっ……」  僅かに髪の毛が肌に触れただけでも辛いのか、苦し気に眉が下がる。  俺はボタンを外し、胸元のシャツを広げると、子供の時から何度も繰り返してきたやり取りを、めげずに今回も試みた。 「零音様、俺の血を吸って下さい」  彼は俺の首筋を食い入るように暫くじっと見つめていたが、眉間に皺を寄せながら、わざと視界を遮断するかのように瞼を閉じた。 「要らない」 「どうしてですか?こんなに顔色も真っ青なのに……」  やはり駄目か……。既に知っている絶望感を再び味わいながらも、それでも彼を心配に思う気持ちが益々(つの)る。 「ごめんね」  申し訳なさそうに謝る彼を、反射的になじりそうになる。  拒否するなら、なぜ俺を『餌役』として側に置いているんだ。必要ないなら、早く解約するなり解雇するなり、好きにすればいいじゃないか。  声に出せない心の声は、そのまま汚泥となってどす黒く濁り、心の隙間に染み込んでいく。  ヴァンパイアになった者達は卓越した能力を手に入れた代わりに、ある一つの物に触れると発作を起こし、それに一生悩まされる事になる。  ある者は食べ物に。ある者は植物に。ある者は動物に。接触すると身体が反応してしまう物は、ヴァンパイアによって様々だ。  零音の場合は、雨だった。  純粋な水には反応しないが、硫酸や硝酸などの様々な科学成分を含んだ雨が地上に降り注ぐと、頭痛や眩暈(めまい)など身体に不調を感じ始める。やがて大地が雨で潤され、木々の多い場所でアスファルトが雨に濡れた匂いを吸い込むと、酷い発作を起こしてしまうのだ。  発作を緩和する方法は一つだけ。人間の血液を飲む事だ。  時雨、一生のお願い。僕の『餌役』になって。ずっと傍にいて。  俺は小学生の時、親友だと思っていた零音に、そう懇願された。発作に苦しむ彼を前に、断るなんて出来なかった。  その癖、吸血衝動に苦しむ度に幾ら俺の血を飲めと言っても、彼は決して飲もうとはしなかった。  その度に苛立ち、時には泣きながら怒鳴りつけた俺を見て、零音はすまなさそうにごめんねと謝るだけだった。 「輸血用血製剤を使いますから、少し待っていてください」  やるせない気持ちを押し殺しながら、彼の座席をフラットに調節して寝かせた。  小型保冷庫に常備している血製剤を取り出し、輸血の用意を始めた。 まずディスポーザブル手袋を装着し、輸血バッグと輸血セットを開封して接続させ、彼の手首にチューブを取り付けていく。  すっかり慣れてしまった工程に、一抹の自虐心が沸き起こるが、それでも早く彼を楽にして上げたかった。  彼の手首に針を刺そうとした時だった。  彼の温かい手が、俺の手首に触れた。 「時雨、いつもありがとう。感謝してるよ」  彼の言葉に涙が出そうになったのを、ぐっと堪えて息を止めた。 「そんなの、言われなくたって知っています」  つい強がった言葉を返してしまった俺に、彼は楽しそうに笑った。 「そっか。分かっちゃうのか。流石だね」 「ホテルまで迂回してゆっくり走ってもらいますので、それまで眠って下さい」 「うん。じゃあ、手を繋いでもいいかな?」 「いいですよ」 「時雨が傍にいてくれると、安心する。こんな気持ちになれるのは、時雨だけだよ」 「……」  その言葉を貰うだけでじわじわと嬉しさがこみ上げ、満たされてしまう自分が嫌になる。なんて単純でおめでたい奴なんだろう。  輸血のお陰で発作の症状が和らぎ、正常に治まっていく零音の呼吸を聴きながら、俺は苦笑した。そして無言でお互いの手を繋ぎ、ホテルに着くまで決して離さなかった。

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