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雨上がり
「水嶋、ご苦労さん。今日はもう帰っていいぞ」
「はい、失礼します」
教育実習が始まってからずっと、笠井先生は何食わぬ顔で僕に接し続けている。
あの一夜のことは、もう忘れてしまったのか。いや……あの日先生が土下座した時点で僕も全て終わったと理解し忘れると誓ったのだから、それでいい。
でも時折チクリと胸の奥が痛んでしまう。
病んでいた心臓は良くなったのに、いつまでも僕の心は痛んだままだ。今の先生の姿を見れば決心もつくかと思い、母校に教育実習にやってきたのだが、まだ僕の心は曇天の中でモヤモヤしていた。
「先生!今帰りなのか」
校舎を出て傘をさそうと立ち止まると、水飲み場にいた黒崎から明るい声を掛けられた。
あ……雨やんだのか。
黒崎が陸上のユニホームを着ていることで、ようやく雨が止んでいることに気が付いた。
「そうだけど……それが何か」
「じゃあちょっと部活見て行けよ」
またタメ口だ。
「うん、分かった」
何で断れないのか。
そんなことをグルグルと考えながらも、素直に黒崎の後ろを付いていった。
「先生はさぁ……運動苦手そうだけど、本当は思いっきり走りたいんじゃないのか」
黒崎の明るい茶色の瞳に、じっと探るように覗き込まれて動揺した。
「えっ何でそれを」
「だって先生、時々陸上の部活をあの窓から見ていただろう?」
うわっ……僕が高校時代の思い出に耽って窓からこっそり眺めていたのバレていたのか。無性に恥ずかしいが、開き直るしかない状況だ。
「あぁ見ていたよ。悪いか」
「いや悪くなんてないよ。むしろ嬉しかった。なんか先生が見ていると思うと頑張れるんだよな。先生がいるだけでパワーが出るんだ!」
「はぁ?なんで」
「筒井筒だよ。やっぱりあれは男と男だといいなって思った」
「……どういう意味だ?」
「俺さ、実は水嶋先生の高校時代を知っているから」
「何だって?」
驚いた。突然過ぎだ。でも一体何を見られていたのか。
「いつだ?」
「五年位前かな。紫陽花の咲く通学路を傘もささないでずぶ濡れで歩いていたのは、先生だよな?」
「何で……」
「俺はまだ小学生だったけど印象に残っている。なぁあの時の先生は雨に隠れて泣いていたよな?」
動揺してしまう。泣いていたのは何故だったか、それを思い出すのが怖いから。
「先生の泣き顔が切なすぎて、ずっと忘れられなかった。男の人なのに雨に濡れる紫陽花が似似合いすぎて、少し経ってからそれが俺の初恋だって気が付いたんだ。だから早く先生の背を抜かしたくて早くまた出会いたくて、ずっとここで待っていたんだぜ!なんだろうな?先生ここの制服着ていたから、ここに通えばまた会えるような気がして……先生のこと俺が笑わせてあげたい!」
黒崎は太陽のように明るくキラリと笑っていた。スポーツマンらしい短髪に健康的な白い歯が眩しい。本格的な夏を迎えれば、きっとこんがりと健康的な小麦色に焼ける肌だろう。
僕にとって何もかも眩しい存在だ。
「馬鹿か……男に初恋だなんて!」
これ以上話していると黒崎の引力にどんどん引き寄せられ、はまってしまいそうで怖かった。
「先生の教育実習は残り一週間だな。でももう離さないよ。俺と付き合ってくれよ」
「つ……付き合うって、何を馬鹿なことを」
「本気なんだ。ずっと待っていた。先生はきっと俺と走り出すはずさ!いつまでも紫陽花の傍らで傘をさして濡れているだけじゃ、人生はつまらないだろう!」
まるで何もかも見通されているようだ。
彼の視線が若い情熱で溢れて熱い。黒崎を見ていると僕の高校時代を思い出す。でも彼を見ていると、笠井先生とのことを忘れらる。
明るく強引で、まるで梅雨が明けたばかりの夏の日差しのように眩しい高校生だよ。
お前は……
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