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梅雨明け
信じられないことが起きた。
実習最終日を明日に控えた蒸し暑い夜、一人暮らしの僕のマンションに笠井先生が突然訪ねて来た。先生の躰は雨で濡れ、眼はギラギラと怪しく光っていた。
「なっ何ですか」
「……雫」
酒臭い息で今まで呼ばれたことのない下の名で囁かれ動揺し、その隙に部屋に上がられてしまった。
えっ?頭が付いていかない。
「雫……お前のこと、ずっと忘れられなかった。覚えているだろう?あの日俺と抱き合ったことを」
「そんなこと今更……」
「あの時は俺も若くて安全パイを取ってしまったが、心の底でずっと後悔していた」
手術を終えたばかりの夢溢れる僕を、こっぴどく振ったのは先生だ。
「雫は成長してグンと色気が出たよな。高校時代も綺麗な顔をしていたが、今の雫は大人びてグッとくるよ。再会してから何度もまた抱きたいと」
「やめて下さい!そんな言い方、酷い」
「いいだろう?一度は繋げた躰じゃないか。なぁ雫は俺をまだ好きだから教育実習という形で戻って来てくれたんだよな。それならばやり直さないか。あの日の続きを……お前はもう生徒じゃない。立派な大人だから問題ないだろう、さぁ抱いてやる」
僕の方が未練がましかったはずなのに、これは違う!こんな展開は望んでいない!
職員室の先生の机には奥さんとお子さんの写真が飾ってある。他人の不幸の上の幸せなんて望まない。それにこんなお情けのように与えられる愛なんていらない。なのに気が付けばベッドに押し倒されて、唇を奪われそうになっていた。
「嫌だっ!」
顔を背けると首筋をつーっと舐められ、ゾクッと震えた。
「やめっ!」
先生を力任せに突き飛ばそうとすると、逆に強い力で羽交い絞めにされた。
「つれないこと言うなよ」
このままいいように抱かれるなんて嫌だ!
こんな風に過ぎ去った初恋を辿るのは嫌だ!
どうか先生っ……目を覚まして!
必死に身を捩り抵抗していると、先生のスマホがけたたましく鳴った。
「ちっ!誰だよっ。うわっ茜だ。もっもしもし……あっうん。今?今から帰るところだ。トイレットペーパーとおむつ?分かったよ。ちゃんと買って帰るから」
どうやら電話は奥さんからのようで、何とも気まずい雰囲気が漂った。
ベッドに押し倒され着衣が乱れた僕の姿を見て、先生はようやく冷静になった。
「そのっすまない……酒のせいで魔が差した」
「……笠井先生は、これもあの日のように一時の気の迷いというのですか。でもお陰で吹っ切れました。もう帰ってください。今日のことは誰にも言いません」
「雫……」
「そんな風に呼ばないで下さい。僕はずっと何を見ていたのか。先生が僕に土下座した時点で、あの恋はとっくに消滅していたのに、馬鹿みたいに幻想を追って」
「どうか許してくれ」
「許すも何も……何も始まってない。完璧に終わっただけです」
うなだれて帰って行く先生のことを見送る気がしなかった。
テレビをつけ日常へ気持ちを切り替え、先生が残した酒臭い空気を入れ替えるために窓をガラッと開けると、雨上がりの匂いが立ち込めた。
「雨……やんだのか」
なんだか無性に走りたい気分になった。
走って走って……紫陽花の傍らで傘をさし立ち止まっていた僕から抜け出したい!
紫陽花色のトンネルを駆け抜けて行きたい場所は、あの笑顔が眩しい教え子……黒崎の元だ。そうか……僕はいつの間に黒崎に対して、新しい恋をしていたのか。だから先生には靡かなかったのか。
傘に隠れて見えなかったものが、クリアに見えてくる!
テレビから『関東地方は異例な速さで梅雨明けを迎えた』というニュースが流れて来た。
「先生!こんな所に住んでいたのか」
急に僕を呼ぶ声がしたので見下ろすと、驚いたことに黒崎が透明の傘を持って立っていた。
「黒崎こそ……」
「塾の帰り。ここは俺の通学路だよ。先生なんかすっきりした顔してるな。もしかして……何か吹っ切れた?」
「うん、梅雨が明けたんだよ」
そうだ……梅雨明けだ。
教育実習の終了と共に、きっと僕の世界はガラッと変わっていくだろう!
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