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序章「Days “Shandy gaff”」
――どいつもこいつも、カスばっかだ
最初から、何となく嫌な予感はしていた。大学の長期休暇期間に突入する直前のある夜、交際中の彼女に呼び出された。
場所は、よく一緒に行っていたとある酒場。素っ気ないが腕の確かなマスター、薄暗い店内が二人の気に入りだった。予感が的中しないことを祈りつつ、店に入る。
「あ、……ラムス」
心なしか曇った表情の彼女は、カウンターの隅でカクテルを飲んでいた。そんな彼女に彼、ラムス・ヴァレは軽く手を振って見せた。
「よ。待った? 何だよ、浮かない顔しやがって。どーしたんだよ。……あっ、俺ウイスキーのロックで」
軽く小突きながら、内心穏やかではない心境を隠して横に座る。今まで何度も女性と付き合っては別れを繰り返してきた。今の彼女とはそれなりに長続きしていて、華やかな外見が気に入っていた。
「……ねえ、あのさ。私たち、付き合ってるんだよね?」
「今更どうしたんだっての。お前は、俺の彼女。違う?」
一体どうしたと言うのか。愛情不足なのだろうか、と思い所在無げにカウンターの上で遊んでいた彼女の手に指を絡めようとしたが、その手はあっさり振り払われた。
「そっか。付き合ってるんだ、ね。色々考えたんだけどさ。私もうその関係、終わらせたい。……別れよう、ラムス」
嫌な予感が言葉として具現化した。別れよう。一気に目の前が真っ暗になる感覚に襲われる。
「……は? お前何言ってんの? 俺と別れるってお前、馬鹿じゃねぇの? だいたい」
「馬鹿で結構よ! 私ね、あんたの酒癖の悪さも、頭の悪さも口の悪さも大っ嫌いなの!」
ここまで罵倒されて、黙っている訳にはいかなかった。思わず大声になる。
「お前だって中身の無い女のくせにぬけぬけ言いやがって! 告白してきたのはお前からだったよなぁ、そいつと付き合おうとしたお前の目は節穴じゃねぇか!」
その返し文句に、相手は嫌悪を込めた笑みを浮かべる。
「は? あんたのそういうところも、ちょっと顔が整ってるからっていい気になってるのも本当に大っ嫌い! ……ああ、そうだ。いいこと教えてあげる。私、ラムスが好きで付き合ったんじゃないの。横に並んであたしが目立つ男を選んだけど、あたしの計算違いだった」
勢いよく言い放つと、せいせいしたと言わんばかりに彼女は席を立った。
「お金は払ってあるからお構いなく。じゃあね」
「……おい。待てよ」
ゆらりと立ち上がると、去り際の彼女の肩を掴んだ。
「何よ、言い残したことなんか何も」
言い終えるのを待たず、ラムスは恋人だった女の頬を躊躇いなく張り倒した。一瞬にして、周囲が凍りつく。
「失せろ。目障りだ」
相手はふらつきながらも頬を押さえ立ち上がる。憎悪に満ちた眼差しで睨み付けると「最低」とだけ吐き捨て、走り去っていった。
他の客たちがひそひそとこちらを見ながら何やら話していたが、もれなく睨み付けて威圧すると皆黙りこくった。
一部始終を傍観していたマスターが、ウイスキーを出すと座るように促す。
「これでも飲んで落ち着いて。しかしヴァレさん、またですか」
「るっせーよ。……畜生、やってられっかよ……」
ラムスがこうしてこの酒場で別れ話を繰り出されるのも、こうして騒ぎを起こすのも初めてではなかった。普通なら出入り禁止にでもなってもおかしくはないのだろう。しかし、どこか治安の悪いここでは何とかお咎めなしでいられた。
度数の高いウイスキーを一気に煽る。喉を焼く感覚と、度数の高いアルコールで高揚する感覚とでショックを緩和しようと努める。
「もう一杯」
「あまり飲みすぎませんように」
「るっせぇ……、いいから早く出せ」
酒には強い方だと自他共に認めるラムスだが、やはり酔った感覚を自覚するまでには何杯か酒を煽る羽目になる。それでも結局、しばらく居座って飲み続けてもその感覚を得られないままに酒場を後にした。
まだ、酒が足りない。そこで、近くの店で適当な酒と一緒に酒肴を買って、どこかで仕切りなおそうという結論に落ち着いた。しかし、家では飲みたくなかった。たった一人で酒に溺れるというのも惨めだったし、孤独を嫌でも実感させられるアパートの自室に帰りたくなかった。誰かを部屋に呼んでも良かったのだろうが、先日友人を呼んで馬鹿騒ぎをしたことを思いだす。夜通し騒いだ結果、大家からこっぴどく注意を受けた為、それだけは避けたかった。
まだ開いていた店で適当に品を見繕ってしばらく後、帰り路の途中にある小さな公園がふと目についた。こんな夜中では誰もおらず、ひっそりと静まり返っている。この辺りには住宅もなく、多少騒いでも構わなさそうだ。ここで飲もう、と決めたラムスは、目についたベンチに座ると、買った酒のボトルを開けた。
――あいつも、俺を捨てた。
その事実がじわりと胸を侵食していく。
一浪してまで始まった大学生活、始まった当初は良かった。短距離走が得意だった為、大会に出ては優秀な成績を収め、手放しで評価された。
しかし、脚を痛めてから全てが狂っていった。まず、選手として致命傷を受けた為、引退を余儀なくされた。次に、『陸上選手のラムス』が好きだっただろう人間はどんどん離れていった。もともと陸上競技以外平凡だった成績は、モチベーションの低下からガタガタと落ちていった。
そして、現在。成績不振から留年し、自他共に認める大学の劣等生だ。ルックスには自信があったため女には困らなかったものの、すぐに別れることが多かった。今回は多少長続きしたものの、平均的なカップルのそれに比べたら短い方に違いないだろう。
そこまで走馬灯のように記憶が廻ったところで、一本目のボトルが空になっていると気付いた。適当に開けたプレッツェルを立て続けに頬張りながら、もう一本目の酒を開けた。
付き合ってきた女は皆、嫌いではなかったのに。自分なりに愛してきたはずなのに。何が悪いのか、全く分からない。誰も明確な答えを教えてくれない。自分で考えようとすると、思考が一定の場所で止まって何も考えられなくなる。
「……畜生……!」
苛立たしげに舌打ちをする。ボトルを握りしめる手に、思わず力がこもる。
「どいつもこいつも、カスばっかだ……!」
喚き散らし暴れたい衝動に駆られたが、寸でのところでこらえた。代わりに、空になったボトルを思い切り放り投げた。数秒後、数メートル先で鋭利な音と共に、思い切り瓶が砕けた。飛び散る破片が、何となく綺麗に思えた。
「……はは、全部……壊れちまえばいいのに」
うなだれながら漏れた言葉は、間違いなく今の心境から出た本音だった。全て、壊れてしまえばいい。何もかも壊れれば、きっと穏やかでいられる。現状から逃げ出す勇気も、打破する気力も無いのだから。
不意に、足音が近づいてきていることに気付いた。もしや、先ほどの音で近隣住民が苦情でも言いに来たのだろうか。思わずベンチから立ち上がる。
しかし現れたのは、場に似つかわしくないエレガントなドレスに身を包んだ女性だった。どこかのホステスか何かだろうか。
「こんばんは。どうかなさったの?」
相手はにっこりと、実に穏やかな笑みを浮かべて一礼をしてくれた。話しかけられたくなかったというのに。酒場でしたように思い切り睨みつけて威圧してやったが、相手は全く気にした様子を見せなかった。
「あらあら、随分と荒れているわ。精神的な乱れは、最終的に身体を壊すわよ」
「何が分かるんすか。頼みますから、話しかけないでもらえます?」
そこまで言っても、女は気にした様子もなかった。おもむろに持っていたハンドバッグから煙草を一本取り、喫煙に興じはじめる。
「……貴方ぐらいの歳なら、精神的に穏やかでいられないことくらい多々あるわ。でもね、そうしていると楽しいことも見逃してしまう。そうでしょう?」
「だから! お前なんかに何が分か、……っ?」
痺れを切らして怒鳴りつけてやろうと思ったが、相手の様子を察知して中断せざるを得なかった。どこか抗いがたい雰囲気、どこか浮世離れした空気をまとった女。その視線は、威圧している訳でも無く、ただただ穏やかだというのだからラムスは内心驚いていた。
「……ふふっ。刺激のある生活って楽しいものだけど、刺激ばかりだと却って毒よ」
ふぅ、と紫煙をくゆらせながら妖艶な笑みを浮かべる女。
「別に、貴方がやかましいからお説教をしたくて話しかけた訳じゃないの。そうねぇ。この街に偶然立ち寄ってみて、ここを通りすがったら貴方がいたから、ね? それにいきなりボトルを投げつけていたものだから、ちょっと気になるじゃない」
そこまで告げると、女は興味深げにじっと凝視してくる。女性に見つめられるというのは慣れてはいるが、初対面の、しかも自分より年上の女性がというのはなかなか無い経験だったため、やや気恥ずかしさがある。
「な、何……すか」
「うん、うん……。ふふ。貴方、いいセンスしてるじゃない。その格好、実にあたし好み。顔立ちも端正だし。悪くは無いわね」
「はあ……」
初対面の女に、何故か容姿を褒められた。初めてではないそれは、相変わらず悪い感覚では無かった。もっとも、一歩踏み込まれると性格に関して賛否両論出てくるのだが。
「それに、貴方のネックレスは……ターコイズが使われているし、ピアスの石はペリドットかしら。『憎しみの苦痛の除去』と『願望の達成』だなんて、何か恐れているの?」
更に、アクセサリーにまで言及してくるとは意外だった。身なりには気をつかっているのだから、ここまで踏み込まれると相手のセンスは確かなものなのだろうと思いたくなる。
「石に関しては正解っすね。でも意味合いまでは深く考えてないっすよ。ただ、綺麗だったから選んだだけだし」
そこまで言い、ぼそりと本音が漏れる。
「願望の達成、憎しみの除去……か。それなら憎たらしい奴がいなくて、全部俺の思い通りになる世界にでも行けたらいいんだけど」
その言葉を、女は聞き逃さなかったようだ。ぱっ、と顔を明るくする。
「あら! だったら、アタシの街に遊びに来ればいいじゃない。ここで貴方に出会えたのも何かの縁だし、招待してあげる」
すかさずハンドバッグから封筒を取り、すい、とラムスに手渡した。
「アタシの名前はシェン、城塞都市ジェムの主。別に怪しいものじゃないの。
貴方を招待してあげる。アタシの城、アタシの創り上げた不夜城に。
街は徹底された歓楽街。住人に、金さえ払えば後は好きにしてくれていい。……でも、一週間しか滞在できないから、注意して。
来るか来ないかは、貴方次第よ。まぁ、待っててあげるけどね」
ラムスはごくりと唾を飲み込んだ。神聖なものにでも触れるかのように封筒を受け取り、それを見つめる。
「シェンさん、ですっけ。……何をしても、いいんすよね」
「ええ。お金さえ渡せば、後は貴方にお任せするわ。あと、さん付けなんて堅苦しい。呼び捨てで結構だし、敬語なんか使わないで欲しいわ」
短くなった煙草を口から離すと、律儀に持ち歩いているのであろう携帯灰皿に押し込んだ。もう一本吸うのか、煙草を取ったところでラムスにも一本差し出された。
「ああ、……ども」
元々喫煙者であるラムスは、それを素直に受け取った。火を点けて煙を吸い込む。それで、ようやく少し落ち着けた。十分に肺に煙を送り込んだところで、緩やかに息を吐く。
何をしても、許される街。自分のことを誰も知らないということは、己の情報を誰も知らないということだ。一週間だけなのだろうが、とにかく現実逃避がしたい。長期休暇を、こんな街で過ごしたくはない。かといって、口うるさい両親のいる故郷にも帰りたくはない。ならばいっそ、この話に乗ってしまおう。金銭面は心もとないものの、何とかなるだろう。どうせ時間はあるのだから――。ラムスは封筒を強く握りしめた。
「シェン。あんたの言葉、嘘じゃないんだよな」
「ええ、勿論。アタシの街で、貴方はきっと満足する。アタシの直感だけどね。――あら。もうこんな時間。いい加減お別れの時間ね」
話しながら公園の時計を見ると、少し肩をすくめて見せた。
「じゃあね。……ええと、お名前は?」
「俺? 名前は、ラムス・ヴァレ。……そこまで言うなら、あんたの街に行ってやっていい」
「素直じゃない子ねえ……。まあいいわ。今度はアタシのお城で会いましょう」
ひらひらと手を振ると、女はモデルのような所作で立ち去っていった。それをしばらく見送った後、手にした封筒に目をやる。
城塞都市ジェム。名前だけは話を聞いたことはあるが、まさか城主に会えた上に招待状まで貰えただなんて。封筒には、少々厚みがあった。恐らく詳細などでも入っているのだろう。
それからしばらくの間、紫煙をくゆらせながら酒を飲んでいた。ようやくほろ酔い程度にはアルコールが回ってきてはいるものの、こればかりは酔いからくる幻覚ではないことを祈る。
最後の一口を煽り、煙草を捨てたところで深呼吸をした。ラムスは口元に薄い笑みを浮かべていた。
「はは……。なぁんだ、意外にあっさり現状打破できるんじゃねぇか」
悪いことばかりではないようだ。これが夢ではないなら、きっと運は俺を見放していない。ひとまず帰って、一眠りしよう。彼女と別れたことはともかく、美味しい誘いがきたことが幻ではありませんように。起きたら、一連のことが夢ではないと確認して……。まずは、そこからだ。
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