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歪んだように回り出した歯車は、

 美しい京町屋の立ち並ぶ通りにある、とある一軒の菓子屋の前に一人の男が足を止める。  その男――湯川伊吹は地図と人伝を頼りに、ようやく辿り着いた〝東雲屋〟の前で店の看板を見上げていた。 店主らしき青年に声をかけようとするが、何やら考え事をしているようで、さっきから百面相をしている。それがあまりにも滑稽で、しばらくその顔を見ていたけれど、一向にこちらに気付く様子はない。このままこの百面相を眺めているのも悪くないけれど、出来れば日没までには帰りたい。仕方ないと、伊吹は自分と同じくらいの青年――東雲雨月に声をかけたのだった。 「……なあ、菓子屋の東雲屋ってここ?」 身長はおよそ、六尺。無造作に伸びた髪を適当に一つに縛り、上質な着物を着ているのに、その言動は見た目に似合わず幼さが残るようだ。 「……え、ええ。何か御入用ですか?」 「まーちゃんが、お菓子買ってきてくれって。『いつものください』って言えば分かるって、まーちゃん言ってた」 「まーちゃん………?」 「……周防真澄だから、まーちゃん。まーちゃん来てる店、ここじゃねえの?」 「つっきー、ありがとうな。また来る」  目的の菓子を手に入れ、店を後にする。  少々、無知なフリをしすぎただろうか。主人である、周防真澄が馴染みの店に菓子を買いに来られなくなった理由を、知られるわけにはいかないのだ。それに、東雲雨月というあの青年は、相当用心深いようだ。こちらの正体を明かし、筋を立てて説明して、正攻法でいくよりも、時として『話の通じぬ阿呆だ』と思われた方が、上手くいく事もある。  目的の菓子を手に入れた伊吹は、屋敷に着くと足早に真澄の部屋を目指す。 「まーちゃん、入っていいか?」 「……伊吹くん? うん、いいよ。ちょうど終わったから……」  それを聞いた伊吹は、部屋の障子を片足のつま先でひょいっと開ける。思いの外、勢いがよかったらしい。――バタンッ、と柱に障子がぶつかる音がした。一瞬その音に驚いたように肩を竦めながら、部屋の主である周防真澄は、優し気な笑顔で伊吹を部屋に招き入れる。  屋敷の一番奥、突き当り。それが周防家の嫡男である、真澄の部屋だった。外出は疎か、屋敷の中を自由に歩く事さえ許されない、外出も当主の許可が必要で、それも月に数回許されるかどうか。 「まーちゃんが好きなとこの菓子、買ってきてやったから、後で一緒に食おう? あと、水汲んできたから。なあ、窓開けていーい?」 「ありがとう、伊吹くん。本当は僕が買いに行ければ良かったんだけど」  『僕も手伝うよ』とふらつく足で立ち上がった真澄と、部屋の窓を全開にする。 「……風が気持ち良い」  伊吹から受け取った水の入った湯呑を受け取って、澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むように、真澄は縁側に歩いて行くと、大きく伸びをする。 「……まーちゃん、その恰好でそっち行くなって。あと、風呂入って来ねーと。やることいっぱいあっからな」  部屋の中に充満してる精の臭いに、真澄が羽織っている、よれてしわしわになった襦袢。 「ふふっ、分かってるよ」  それから程なくして伊吹に急かされ、真澄は部屋のすぐ脇に増設された小屋の中にある、風呂場へと向かう。小屋の向かいには厠。そこだけが、真澄が行き来を許された場所だった。本来、真澄の部屋がある場所は、周防家何代目かの当主が、妾を囲うために作らせた部屋だったが、その当人亡き後は長らく使われていなかった。  現・周防家当主―周防(すおう)(はじめ)。兄の特異体質を理由に、周防家の実権を握り、真澄をあの部屋に閉じ込めている張本人だ。 ◇◆◇  事の始まりの全ては十年前――  真澄と創は双子だった。先に生まれたのが真澄。裕福な商家に生まれ、何不自由ない暮らしだった。  二人が九歳になった頃、真澄の身体に変化が現れた。最初に気付いたのは、弟の創だった。『真澄兄さんから、いい匂いがする』それがΩ性特有の物だなんて知る由もなかった。その頃はまだ二人の仲も良くて、他の人とは違う〝いい匂い〟のする兄に、じゃれついてよく匂いを嗅いでいたりもした。しかし、その匂いは日が経つにつれ、段々と濃くなっていった。そして、二人が精通を迎える頃になると、創だけではなく周防家に住む者全てがその匂いを認識していた。 「ぼっちゃん……少しだけですから……ねっ」 「……っやだ。やめて……おねがい……っ」 まだ、発情期こそ迎えていなかったものの、真澄の匂いは周囲の人間を無差別に惑わす。真澄の匂いに充てられて、使用人が真澄に襲い掛かったのも一度や二度ではない。その度に、創は真澄を守ってやった。 「――にいさん!? にいさんに、さわるな!!」 仕事で家を空けがちな両親に代わって、自分が真澄を守らねばと思った。  二人が十二になった頃、ついに真澄が発情期を迎えてしまった。この頃には両親も、事の重大さに気付き、真澄を外部の人間から遠ざけるようになっていた。  とは言え、真澄は優秀だった。将来的にバース性の研究が進むと、Ω性は他の性より劣っているという研究結果が報告されるが、真澄は不思議な事に創や、周防家の親族の子供達よりも、遥かに優秀だった。  そのため、順当に周防家の跡取りは真澄だろうと誰もが疑わなかった。  ところが、ある日その事件は起きた。  それは、真澄が発情期中の出来事だった。真澄は、他のΩよりも匂いが濃く、それのせいか発情期の訪れも不定期で安定しなかった。  まとまった期間の発情期が終わって数日経ったある日、創は真澄の部屋を訪れた。何をしようと思っていたわけではない。一声かけて、真澄の部屋の戸を開けた。それと同時に強烈に香る匂い。 (……っ!? この前終わったばっかりなのに、なんで……こんなっ)  脳が警鐘を鳴らす。けれど、もう遅かった。創が何かを考えるよりも、真澄が何か言うよりも先に、創はたった一つの欲に支配されてしまった。 (兄さんが欲しい――)  真澄の声も届かない。『やめてくれ』と懇願する真澄の声も聞こえぬまま、創は真澄を床に引き倒す。身体中が今まで感じた事がないくらい熱い。抵抗する真澄の腕を無理やり押さえつけて、着物を乱暴に剥ぎ取る。不定期な発情期のせいで、思うように外出出来ないせいか、少しばかり不健康に白い肌。 (……これが兄さんの肌) 「おねがいっ……やめて! ねえ……はじめくんっ、おねがいだから……っ!」  真澄の願いは、創には届かない。熱に浮かされ、焦点の定まらぬ瞳で創は真澄を見つめるだけ。  無言のまま創は、己の自身を取り出すと、前戯もなしに真澄の後孔へとあてがう。発情期中の男のΩが濡れるといっても、孔が広がっているわけじゃない。 「やだっ……いや、いたっ……痛い、やだっ……やめて……かはっ……ああっ!?」  無理矢理の挿入。血が滲む。真澄は創から逃れようとするけれど、力が入らない。感じたくなどないのに。こんな事今すぐ止めて欲しいのに、真澄の身体がそれを許さない。初めて貫かれる感覚に、身体は悦ばずにはいられない。 「……あっ、あん……ああっ」  涙を流し、望まぬ快感に嫌だと首を振りながらも、真澄の身体は快感を求める。  両親は外出中。家の使用人は、この時間この辺りにはいない。何度も中に出される。発情期というのは、恐ろしいものだ。本人達にその気がなくても、その欲は無理矢理呼び起こされるのだから。  ようやく使用人達が、二人を見つけた頃には真澄の発情期も収まった頃だった。真澄は気を失って倒れていて、創は正気戻ったようでその場に立ち尽くしていた。  両親の帰宅とともに、二人は呼び出される。両親の顔は険しい。こんな二人の顔は、今まで見た事がなかった。  怖くなった創は、震える唇で捲し立てる。 「母様、父様っ!! これは……その……そうっ、兄さんに急に襲われたんです。お二人も、兄さんの匂いの事は知ってるでしょう!?」 「なっ……ちがっ、違うっ。ぼくは……僕は、そんなことしていません。だけど……あの匂いのせいだから、創くんを悪く言うのは……」 「真澄は黙っていなさい。創、言いたい事はそれだけか」  父親の冷たい一言。母は何も言わず、真澄の手を引く。  それで創は悟る。今、この場に――この家に、自分の味方など一人もいない、と。 (……今まで兄さんを、守ってきたのは僕だったのに……)  真澄以外の人間が、自分を軽蔑したような視線を向けている。  なぜだ、どうして―どろどろと、どす黒い物が胸の中で渦巻く。自分がいなければ今頃兄は、他の連中に犯されていたというのに、何故自分だけがこんな目を向けられなきゃいけない。 「創くんは、昔から僕を助けてくれてました。だから父様、母様、創くんを――」 「真澄、それは今問題じゃない。どんな理由があれ、創がお前にした事実が変わるわけじゃない」  黒く塗りつぶされる様に閉ざされていく世界の中、真澄が懸命に自分を庇っている。それは同じ空間にいるはずなのにまるで、壁に隠れて話を盗み聞きしてるみたいに、くぐもって聞こえる。  結局、周防家に必要なのは兄である真澄で、出来の悪い自分は不必要って事なのだろう。真澄の、あの匂い。実際に嗅いでみれば良いのに。あんなもの、自分の意志で制御出来るもんじゃない。医者にかかっても、兄のそれは病気じゃないというから、解決策もないのだ。僕は何も悪くないのに――

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