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第1話
とあるオフィスビルの三階フロア。
帰宅時間を大幅に過ぎた午後八時のフロアの照明はそのほとんど落とされ、一部だけが不自然に明るい。
電話も鳴らぬ静かなオフィスに響くのは指がキーボードを叩く音だけ。
終業時間である午後六時からほぼぶっ続けのこの作業に、さすがにPCの画面を見つめる目も限界だ。
「──やっべぇ。目ぇ超シバシバする」
俺はそう呟いて何回か強めの瞬きを繰り返し、掛けている眼鏡を指で持ち上げ目頭を指でつまむ。
隣のデスクを見ると、つけっ放しのPCに、自分のデスクの上とさほど変わらないレベルの書類が放置されたままだ。さっき「トイレに行く」と言って席を外したままの後輩がいまだ帰って来ない。
「あんにゃろ、サボりやがって」
チッと舌打ちをかまし、大きく息を吐く。
こうして残ってしまった仕事を「手伝います」と申し出てくれただけありがたいことではあるが、こんな面倒な残務処理はさっさと終わらせて帰りたいのが本音だ。
「嘉瀬さん、今の聞こえてましたよ。ちょっと聞き捨てならないですねー」
背後からふいに声が聞こえ、振り向いた先に例の席を外していた後輩の千葉。と、同時にふわりと薫るコーヒーの香り。
「ちょっと、休憩しませんか。根詰め過ぎても効率落ちますし」
千葉がこちらにそっと差し出したコーヒーのカップを受け取った。
「お。意外と気が利くんだな。あんまり遅いから長いクソかサボりかと思ってたわ」
「──酷でぇ」
「悪い悪い」
俺が笑うと、それにつられるように千葉も白い歯を見せて笑った。
無駄に爽やかな笑顔を見せているのは、五つ年下の後輩の千葉。
明るく快活。仕事は真面目にこなし、どことなく愛嬌があり、気配りもきく。部内の評価も上々だ。
ガタイも良く、いかにも体育会系男子という雰囲気で、ルックスは中の上といったところ。社内の女の子からのウケもいいようだが、若い女の子たちに話しかけられると挙動不審になるという、妙なウブさが彼女たちの母性本能を擽るとかなんとか。
俺は密かにこいつに片思い。
まぁ、この男はそんなことにはこれっぽっちも気づいちゃいないだろう。
今ではまるで顔の一部と化した艶消しのシルバーの眼鏡を外しデスクの上に置くと、千葉が淹れてくれたコーヒーに口をつけた。
──ああ、沁みる。
缶コーヒーではなく、給湯室でわざわざ淹れて来てくれたというのもポイントが高い。
さすが気配りの千葉。若いくせによく気が利くのがこいつの特に評価すべきところ。千葉も隣の席に座り、同じようにコーヒーに口をつけた。
「あと、どんくらいで終われそうだ?」
「三十分……いや四十分あれば行けるかなって感じですかね。嘉瀬さんはどうですか?」
「俺も似たようなもんだな。早く終わったほうが遅い方手伝うっつうことで」
「了解です」
ひっきりなしに電話が鳴り、せわしなく人が行き交う昼間とは全く別の場所のように様相を変えた夜の静かなフロアに香ばしいコーヒーの香りが広がって行く。
「嘉瀬さんの眼鏡ない顔、なんか新鮮ですね」
千葉が俺を見つめて言った。笑った口から覗く白い歯と、目尻の皺が愛嬌のある表情をより一層引き立てている。
「あ、何だよ? 意外にイケメンで嫉妬した?」
「や。嘉瀬さん、眼鏡掛けてても普通にイケメンじゃないすか」
「は? そんなん初めて言われたけど」
千葉からの意外な高評価に気を良くする俺。だからといってどうということはない。俺が得した気分になるだけだ。
「嘉瀬さんの眼鏡ってけっこうレンズ厚いじゃないですか。目、かなり悪いんですよね? 見えないってどんな感じなんですか?」
「──は?」
「や。俺、自慢じゃないけど視力両目とも一・二で。その……見えないっていう感覚が理解できないんですよ」
「マジでか。そりゃ、羨ましい限りだな。俺なんて中二からこうだぜ? ──なんて言ったら分かりやすいんだろな。物体が全部ぼんやり見えんのよ」
そう答えると千葉がデスクに置かれた俺の眼鏡を手に取った。
「嘉瀬さんの眼鏡、カッコイイですよね」
「そぉかぁ?」
「掛けてると出来る男度がアップするっていうか」
「何だ、そりゃ」
お世辞だったとしても、千葉の目に俺自身がそんなふうに映っているのだとしたら長年の眼鏡生活も捨てたもんじゃない。
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