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第2話
「これ、ちょっと掛けてみていいっすか?」
「──いいけど、倒れんなよ? 度、かなりキツイから俺の」
大きく頷いた千葉が俺の眼鏡に手を伸ばし、恐る恐るその眼鏡を掛けた。
「うわっ!!」
瞬間、驚いたような声を上げた千葉が眼鏡を外す。
そりゃ、そうだ。目がいいやつが掛けたら一瞬にして目がまわるほどの強度数のレンズだ。余程衝撃だったのか、千葉が驚いた顔のまま目をシバシバさせている。
「何ですか、コレ⁉ これでホントに物見えるんですか⁉」
「見えるんだよ」
「ありえない!」
「それくらい強いレンズで矯正掛けないと見えない視力だってことだ」
そう答えると千葉が心底驚いた顔をした。
「未知の扉開けた感じです、マジで」
「んな、大袈裟な」
本気で驚いている千葉のビックリ顔がまたなんとも言えず可愛いな、とニヤつく俺。オイシイ顔いただきました、と心の中でガッツポーズをする。
「一生縁のない世界だといいな」
俺の言葉に千葉がコクコクと何度も頷いた。
「嘉瀬さんは、コンタクトとかしないんですか?」
千葉が俺の眼鏡を手にしたまま、それをまじまじと見つめる。
それから両手でその眼鏡を天井にかざすように掲げ、これまた恐る恐るレンズを覗き込む。直に掛けるのと違いって距離を取ればクラっとすることもないからか、腕を伸ばしたり縮めたりしながらその見え方を楽しんでいる。
それから回転椅子をツツツ……と移動させて俺から距離を取り、移動した先で椅子をクルクルと回した。
──子供か!
なーに、可愛いことしてんだよ、と突っ込みたい気持ちを抑えてそれを黙認。
「若い頃は併用してたよ。でも最近は面倒で専ら眼鏡専門」
「へえ。でも、いいですね。嘉瀬さん眼鏡似合いますもんね」
「そうかぁ?」
「や。マジカッコいいです!」
お。これまた高評価か? カッコいいなんて言われていい気持ちになるも、ここで馬鹿みたいに浮かれてはいけないのは分かっている。
俺、男。千葉も、男。
千葉が、いわゆるソッチの人間であるなんてこと、まぁ普通に考えて有り得ない。
相変わらず千葉は俺の眼鏡を手にしたまま、回転椅子をクルクルと回している。
しばらくの間そうしていた千葉が、その動きをピタリと止め訊ねた。
「嘉瀬さーん。そこから俺見えますか?」
俺はコーヒーを一口飲んでから、そのカップをデスクに置いた。
俺のデスクと千葉のいる場所まで、せいぜい五メートルといったところか。奪われたままの眼鏡。不自由な視界。見えない目を凝らしてだいたいの距離を目測する。
「まぁ。身体の輪郭とかだいたいの感じは分かるけどな」
「──じゃあ、このへんはどうですか?」
千葉が椅子に座ったままツツツ……とこちらに近づいて来た。
「知ってる人間なら識別はつくが、目鼻立ちまではっきり見えるかって言われたら微妙だな」
例えばここが街の雑踏のような人混みだったらそうはいかないが、オフィスにいる見覚えのある人間くらいならもちろん識別は可能だ。
「じゃあ、このへんは?」
千葉がまた少しこちらに近づいた。
「まぁ。そこも似たようなもん。さっきよりはマシってくらいで」
そう答えると、千葉が大きな目をさらに見開いた。
「マジですか⁉ どこまで近づいたら見えるんですか⁉」
そう訊ねた千葉と俺との距離は、せいぜい二メートルといったところ。
まぁ、裸眼視力一・二の世界で生きている千葉からしたら、にわかに信じられないことなのだろう。
「見えてるよ。言ったろ? 知ってる奴だったら識別つくって」
「じゃあ。顔がはっきり見えるのは?」
千葉が訊ねた。
「あー……、もうちょっと?」
腕組みをしながら考える仕草をすると、千葉がまた回転椅子をツツツ……と滑らせ距離を詰めてきた。
なんなの、それ。動きが可愛すぎんだろ。
「どうですか?」
「や。まだぼんやり」
そう答えると、千葉がまた少し距離を詰める。その差すでに一メートルを切った。
「はー……」
信じられない……とでも言うように真剣に俺を見つめる千葉の顔。段々と表情が険しくなるその顔をみていると、こっちは反対に笑いが込み上げてくる。
これ、黙ってたらこいつはどこまで俺に近づいて来るんだろ? そんな悪戯心が、心の中で芽生えてしまった。
「じゃあ! これでどうですか!」
千葉がまた少し近づいた。
椅子に座り、背もたれにもたれたままの俺の膝と、千葉の膝があと少しで触れそうなほどの距離。
「……まだ、だな。微妙にぼんやり。もちろん、見えるは見えるけどな。輪郭まではっきりっていうとまだって感じ」
少しだけ嘘をついた。
確かに輪郭はぼやけてはいるが、見えないことはない。
千葉の意志の強そうな上がった眉や、意外にも長い睫毛。うっすら伸びて来た髭なんかも。
どうせなら、もう少し近くで、あの長い睫毛や男のわりに弾力のありそうなぷっくりした唇なんかも見てみたい。なんて考える俺は狡いか? 卑怯か?
「じゃあ! これでどうですか!!」
千葉がズイと近づいた。と、同時に俺の方が「──ふは」と先に吹き出した。
──やべぇ。近過ぎ。
これ、あとちょっとでうっかりチュウ出来ちゃうレベルじゃねぇか。
さすがにそれはまずかろうと思い、俺は千葉から少し距離を取った。
「おい、千葉。そろそろ俺の眼鏡返して」
「──あ」
思い出したように俺に眼鏡を手渡そうとした千葉が、手を滑らせ俺の眼鏡を床の上に落とした。カツンと眼鏡が落ちる音が静かなオフィスに響き、
「「あっ!!」」
同時にそれを拾おうとした俺と千葉の頭がゴツン、と重く鈍い音を立てる。
「「い……っ、痛ってぇー」」
これまたほぼ同時に声を発し、タッチの差で眼鏡を拾い上げたのは千葉のほうだった。
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