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第3話

「うわわわ、スイマセン! スイマセン‼」  千葉が慌てたように眼鏡を拾い上げ、それを上下にひっくり返したりしながら破損を確認している。 「や。平気だっての」 「だって。眼鏡って高いんですよね!?」  ──そりゃ、ピンからキリまでだが。いい歳した大人だ。替えなんていくらだって買える。 「まぁ、でも──それは五万くらいしたかな」 「ひぇええ‼」  千葉が青ざめた顔で、さらに眼鏡を隅々まで見つめ、細かい傷や何かを確認している。 「はは。べつに壊れちゃいねぇよ」 「ほんとですか? 何かあったら弁償しますんで」  千葉が恐る恐る両手で眼鏡を俺に差し出した。まるで何かを献上するようなポーズがどこか滑稽で笑いが漏れる。  俺はあえてそれを受け取ることをしなかった。それからコーヒーを片手に千葉を見た。 「嘉瀬さん?」 「おまえ、掛けてや。俺、手ぇ塞がってるし」  実際、塞がっているのはコーヒーを持っている右手のみ。  べつに千葉にそんなことをして貰わなくてもいいのだが、妙に恐縮している千葉を見てたら再び悪戯心が芽生えて来ただけのこと。  千葉が両手で眼鏡のテンプルをそっと広げて、それを俺の耳の辺りに添わせた。 「あれ。なんか、変ですかね? 曲がってます?」  おそらく人に眼鏡を掛けさせるなど初めてなのだろう。  慣れないことに戸惑いつつも、先輩の横暴な命令を忠実にやり遂げようとする千葉が、真剣に俺の顔を覗き込む。  目の前で長い睫毛がフサフサと揺れ、形のいい唇があと数センチで触れそうな距離にある。 「──やべぇな」  無意識に呟いたのと同時に、堪らなくなって千葉に唇を寄せた。  衝動的犯行にしては、一瞬にして考えたと思う。その触れ方はまるで事故を装うように。  目の前の千葉が、一瞬何が起きたかわからないとでもいうように、何度も瞬きを繰り返す。  ここで嫌悪感丸出しにされたら完全にアウト。だが、保険は掛けた。ちょっとフラついて当たってしまっただけだと言い訳すればいい。 「──っ」  だが。千葉の反応は俺の予想とはちょっと違っていた。  千葉の顔がボボボボ、とみるみる赤くなる。  大学の頃から続けているフットサルで日に焼けたその浅黒い肌でもはっきりと分かるほど真っ赤に染まっている。  これは、どう反応すべきか。  千葉がどうしていいか分からないというふうに戸惑いながら視線を逸らす。  おいおいおい。なに、その反応? 「千葉?」 「──あ、え、っと」  なになになに。めっちゃ目ぇ泳いでんだけど。  「……今の、って」 「何が?」  あえてとぼけてみる。この微妙な反応は正直どっちにとっていいのか分からない。  嫌だったのか。事故だということにしたいのか。掘り下げたいのか、なかったことにしたいのか。俺に分かるように反応しやがれ。  なんて思ってみたものの。  千葉が普通にノーマルな男だったと仮定して、事故にしたとしても男、しかも職場の先輩にキスされるとかあまりに衝撃的すぎる心情大人としては察してやれないこともない。 「今──」  そう言いかけた千葉が、言葉を飲み込む。依然、顔は赤いままだ。  だから! その反応、俺はどう捉えりゃいいんだよ。 「……嘉瀬さんは、その」 「は? 何だよ、言いたいことあるならはっきり言えよ」  いや。こいつに振るのは卑怯か。  そもそも自分が仕掛けたことなのに。  いっそ、バラしてしまえばいいのか。このまま見てるだけで何も変わらないのなら、いっそバラして意識してもらうという手もある。 「今、何したかって?──分かるだろ?」  あっさりと白状した。  ま、いいよ。こいつがキモっ!! って思ったとして、今後それをなかったことにしてやれるくらいに俺は大人なつもりだ。事実三十路。立派な大人。 「オエ、って思ったなら口でもすすいで来い」 「──何で」  千葉が戸惑っているような、何か言いたげな表情で俺を見つめる。  デカイ図体して、その子犬のような目は何なんだ! けしからん! 「なんでって──そりゃしたいと思ったから。俺、いわゆるソッチ系っうの? キャッキャウフフな女子より、おまえみたいなガタイのいいゴッツゴツにムラムラくる性癖なんだよ」  半ば自棄っぱちでもあった。  こんなこと言ったら千葉にドン引きされて、避けられた揚句、下手すりゃ明日から職場の人間に白い目で見られることになるかもな。なんて思いながら、もうすっかりぬるくなったコーヒーを一気に全部飲み干した。 「まぁ。犬に噛まれたとでも思って──」  忘れてくれればいいよ、と続けようとした言葉はなぜかいきなり近づいて来た千葉の唇によって塞がれてしまった。 「──っ、ふ?」  おいおいおい。  どうなってんの、と問うよりも早く、千葉の舌が俺の舌を舐め、かきまわし、吸い上げる。  ギシ、と軋む回転椅子。そのまま立ち上がり姿勢を低くしたままデスクに手を付いた千葉に、俺は椅子ごと詰められてしまった。 「……おま」  唇を離し、息を吐いた千葉が未だ真っ赤な顔をして手の甲で唇を拭う。 「──もしかして、おまえ」  千葉が頷きながら、なんともいえない表情を浮かべた。 「嘉瀬さんが、悪いんですよ」 「千葉、女ダメなのか?」 「気づいてなかったんですか? 俺、女子と喋るとき挙動不審なるの」 「や。おまえ、体育会系だろ? 男ばっかりの環境にいて普通に女慣れしてないだけかと……」  なんというか。拍子抜け。まさか、千葉も同類だったという嘘みたいな誤算。 「おまえ、ただ男が好きってだけ? 男なら誰でもいいのかそれとも俺が好きなのか?」  そう訊ねると、千葉が照れくさそうに俺を見て言った。 「それ。そっくりそのまま質問返ししてもいいですか?」

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