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一の1
一人で差すには大きすぎる傘を差して歩いていた。周りには誰もいない。でもすごく惨めな気持ちだった。もう差したくない。
帰り道。国立公園にはたくさんのベンチがあるけれど、特に小さな池の前のベンチが好きだ。素敵な場所なのにいつも人の気配がない。みんな緑に埋もれて見えないのかな。穴場だ。そこで彼女といちゃいちゃしようと思ったのに。
春先になるとベンチの上に藤が咲き乱れ、後に蔦になって雨も通さない屋根を作る。藤の花はもう死んで次は紫陽花が咲く番だ。
それが終われば蓮、秋桜、紅葉、椿……梅、桜、躑躅、菖蒲、藤……それでまた紫陽花。
俺は紫陽花が一等好き。だって最高に雨を楽しんでるから。
雨粒に溶けそうな赤紫、青紫、本紫。
そろそろわたしも咲きたい、って。空にお祈りしたんだろう。
だから今日は雨降り。ってね。
俺、雨が好き。ちびの頃から。ちびは大概雨が好きなんだ。
だって雨具がヒーローみたいで恰好いい。傘の剣、レインコートのマント、長靴のブーツ。どんなに深い水たまりだって怖くない。
好きだったんだけどさあ。
嘘だろ。
こんな土砂降りの日にわざわざ日陰のベンチに座る奴なんか十中十いないと思っていたんだけど。そして俺は超絶孤独にあえて雨に打たれたい気分だったんだけど。
先客がいた。
細身の体で、鶯と薄墨を混ぜたような色の腰までの長い髪をゆるゆるの三つ編みにしている。後ろ姿。
背筋が真っ直ぐで華奢だから老若男女が分からない。体のラインの見えない、ふわっとした白の長いブラウスを着ている。大人ではありそう。だって。
こんな色気は高校生では届かない。それなのに。
透き通るようなレインコートを纏っていた。
なんでここにいるんだろう。紫陽花が。
静かにその人の周りで息づいていた。アンダンテ。
雨音はスタッカートの三分の四拍子。池の水面に零れると波紋を作って錦鯉と一緒に踊っている。香りが。
僅かに身じろぎすると紫陽花がふわと咲き乱れる。ああ。
分かった。
妖精だわ。
今の俺は最高に向こう見ずでやけっぱちでなんでもできてしまう超人なので、初対面の人にも楽々と意味不明に思える言葉を投げかけることができる。俺最強。
ベンチを飛び越えて彼の人の隣に勢い良く座った。泥跳ねなんて怖くない。
「あなたは紫陽花の妖精ですか」
でかい傘を畳みながら言う。これマジで池にぶん投げたい。
隣の妖精はびっくりした様子で俺を見た。目が合った。
時間が止まったかと思った。目が離せない。
だって。今まで出会ったどんな人よりも……。
その人は俺を見据えてちょっと戸惑ったような間をとった後、波紋が広がるみたいにじわじわと笑っていった。あ、まじか。受け入れられた。
目が細められる度に色素の薄い瞳孔が水しぶきみたいにつやつや跳ねて光る。薄い唇は透明な石榴のゼリーを塗ったようだった。
長い睫毛に迷い込んだ雨粒が滑り落ちると星空みたいに煌めく。
紫陽花の香りがする。俺のすぐ傍で。
「恐縮ですが……そうかもしれませんね」
声が俺の全身を滑って体の中に溶け込んだ。女の人じゃない。でも男の人でもない。いや人じゃない。やっぱり。
しかし突然現れた俺の無茶振りに合わせるとは、肝も据わってやがる。
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